妄想世界と死の歌
甲斐満は夜空に煌めく星々を、ホコリまみれの部屋の中で眺めている。彼の目には確かに星々が映っているが、”見ている”とはとても言えなかった。途方もなく長い時間をかけて満の目に飛び込んできた星の光が、彼の目を素通りしていく。満は煙草に火をつけると、窓に張り付くようにして星を眺める。
ため息と一緒に煙草のけむりを吐き出すと、窓が曇った。
満は、ふとこんなことを思い出す。昔見た映画だ。
400万年くらい前の地球で人類の祖先となる猿が飢えにあえいでいた。そんな猿たちの前にモノリスという黒い石版が現れる。モノリスに触れた猿が「道具を使う」ということを覚え、人類に進化するきっかけを得たのだ。
21世紀に人類は宇宙船を手にし、月の開発を進める。月の地表からモノリスが発見される。太陽光がモノリスに当たると、モノリスから木星に向かって信号が発信された。人類は調査団を結成、宇宙船に乗って木星に向かう。
宇宙船には人工知能が搭載されている。人工知能は「わたしたちは一度もミスをしたことがない。ミスが発生するとしたらそれは人間のミスだ」と言う。だが、人工知能が暴走し、船員は命の危機に陥る。船長により人工知能の回路となる動線を断たれるとき、人工知能がある歌を歌う。
『Daisy Bell(A Bicycle Built for Two)』
これは、始めて機械が歌った曲だとされている。
満は人工知能が死の間際にこの曲を歌う瞬間を、鮮明に覚えていた。緊迫した状況。旅をともにしてきた人工知能の最期。そして、機械が拙く歌いあげる"Daisy Bell"に、満はいたく感動したのだ。星を見るたび、宇宙関係のニュースを見るたび、満はこの映画と曲を思い出す。
人生の最後に歌うというのは、一体どんな気持ちなんだろう。満が煙を吐き出しながら物思いにふけろうとデスクチェアに座った瞬間、彼の意識は妄想の中へと溶けていった。
――――――――。
目を開けると、満は冷たい壁に囲まれた部屋にいた。目の前にはコンクリート打ちっぱなしの壁があるだけ。部屋はとても狭く、壁に背中を付けてから五歩進むだけで壁にぶつかってしまう。扉はあるが鍵がかかっていて開かない。改めて部屋を見渡すと、満は壁に銃がかかっていることに気づいた。
「なんだこれ」
思わず手にとった銃をまじまじと見つめる。昔、満の姉の家で見たモデルガンそっくりだった。「確かニューナンブM60とかいうんだっけ」と呟きながら、銃を持つ手に感じる確かな重みと冷たさに戸惑う。
「オモチャじゃなさそうだなあ」
リボルバーには確かに弾丸が装填されている。
「映画とかだと、ドアノブを撃って壊して開けるよなあ」
ドアノブに向かって拳銃を構えてみるも、撃とうとは思わない。ため息だけを吐き出して拳銃をおろそうとした瞬間、扉が開いた。扉の先には真っ暗な空間が続いている。その暗闇から金髪赤眼鏡の美女が姿を表した。右手には満が持っているものと同型の銃が握られている。
「殺し合いをします」
美女がため息まじりに言った。美女が部屋の中心まで歩くと、扉が閉まる。美女は部屋の中心で満に銃口を向けた。満はただただ呆然と立ち尽くすだけ。やっと絞り出した声も「は?」と短く切られてしまう。
「殺し合いをしなければ出られないんだよ」
美女が銃をおろして床に座る。
「は?」
「私と君とで殺し合いをしなければ出られない」
美女がゆっくりと言った。満は美女の目の前に座り、銃を見つめている。
「この部屋から?」
「この世界から」
「出なくていいと言ったら?」
「食料も飲み物も無いよ。この世界でどうやって過ごすの」
「必要ない。だってここ妄想だろ」
満が銃を床に置いた。美女はその様子をじっくりと眺めながらため息をつく。
「妄想だけど生きていくには必要だよ」
「そういうもの?」
「そういうものさ」
美女が満に銃口を向ける。美女の目はまっすぐに満を捉えている。その瞳には確実に満の目が映っていた。「本気かよ」満が咎めるような口調で言うと、美女はゆっくりと頷く。
「本気」
「僕を殺せる?」
「殺せる」
「だろうね」
「君は私を殺せる?」
美女の問いに満は口をつぐんでしまう。声を出そうと、言葉を出そうと口を動かすが何も出てこない。ただ口をパクパクとさせながら、出すべき言葉を探す。自分に彼女を殺すことができるのだろうか。考えても考えても、答えは見つからない。
