妄想世界と炭酸水

 空が白く霞む12月。窓にこびりついた結露に指をはわせ、甲斐満は「眠い」と書く。書いてしばらくぼうっとその文字を眺める。水滴が文字の端々から滴る。なんと書いたのかわからなくなってしまう。完全に文字がぼやけるまで見届けた後、満から乾いた笑いがこぼれた。

 納期が危ない仕事を押し付けられて徹夜した明け方。120連勤の真っ最中に徹夜したことにより、満の精神は限界を迎えていた。それでも徹夜明けは仕事のクオリティが下がるということで、仕事を休むのが満の習慣だった。皮肉なことに、負のレコードが徹夜によって断ち切られたわけだ。

「眠気覚まし……」

 満は結露で書いたわけのわからない文字を手のひらで消して、仕事部屋を出る。仕事部屋を出るとすぐにリビングスペースとキッチンがある。キッチンの隣に置いてある冷蔵庫の中から缶の炭酸水を取り出し、一気に飲み干した。

「くう……!」

 炭酸水の刺激が喉を通り過ぎた瞬間、満は言いしれない快感を覚えた。冷たい炭酸水が喉を通って胃に流れ込んでいく感覚が直に伝わる。同時に炭酸の刺激は舌も刺激する。炭酸水自体に味付けはないものの、その痛覚による快感は味覚によるそれ以上に、満にとっては美味しく感じられた。

「炭酸水、あなどれないな」

 満は冷蔵庫から何本かの炭酸水を持ち出して、PCに向かう。検索窓に「炭酸水」と打ち込んだ。5300万件ほどの検索結果が出てくる。水の代わりに飲んでもいいのか。美容にいいのは本当か。など、満の同業者が書いたであろうさまざまな記事が出てきた。過敏性腸症候群の人は気泡が胃の中で拡大するため水の代わりには飲めない。胃の粘膜の働きを活発にして整腸作用を促進することで美容効果もある。さまざまな情報がネット上に飛び交っていた。

 満は面白がってさらに炭酸水について調べていく。

 歴史上初の炭酸水はレモネードに重曹を加えた飲み物だとされている。炭酸水を甘くしたサイダーが日本では好んで飲まれているが、日本初のサイダーは兵庫県有馬温泉の「有馬サイダー」である。明治・大正時代にはもう製造販売されていたらしい。炭酸水は温泉や湧き水などの形で生まれるため、温泉地でサイダーが生まれたのだろう。

 現在売られている炭酸水にも温泉などから生まれた「天然炭酸水」と、ミネラルウォーターに炭酸ガスを後から加えた「人工炭酸水」とがある。

 満が今飲んでいるのは天然炭酸水だった。

「なるほど」

 満は手に持った炭酸水の缶を見て、ため息をもらす。ただなんとなしに成分表なんかを眺めてみたり、パッケージを指でなぞってみたり……。

 ――徹夜明けの炭酸水のなんとうまいことか。サイダーのように糖分が無いのもまた素晴らしい。罪悪感なしに飲める。それなのに中毒性がある。仕事の後に飲むと更にいい。風呂上がりに飲むのも、サウナ上がりに飲むのも良いだろう。僕はもしかしたら、合法的トビ方を身に着けてしまったのかもしれない。そうだ。炭酸水は合法麻薬なのだ……!

 そう思った瞬間、満の意識は妄想の世界へと落ちていった。



――――――。


 空が重厚な雲に覆われている。地上には一切の光も降り注がず、誰もが暗い顔をしていた。地面にはスーツの男が座り込み、ベンチには浮浪者のような男が寝そべって空を眺めている。満はあたりを見渡した。また大阪なのかと思ったが、どうやら違っている。目の前には大きな池のような大きな水たまりがあり、その周辺を取り囲むように道路が舗装されている。呑気にスワンボートをこぐカップル。大きな水たまりの中を割っているような橋。

「ここ、大濠公園だ」

 ――今回の妄想世界は福岡なのか。

 適当に大濠公園をぶらつくと、自動販売機が見えた。自動販売機には炭酸水ばかりが売られている。種類の違う炭酸水が所狭しと並んでいた。その一角に「アルコール入り炭酸水」と称した酒が売られている。度数12%。強炭酸。味つけはなし。炭酸水ブームに踊らされて血迷った企業がこのような意味不明なものを売り始めたのだろう。それでもあたりにはアルコール入り炭酸水を手にして地面に転がっている人が何人かいた。

