第3話 イグニッション


 一月の冷えた朝の事だった。

 研究所のすぐ近くの川辺に人だかりができていた。かつて神田川と呼ばれた小川の周囲に、妙な一塊の群衆と、幾つかの白黒の警察車両が見られた。

「何が起きたんですか」

 綱で簡易的に張られた規制線に立つ、自分から一番近い警官を捕まえて質問した。強面の青年は、白い息をひとつ吐き出して顔を上げつ。おそらくこれまでに何度も、同じ説明をして来たのだろう。うんざりと言った色を滲ませていた。

「はあ、人殺しだよ、ガイシャは技師の男性」

「人殺し。殺人ですか」

「あんたそこの研究所の人か? だったら知り合いかもしれないね」

 背伸びをして、人込みの間から事件現場を覗き込んだ。あまり行儀の良いことではないが、見なければいけない気がした。悪い予感、とまではいかないが、確認しないと気が済まないような居心地の悪さを感じたのだ。

 カメラのシャッターを切る鑑識係と、現場を検分する刑事とに挟まれて、枯草の河原に血をまき散らして横たわっていたのは。

「内山………」

 見慣れた同僚の顔。物言わぬ死体となって、枯れた茶色のイネ科の植物に、埋もれる様にして転がっている。

 言葉と共に息を一つ吐いた。白い塊は薄れ大気へと分解されながら天へと昇っていった。

 それきりひゅ、と呼吸が止まってしまったのだった。



 そのまま何処かへと行ってしまおうかと思った。或いは家へと帰ってしまおうかとも思った。しかし、意識が無に近付くにつれ、足は自動的に研究所へと向いていた。まるでそれは、今私が最終仕上げを行っている打ち上げロケット二段目の誘導装置のようだった。一段目から切り離された二段目は、成層圏のさらに高いところでケロシンと液体酸素のエンジンに点火し、航空自衛隊の隊員から選ばれた七人の飛行士の内の一人を、人類で初めての星空間の人とするはずだった。

 そんなことは良い。門をくぐるときに身体検査があった。事件を受けて警備体制が強化されているのだろうか? でもそんなことは良い。どうでも良いのだ。

 デスクの隣を見た。黒光りするタイガー計算機はそのままで、今にも陽気なあの男が鞄を抱いてその前に座りそうな雰囲気を持っている。ただ、いつもは机の上に散乱しているはずの書類は、今日だけは奇麗に揃えて整えて置かれていた。それがなんだか、一人の人間の死を連想させる静謐さを持っているように感じられて、私の頭は再び、ぼんやりとした事実の混乱に飲まれそうになった。

 曖昧な視界の中でその時、自分の机の上に、一枚のメモが置かれていることに気が付いた。美しい算用数字で、三桁の番号が書かれている。

 頭に強引に血を通わせ巡らせ、電話の受話器を取り上げた。指の震えを力で押さえつけて、回し、離し、回し、離し、回し、離し。あの数字はこの研究所の内線電話の番号に違いない。それだけ理解できるのならば、この場から脱出する理由としてそれ以上を求めない。

「ごめんください、電子電算部門の多田義人ですが」

 リレー音のかすかな響きの後に、受話器の奥から、ある一人の男性の声が聞こえてきた。

「ああ、多田さん。ちょっとお話がありましてね、裏に墓参りにでも、行きませんか」


 ◇ ◇ ◇


 裏庭に出る道には無機質な廊下が続いている。機材や資料の束が山積みになった間を歩いていく間、私の中にはある一つの疑念が生じていた。一歩一歩、硬い廊下を革靴で踏みしめるたびに、まるで、飽和水溶液の中から歪な結晶が生じるように。あのクリスマスの夜の一件を核として、内山の死についての疑問が醸成されていった。

 「あの女に気をつけろ」。後日、何度その言葉について問いただしても、「覚えてないなあ」の一点張りだった内山。あの女とは誰か? 研究所の特に電算部門には女性も一定数いるし、私の部下として多数が働いてもらっている。しかし彼女らの内の誰かという訳ではないだろう。当時、私の周辺に現れていた「気をつけ」るべき「女」と言えば、たった一人しか思い当たらない。

 B-1。自らを米国のスパイと名乗る少女だ。彼女は乗り合わせた都電内で同業他社の人間を即座に射殺し、あまつさえその後も私に接触を図って来た。しかし、気をつけろ、とはどういうことか? 彼女は自分の護衛に付いてくれるんじゃなかったのか? そもそもその話をなぜ内山が知っている?

