第38話 「海さん、帰国するお休み取れた?」

 〇桐生院咲華


「海さん、帰国するお休み取れた?」


 あたしがそう言うと、海さんは一瞬動きを止めて。


「……取れるよ。」


 抱っこしてるリズちゃんに頬擦りしながら小声で言った。

 ミルクを飲みほしたばかりのリズちゃんは満足そうに笑って、海さんの頬を小さな手でピタピタと叩いた。


「あっ。忘れてたんでしょ。」


「忘れてたのとは違うな。」


「じゃあ何よー。」


「何か当ててみるか?」


「もうっ。何それ。」


「ふっ。」



 …忘れてても仕方ないよ。

 ご家族が一度にこちらに来られて…

 思いがけず、あたしと皆さんの対面が早まってしまった。

 さらには…しーくんの事…


 連日こんな事があったら、そんなの後回しにもなるし…忘れちゃうよね。


「…どうした?」


 無言で海さんの腕にすがると、海さんは首を傾げて…あたしの頭にキスをした。


「…大丈夫…よね…?」


「何が?」


「……何でもない。」


「そりゃないだろ。」


「……」


「さ、言って。何。」


 海さんはリズちゃんを左手で抱えて、空いた方の右手であたしを抱きしめた。


「うちの家族は…海さんのご家族ほど、すんなりいかない気がする…」


「それは覚悟済み。」


「…それに…」


「それに?」


「……」


 つい、無言になってしまう。

 本当は心配でたまらないけど…あたしが心配していいのかって気持ちもあって…

 上手く口に出せない。


「…志麻と泉の事か?」


 海さんの言葉に顔を上げた。


「ふっ。相変わらず顔に出やすい。」


 海さんは小さく笑うと、あたしの前髪をかきあげて。


「俺だって心配だ。だけど…本人達がそうだと言い張るなら、ここから先は二人の問題だ。」


 あたしの目を見ながら…そう言った。


「志麻は…あの場を鎮めるために、泉の話に乗ったのかもしれないけど、これをキッカケに変わる事もあるかもしれない。」


「…泉ちゃん…本気なのかな…」


「…見守るしかないさ。」


「…そうだね…」


 海さんの胸は…安心する。

 この人は、本当にいつも…あたしの事、すごく大事にしてくれる。

 …大切な人…

 あたし…この人を失いたくない。



「あー。んまっ。まっ。」


「ん?ミルクが足りないのか?」


「ご飯、あんなに食べたのに?」


「食欲はママ似だな。」


「もうっ。」


 穏やかな朝。

 幸せな時間。

 なのに…

 しーくんのやつれた横顔が、頭から離れない…



「…咲華。」


「ん?」


 名前を呼ばれて顔を上げると。

 チュッて…唇が来た。


「大丈夫。何があっても…俺達は一緒だ。」


 目をしっかり見つめて、そう言われて…胸がギュッとなった。


 …うん。

 あたし達、何があっても…一緒。


「…愛してる。」


 急に言いたくなって、海さんの目を見たままそう言うと。

 海さんは少し驚いた顔をした後。


「…不意を突かれた…」


 そう言って、すごく照れて…


「俺も、負けないぐらいに。」


 もう一度…キスしてくれた。




 〇二階堂 泉


「どこ行ってたのよ。」


 あたしが腰に手を当ててそう言うと、志麻は目を丸くして。


「あ…ちょっと走りに…」


 首をすくめた。


「走りに?」


「随分怠けたので、体力作りに行ってました。」


「……」


「何か?」


「職場じゃないのに、敬語?」


「……」


 あたしが一歩距離を縮めると、志麻はあたしを見下ろして。


「…俺、今汗臭いから。」


 あたしが縮めた分、後ろに下がった。


 …ちょっと。

 恋人を拒否るわけ?