「君に私は殺せない」
「君は引き金を引くことが出来ない人間だ。そういう人生を歩んできた。これからもそういう人生を歩み続けるんだ」
「だから私が君を殺してあげる」
満はゆっくりと銃を手に取る。美女はそんな満の様子を見て笑う。美女が立ち上がり、壁に背中を付けた。満もまた立ち上がり、美女と反対側の壁に背中を預ける。それでも美女の顔は鮮明に見えた。銃のハンマーに手をかける美女は目を伏せながら口元をゆるませている。
「君はいつもそう。引き金を引けないし、打席に立ってもバットを振らない」
「引ける」
「無理だ。長い人生ずっとそうしてきたことを急に変えることは不可能だ」
「長い人生ずっと変えたい変えようと思いながら燻っていれば、それは急に変えることにはならない」
「それは単なる言葉遊びにすぎないよ。燻ってるだけで何もしてないくせにさ」
美女がハンマーを起こす。満もまたハンマーに手をかける。満の鼓動が早くなる。満は自分の命が刻一刻と短くなっていくのを感じた。満は深呼吸を何度もしながら、昔のことを思い出していた。
昔、満の姉がよく歌っていた歌がある。エルヴィス・プレスリーの『ラブ・ミー・テンダー』だ。彼女がこの曲を歌うときは決まって伏し目がちに微笑んでいて、満はそんな彼女の歌に心を預けていた。満が落ち込んで帰ってくると、必ず『ラブ・ミー・テンダー』を歌いながら抱きしめてくれる。満の涙を自分の服に吸わせながら、歌い終わったときには必ずこう言う。「大丈夫だ」と。
満がハンマーを起こす。
「昔、誰もが家族の絵を描いていた。教師から家族の絵を描きなさいと言われて。花火を見た絵、海に行った絵、旅行をしたときの絵。僕はそんな絵を描けなかった」
「そう」
「姉さんと出会ってから描けるようになった。色彩豊かに、情緒豊かに、明るく楽しく適当に」
「今はどうなのさ」
満は引き金に手をかけて少し黙った後、口を開く。
「描けないね」
美女もまた引き金に手をかけて少し黙った後、口を開く。
「だろうね」
「僕の人生なんて所詮そんなものだったよ」
「だけど所詮そんなものだと吐き捨てている僕の人生は、姉さんがくれたものだ」
「君には自分がないんだ。姉さん姉さんそればかりで退屈だ。そんな人間が引き金を引けるわけがない」
満が引き金を引いた。大きな音が部屋中に響き、満の耳をつんざく。大きな衝撃が右手から心臓を伝う。弾丸は想定していた軌道を逸れ、美女の金髪をかすめて壁に当たった。美女は悲鳴ひとつあげなかったが、目を見開いて壁の銃痕を見る。そして、銃口を満に向けたまま笑う。
「自分がないんじゃないんだ。ただ長い間一緒にいたから、姉さんが僕を構成する要素になったんだ」
「それを理解しているなら妄想の世界なんかに逃げてないで、現実で戦え」
「現実を苦しみ、現実を嘆き、現実に笑い、現実に夢を見なさい!」
叫んだ瞬間、美女が拳銃を両手で握り直す。右手の人差し指が引き金に触れる。満は美女の言葉を何度も自分の脳内で反すうしながら、小さな声で『ラブ・ミー・テンダー』を歌い始めた。満が目を閉じた瞬間、大きな音がしたと同時に美女の涙をこらえるような声が聞こえてくる。
「もう二度と――」
――――――。
言葉を遮るように、満の意識は現実に引き戻された。
満は立ち上がって夜空を見上げ、星たちを見る。「現実で戦え」という彼女の言葉がリアリティを伴って意識の中に留まり続けている。満は冷蔵庫からストロングチューハイを取り出し、350mlもある缶の中身を一気に飲み干した。
長らく電源を入れていなかったスマートフォンの電源を入れる。眩しい光が目に刺激を与えてメラトニンの分泌量を減らすとともに、数件のメッセージ通知が目に飛び込んできた。
それは、満が部屋にこもり始めてから連絡を取ろうとしなかった、友人たちからのメッセージだった。
妄想世界と死の歌・終。
妄想世界とフリーライター 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki
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