 思考よりも先に、強く入射する外の光と共に、廊下が途切れた。外開きのガラスがはまったドアを押し開けると、そこには人間の背丈の半分ほどの、ささやかな石の群塔が立っている。

「やあ、どうも」

 丸眼鏡の男性が、穏やかな口調で挨拶した。冬の荒野は冷えるため、黒いジャケットを羽織り、ついでに煙管を咥えている。

 私はそこに居る彼へきちんと向き直った。少なくとも、無下にしていい相手ではない。

「こんにちは、糸川先生」

 そう語り掛けると、彼はにこりと笑って煙管を口から離した。

「急ですまないですね、取り合えず、手でも合わせていきませんか」

 糸川先生につられて、私も石の塔を見た。それは墓石である。宇宙における生物の生存を研究するために、カプセルに封じ込められて、東京発射台からロケットで打ち上げられ、散って行った動物たちのための、無銘の墓石なのである。

「最初のコウタロウは良い子だった。秋田の道川から来た日本犬でね、カプセルに入る最後まで、所員にしっぽを振っていた」

 私は二年前のことを思い出した。所内の食堂の近くで飼っていた彼を、少しずつ狭い檻に移して、最後に入るカプセルの狭い閉鎖空間に適応できるように訓練する。往還できるようになってからじゃないと乗せられないとの職員の強い一致により、再突入殻は改良に改良を重ねられ、遂に犬一匹を生存したまま地球に帰す技術が確立された。

 彼を乗せたオメガ五号ロケットは、無事弾道飛行を成功させた。テレメーターの信号は、彼の力強い生命力を教えてくれた。

 しかし、彼が還ることは無かった。着水した際に発せられるビーコンが、機能しなかったのだ。彼の身柄は太平洋の何処かへと消えたまま、ついに見つかる事がなかった。カプセルを回収するために沖合に出てきていた海上保安庁が、へリまで出して捜索に当たったが、それでも見つからなかった。

 信号途絶、爆発、炎上、気洩れ、爆発。そうして、今までに犬や猿たち五匹の命が犠牲になった。全員に名前が付いていて、全員、可愛がられる存在だった。

「彼らは私たちが殺したのです」

 糸川先生は、平坦な口調でそう言った。今までに何度も口にして、もう擦り切れてしまったかのような声色だった。

「彼らは、科学の発展なんていう、どこまでも愚かな目的の為に死んだのです。私達は、宇宙に行くためのバベルの塔を作っているのですよ」

「バベルの塔、旧約聖書ですか」

 糸川先生は祈りの手を解き、腰を上げて裾を静かに払った。

 風が吹いて枯草が靡いた。関東平野の向こうまで続く湿地の一端が、私たちの目の前に広がっている。ニムロデ王の治めた創世記の世界も、こんな景色が広がっていたのだろうか。

「人間がどこまでも傲慢な時代のモニュメントです」

 先生が見上げる先には、赤と白に着色された東京一号発射台が聳えていた。かつて芝公園があったここには、日本で一番高い塔を建てるという計画があったらしい。戦後、その計画が資金難で取りやめになって、既に工事が済んでいた基礎を流用し、この発射台が作られたのであった。

「バベルの塔は、完成させなければなりません。たとえその先に、人間が人間を核ミサイルで脅し合う、愚かな分断の時代が来ようとも」

「はい」

 宇宙ロケット技術の軍事転用の容易さ。自分の指先から生まれたものが、いつか誰かを害するかもしれないという、罪の意識。

 そして米ソの対立の渦中に、この研究所も巻き込まれている。私の脳裏には、ある一人の少女が思い浮かんだ。その少女と、目の前の冷たい墓石がダブって、少女の幻像の方が消えていく。

「人間を、宇宙に送り込む。それが、死んでいったこの子たちに手向ける、唯一の花束なのですよ」

 糸川先生は、発射台から目を離さずに、そう述べた。

 いや、彼が見ているのは発射台などではないのかもしれない。もっとずっとその先の、誰にも見えない物を見ているのかもしれない。それは、遠くにあって誰も見たことがないという点で、どこまでも宇宙空間に似ている何かなのだ。

 糸川先生はゆっくりと体を回転させ、こちらへと向き直った。風が吹いて、ジャケットの裾が強くなびく。

「今朝無くなった内山君について、お話があります」

 私は唾を飲み込んだ。私の喉のアクチュエーターは、ゆるやかに上下に作動した。


 ◇ ◇ ◇


 夜の東京一号発射台の骨組みに、誰かが腰かけている。

 航空標識灯の赤と緑の光が彼女の左右の横顔を交互に照らしていた。塔の側面に備え付けられた、エレベーターの稼働音が彼女の耳に届くと、食べかけのパンを眼下へと放って後ろを振り向いた。パンの一片は地上三十メートルから重力加速度と空気の抵抗を受けて落下し、湿地の茂みに落ちて沈黙する。

「いいのかい」

 私は少女、B-1へと尋ねた。

「いいの。最後の晩餐は済ませたわ」

 冗談めかして彼女は言う。しかし私は神妙な面持ちになって返す。

「死ぬなよ」

 東京の夜は深い。互いの表情は見えない。彼女がどんな表情をしているのかはわからない。

 でも。

「死なないわ。梅の花の咲く頃までは生き残らないとね」

 その年相応の柔らかさを持った言葉に、私はいつかの微笑みを思い浮かべていた。

 やがてエレベーターの檻状の扉が開いて、背の高い影が降り立った。宇宙飛行士がロケットの先端の往還機へと乗り込めるよう、高所に設けられたこの簡素な赤い台へと。

 航空標識灯の緑の光が彼の顔を照らした。

「こんばんは、フォンブラウンさん」

 かつて、そして今でも、西側世界の宇宙開発の先頭に立っている男が、今此処に現れたのであった。



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