 汗臭いのなんか、どーでもいーじゃん。



「何か食べて行く?」


「あー…俺はいいから、泉食べて来たら。」


「ふーん…じゃ、シモンズで食べよ。あそこコーヒー美味しいから、気が向いたら来て。」


「…分かった。」



 意外と…志麻は、あっさりとあたしを抱いて。

 あっさりと…タメ口で話す。

 …でも、分かる。

 お芝居だ。って。


 それがいつか習慣になって、当たり前になって…

 そうなるといいんだよ。

 あたしも志麻も、二階堂のために生きる。

 それで…いい人生じゃん。



 …体力作りに走って来た…ねぇ。

 あえて付いて行かなかったけど、たぶん…兄貴んちの近くまで走ったんだろうな。



 ホテルを出て、シモンズに向かう。

 気が向いたら来て。

 分かった。

 って、きっと志麻は来ない。

 だって、シモンズは本部に近い。

 今まであたしと志麻が現場以外で一緒にいる所見られたのって、こっちだと…

 バーぐらいか。


 ま、いいんだけどね。



 シモンズのドアを開けて中に入ると、行列が出来てた。

 相変わらず人気店だなー。

 コーヒーだけを買ってテイクアウトする人も多いから、ここの朝はいつも賑やか。



「お嬢さん。」


 日本語が聞こえて声の方を向くと、行列の前の方に富樫がいた。


『テイクアウトですか?』


 口パクの富樫。

 あたしは首を振って、指で『ここ』って示した。

 すると富樫は…


『モーニングセット二つオーダーするので、お席でお待ちください』


「……」


 ああ、いい奴だ。

 富樫。

 あたしとご飯する勇気のある二階堂の人間って、ほんっと数えるぐらいしかいない。

 志麻と瞬平と富樫…あとは、おじさんばっかだな。



 窓際の席に座って、ボンヤリと外を眺めた。


 …志麻とのセックスは…

 …まあ、普通に良かったけどさ。

 でも…お互い気持ちなんか入ってなかったと思う。

 聖と薫平としたそれとは、随分違って…

 気持ちはいいけど、それだけ。って感じだった。


 志麻は…虚しさを感じたりしたのかな。

 あたしには、目的があっての関係だから、文句はない。

 だけど…

 志麻は、あたしに合わせてるだけって言うか…

 咲華さんへの未練を断ち切るため…なのか。

 それとも…

 それとも、兄貴への腹いせ…?


 …ま、何でもいいよ。

 兄貴達の邪魔さえしなきゃ。



「お待たせいたしました。」


 目の前にモーニングセットのトレイが置かれて、見上げると笑顔の富樫がいた。


「ありがと。」


「いえ。いつもここで召し上がるのですか?」


「前に来た時は、かなり通ったかなあ。」


「ここはクロワッサンが絶品ですね。生地から香るバターが上質な感じでたまりません。」


 富樫は…花の中途採用組だからか、感受性が豊だなって思う。

 志麻も瞬平も、食べる事にはあまり興味がないからな…

 美味しい物って言われて漠然と店の名前は出て来ても、そこの何がどう美味しかった。なんて…興味ないはず。

 食い意地が張ってるって言われるあたし以外、二階堂の人間は、だいたいそうか…。



「…志麻の様子は、どうですか?」


 富樫が遠慮がちに口を開いた。

 あたしや志麻みたいに単発で来る者はホテル住まいだけど、富樫みたいに兄貴とこっちに居る事が長い者は、個々に家を借りてたりする。

 富樫も最初はホテルだったけど、去年からこの一本裏にアパートを借りてるらしい。


「んー…何とも言えない感じかな。」


 ベーコンを口にしながらそう言うと、富樫が一瞬目を丸くした後…なぜか赤くなってうつむいた。


「…何。」


「いっ…いえ、あの…」


「ん?」


「…その…」


「何よ。」


「…シャツのボタンを…もう一つ留められた方が…」


「……」


 富樫に言われて、あたしは自分の胸元を見下ろす。

 一昨年の誕生日に、父さんからもらったネックレス。

 その少し下に…


「……」


 あたしは無言でボタンを一つ留めた。


 …キスマーク。


 気付かなかった。

 志麻め…

 なんだって、こんな目立つ所に…!!



 そのまま無言で食べ進める。

 富樫も…こういうの免疫がないわけじゃないだろうに、なんだってうつむいてんだよ!!



「…お嬢さん。」


 二人とも食べ終わって、富樫がコーヒーのおかわりを持って座った瞬間、口を開いた。


「何。」


「…その…」


「うん?」


「…本当に、志麻と…お付き合いされるのですか?」


「……」


 あたしは首を傾げて富樫を見て。


「昨日言ったよね?」


 確認した。


「………」


 富樫はそんなあたしの目を見て、少し唇を噛んで。


「…失礼しました。」


 軽く…頭を下げた。


 …兄貴には仕方ないとしても…

 富樫にもバレバレなわけ?

 あたし、そんなに分かり易いのかな…



「志麻は…不器用ですが、いい奴です。」


「…分かってるよ。」


「あっ、そうですね。お嬢さんの方が、志麻とは歴史がありますね。失礼しました。」


 変なの。

 そう思いながら、コーヒーを飲む。


 窓の外に目をやると、通勤ラッシュは少し落ち着いて来てて。

 早くも秋物を着てる人の姿も目に付いた。


 姉ちゃんは色んな種類のスカートを穿いたりして、オシャレをするけど…

 あたしは普段着も、あんま変わらない。

 白いシャツに黒のスーツ。

 二階堂の制服みたいなもん。

 それを着慣れ過ぎてて。

 それに愛着もあり過ぎてて。

 オフの日に着る服も、さほど変わりがない。


 まあ、家でゴロゴロしてるだけなら?

 Tシャツにスウェットとか、そんなのでやり過ごすけど。

 …オシャレに興味がない女なんて、つまんないな。

 ほんっと、薫平の方が女子力高かった…



「……」


 つい、目をゴシゴシと擦る。

 今、薫平の事を想ったからか…目の前を歩いてる猫が…


「…おはじき?」


 あたしが小さな声でつぶやくと。


「おはじき?」


 富樫が繰り返しながら窓の外を見た。

 そして、次の瞬間…


 バン!!


 外から、窓ガラスにへばり付いたのは…


『泉!!』


 ……薫平だった。

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