 彼らのことごとくが、虚ろな目をしながらため息をついている。ある者は突然叫びだし、またある者は突然泣き出した。

 ――これはネットで見た薬物中毒者の映像と似てるぞ。

 満は駆け出した。

 満は走りながら、道行く人々を見た。通常の炭酸水を持って楽しそうに歩いている人もいれば、通常の炭酸水を持って天候を嘆いている人もいる。アルコール入り炭酸水を手にしている人は少数派ではあるが、10人とすれ違えば2人は持っていた。大濠公園は広い公園だが、全世界的に見れば狭い場所だ。その中の10人中2人が同じ飲み物を手にし、中毒者のように快感と苦痛を味わっている。満は口を手で覆った。自分自身の手からとてつもない量も汗が出ていることに気がつく。広角はほのかにつりあがっていた。満は心を落ち着かせるため、歩いて自動販売機まで向かった。

 満が普段買うことがあるメーカーのものを買おうとした途端、誰かの指がアルコール入り炭酸水のボタンを押してしまう。細く綺麗な指だった。金髪に赤い眼鏡の美女。以前違う妄想世界で見た美女と同じ人のようだ。以前は全裸だったが、今は満が着ているのと全く同じライダースジャケットを着ている。

「本当に飲みたいのはこちらでは?」

 満が美女の服装を見て呆けていると、美女がアルコール入り炭酸水を満に差し出していた。

「君のやりたいようにやりな」

「……ですね」

 満は美女から差し出されたアルコール入り炭酸水を手に取り、プルタブを開け、中身の半分ほどを一気に体内に取り込んだ。瞬間、これまで体験したことがないほどに強い炭酸の刺激が満の身体の隅々を傷つけて回る。満の目はギンギンに見開かれ、体の奥底から痛みと熱さがこみ上げてくる。

「これはダメだ、ダメです! これはクセになりすぎて!」

「飲みすぎるとああなるけどね」

 美女が道端に寝そべる人たちを指差した。「神よ、あなたはなぜ斯様にしてこの世界を創られたのか!」「虫、虫が襲ってくる!」「楽しすぎてわけわかんない。なにこれー!」皆口々に叫んでいる。満はその人々をただ見つめていた。

「彼らはあれで幸せなのかもしれないけどね」

 美女が吐き捨てるように言った。満は缶にまだ残っているアルコール入り炭酸水を全て飲み干し、今度は普通の炭酸水を二本買う。そのうちの一本を美女に差し出し、満は問う。

「どうして?」

「これは合法麻薬のような効果のある飲み物だと結構前から話題になっててね。炭酸水ブームが元凶なんだけど。炭酸水がアルコール入り炭酸水の代替品としても使われるようになって。マッチポンプみたいだけどさ。そんな状況にありながら、彼ら彼女らは自分から進んであれを口にしたんだ。ブラック企業。終わらない労働。払われない給料。崩壊寸前の年金。上がる一方の税金。先の見えない未来。人生から逃れる術を欲していた。それを手に入れた。それが幸せじゃなくてなんだっていうわけ?」

 満はプルタブを起こす指に意図したより大きな力をかけてしまった。炭酸水が少しこぼれてしまう。飲み口から少しずつ溢れ出る泡は、そこら中で叫んでいるアルコール入り炭酸水中毒者のようだった。満は容量が少し減った炭酸水を飲む。

「中毒性のあるものに逃げるという考えはわかる。幻覚を見て楽しい気持ちになるのもわからなくはない。それを人生の逃げる先として欲するのも痛いほどにわかるんだ。だけど、逃げているということは結局幸せではないんじゃないかと僕は思う。逃げなければならない状況は何も変わらん。一生逃げ続けることになるじゃないか。それが幸せなもんか」

 美女は満の言葉に首をかしげながら、プルタブを起こす。満からもらった炭酸水を一気に飲み干した後、自販機でアルコール入り炭酸水を買う。一本、二本、三本。本数はどんどん増えていくが、美女が買うのを止める気配はない。満が「何してるの」と言いながら制止するも、美女は制止を振り切ってさらに追加購入した。合計六本の合法麻薬飲料を自販機のそばのテーブルに置き、美女はベンチに腰を掛ける。満はその向かいのベンチに腰掛けた。

「そこまで言うなら体験してみようよ」

 美女がアルコール入り炭酸水のプルタブを起こす。そして、未開封のアルコール入り炭酸水を三本、満に差し出した。

「体験って」

「あそこで寝転がって叫んでる人たちと体験を共有するのさ。君の意見は当事者的でありながら、中途半端に第三者的だからね。本当の当事者になるんだよ。君も、私も」

 満はただ黙ってアルコール入り炭酸水を見つめている。美女は「プルタブは自分で開けな。それが大人ってもんだ」と炭酸が抜けるのを気にせずに待つ。満は道端で寝転がって叫んでいる人たちをとアルコール入り炭酸水とをしばらく交互に見比べた後、ため息をついた。そうしてアルコール入り炭酸水を手に取り、プルタブに手をかける。美女がニヤリと笑った。

「それでこそ君だよ。さあ体験しよう。中毒者の世界を!」

「ええい、やってやる」

「乾杯!」

「乾杯」

 二人同じペースでアルコール入り炭酸水を飲み進めていく。一本、また一本。二本目を飲み始めた時点で満の額には汗が滲んでいた。満の脳がぐらぐらと揺れる。瞳の焦点が定まらない。美女もまた頭を少し揺らしながら飲み進めていく。二人の口からは時折唸り声が漏れたが、不思議と苦しそうではなかった。

「やばい」

「やばいやばい」

「やばいやばいやばい」

 一語だけで会話していく二人。三本目を開ける。プシュッという小気味いい音が満の耳から入り、全身を蝕んでいく。脳天を直撃したその音は脳内で快感物質ドーパミンやエンドルフィンに変わる。脳を直接フェザータッチされているかのようなそわそわとした感覚。膝がガクガクと震え、内股になっていく。一瞬間股を大きく開いた後、急激に閉じた。満はテーブルに突っ伏し、息を切らす。美女もまた息を切らせながら、頬を赤らめて膝を震わせている。それでも二人は手を震わせながら最後の一滴まで自らの体内に合法麻薬を運んでみせた。

 二人は缶を投げ捨てると、そのまま再びテーブルに倒れ込んだ。体中でアルコール入り炭酸水が暴れまわり、各器官を蝕んでいく。特に脳が著しく蝕まれていた。満の脳内には大量の快感物質が分泌されていく。既に快楽の虜となった満は、逃避行為の是非なんて考えられなくなっていた。笑いがこみ上げてくる。どこからともなく突然こみ上げてきた笑いをせき止める弁はどこにもなく、ただただ口から目から溢れていくだけだった。美女はただひたすらに涙を止めることなく垂れ流し続けている。特に何かを叫ぶこともなく、ただ静かに声もなく涙を流していた。

 満の笑い声が前触れもなく止まる。すると、満の見ている世界が歪み始めた。世界に突如として天使が現れた。天使はこう言う。

「信じるものだけ救います」

「信じるものしか! 救わないのか!」

 満は立ち上がって叫んだ。天使は大濠公園の池の水面すれすれに浮かんでいる。天使はただただ微笑んでいた。満が池に近づくと、天使は片手を突き出してそれを制止する。天使は言葉を続ける。

「自らを許し信じる者しか救いません」

 天使は満と一切距離を縮めることなく、だからと言って距離を広げることもない。ただ水面すれすれに浮かんでいた。天使が再び口を開くと、天使の頭上から光の矢が降り注ぐ。光の矢に貫かれた天使は恍惚の表情を浮かべながら自らの羽をむしり、笑う。

「救われない」

 笑いながらそう呟いた後、天使は跡形もなく消えた。

 消えた……と思ったら無限に増殖した後、空に向かって飛び去っていく。光の矢が蛇に変質し、満に迫っていく。満は蛇から逃げようとすることなく、ただただ蛇の大群を受け入れた。蛇に噛まれていく。痛みが脳天を突っ切って感覚のすべてを支配しようとする。意識が遠のきかける。蛇が突然居なくなり、美女が目の前で踊りだす。金髪赤眼鏡で満と同じライダースを着ている美女は、踊りながら天使が浮かんでいてあたりに飛び込んだ。ザップンと大きな音がして水しぶきが立つ。満は笑いながらその様子を見守っていた。美女が浮かんで、泳いで戻ってくる。美女の頭にはフジツボがびっしりと付着していた。美女と満がハイタッチを交わし、笑い合う。

 次の瞬間、二人の意識は消え、その場に倒れ込んでしまった。


 目を覚ましたとき、二人は夜の大濠公園のベンチにいた。誰かが二人をベンチにまで運んでくれたのだろうか。周囲には同じようにベンチに倒れ込んでいる人がいる。見たところ男が三名、女が四名といったところだ。日本人もいれば外国人らしい人もいる。誰も彼もが幸せそうに、だけどどこか苦しそうに顔を歪ませて寝ていた。

 満は美女の頬を叩いて起こす。

「おはよう」

「おはよう」

「どう? 身体の調子は」

 満は頭を抱えながら首を振る。頭がズキズキと痛む。目眩がする。キーンとした耳鳴りが続く。耳の奥がふさがっているように感じる。喉の奥がピリリと痛い。二日酔いのように身体が重かった。それなのに満の脳は確かに、明らかに、またアルコール入り炭酸水を欲している。合法麻薬への依存症状が既に始まっていた。その事実だけを見れば悲劇だ。しかし、満の顔は笑みにほころんでいた。

「合法麻薬に逃げる人の気持ち、わかったでしょ」

「うん……逃げないと生きていけない人もいるよ」

 満は自動販売機の前まで歩く。美女はその後ろを黙ってついていく。満はアルコール入り炭酸水のボタンを押した

 美女が満の横で微笑む。


 妄想の世界が炭酸水の泡と一緒に消えた。



フリーライターと炭酸水・終

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