妄想世界とフリーライター

鴻上ヒロ

妄想世界と自由

 空が白く霞むような12月。甲斐満は窓の外の枯れ木を見ながら、濃く作り過ぎたコーヒーを飲んでいる。壁と向き合うようにして設置されたデスクにタンブラーを置き、デスクチェアに深く腰を掛ける。

 目の前に置かれたPCの画面に目をやると、そこには書きかけの文字列が並んでいた。満がフリーライターとして名乗りをあげてから四年が経ち、文章もこなれてきた。

 キーボードの上に置かれる予定だった満の手が、宙を舞った後に膝の上に収まる。満はため息を吐きながら、デスクに突っ伏した。静かな室内にPCのファンの音とエアコンの音だけが響き渡っている。満以外は誰もいない、一人きりのアパートの一室。それは、フリー(自由)とは程遠いものに思えた。

 それも当然のことだ。満は既に100連勤目に突入している。おかげさまでここ3ヶ月の原稿料は総額120万円だ。満の目はギンギンに開かれ、マウスの近くに置いてある灰皿には数えきれないほどの吸い殻が刺さっている。

 満はデスクチェアを180度回転させ、目の前のローテーブルに置かれたピース缶を持ち上げる。缶の中に30本ほど突き刺さっているピースを手に取り、灰皿の近くに置いていたZippoライターで火を点けた。

 そのZippoには数えきれないこまかな傷がついている。その中にひと際目立っている大きな切り傷があり、満がその傷を人差し指で撫でた。

 満はピースの煙を吐き出すと、左手の人差し指と中指の間にピースを挟みながら、灰皿の中身をゴミ箱の中に落とす。それからティッシュで軽く表面を拭き、所定の位置に戻した。

 ピースの煙を楽しみながら、満はあることを考えていた。

「自由ってなんだっけ?」

 ――自由。自由とは。フリー。リバティ。フリーダム。制約されていないこと。フリーランスは全然自由じゃない。自由というのは、たとえば全裸で公園を駆けずり回っても逮捕されないことではないだろうか。それが制約されていないということではなかろうか。そうであるならば、この世は無法地帯になる。無法地帯……。それも面白いかもしれない。

 そう思った瞬間、満の意識は妄想の世界に落ちた。


 ――――――――。


 太陽が鋭い日差しを無差別に送り付けてくる夏の日。大阪梅田のあるビルに備え付けられた温度計は40度を表示していた。常に着衣で温泉に浸かっているようなものだ。満は太陽からの熱い視線にため息を吐き、太陽に向かって手に持っていた煙草を投げつける。煙草は見事な弧を描きながら太陽に向かって飛んだあと、街を歩いていた男性の頭の上に落ちた。火がついていた煙草に髪の毛を焼かれた男性は、Tシャツを脱ぎ、自身の頭をTシャツで叩く。

 それを見た人々は何を思ったのか、一斉に服を脱ぎ始めた。

 男も女もすっぽんぽん。それなのに誰もが羞恥心を抱いていないかのように、気持ちよさそうな笑みを浮かべている。ある者は思いきり伸びをする。ある者は全力でダッシュし、またある者は自身の胸を思いきり叩いて満足気に笑った。

 その光景を黙って見ていた満もまた、思いきり服を脱いだ。

「自由だー!」

 そのまま人々を押しのけ、赤信号の交差点を走って渡り、阪急メンズ館の階段で小躍りした後東通り商店街に入る。周囲の人々はそんな満に拍手を送り、彼ら彼女らもまた服を脱いでいく。ここには制約など何もない。警官もまた服を脱ぎ、自らの裸体を世間に晒す。風俗店から出てきたキャッチのボーイも、出勤前の風俗嬢も、子どもも老人も誰もが自由だ。

 満はそのままある居酒屋に入る。店内はみんな当然のように裸だ。そして、酒をかっくらいながら大声で笑いあっている。満は大きな声で「黒霧島ロック!」と注文して席につく。目の前には金髪赤ぶち眼鏡の美女と、ノリの良さそうなお兄さんが座っていた。黒霧島が到着してから彼女らと乾杯をし、満は一気に黒霧島を飲み干す。

 火照った体に氷で冷えた黒霧島がいきわたる。

「熱いですよねえ」

 目の前の美女がジョッキを大切そうに握りしめながら言った。

「本当に。こんなに熱いのでは仕事も捗りませんね」

 満がそう言うと、目の前の美女は「今どき仕事?」と首を傾げた。満が「え?」と返すと、美女は目を丸くさせながら言う。

「今や仕事の多くがロボット化しているじゃないですか。ロボットを管理する仕事か接客業くらいしか残ってませんよね」

 満は「ああそうか」と思った。ここは「自由」を体現する妄想の世界なのだ。自由とはすなわち制約されないこと。仕事という制約もこの世界にはほとんどなく、多くの人は自由を手にしている。仕事をしている人間はこの世界だと負け組かもしれない。満は「ああ」と言ってメニューをめくる。

「僕は文章を書いているんです。こればっかりはAIにはできないからね」

「ああ、そうなんですね。熱くては執筆に熱が入らなさそうですね」

 美女が笑う。笑った顔もまた美しく、かわいらしかった。目をわずかに細め、口元を控えめにゆるませる。それなのに口に運ぶ酒の量は多い。満の視線は美女に釘付けになった。

「うまいこと言いましたね」

「うまいこと言っちゃいました」

 また美女が笑った。満はなんだかその顔を見ていられなくなって、店員を呼ぶ。「黒霧島ロックおかわりで」と告げると、美女が満の顔を凝視していることに気づいた。

「強いですよね。一瞬で飲み干してまたロックって」

「はじめて飲んだ酒が芋焼酎だったもので」

「習慣ですねえ」

 そんなやり取りをしていると、新しいグラスが運ばれてきた。

「何かお食べになりますか」

「おごってくれるんですか?」

「おごりましょう、おごりましょう」

「それでは枝豆とポテトを。あなたは?」

「僕は肉豆腐と明太子を」

 グラスを持ってきた店員がまだテーブルの横で話を聞いていたのか、伝票に書き記して「かしこまりました」と言った。美女は「一緒につまみましょうね」と言って笑う。美女の隣に座るノリの良さそうなお兄さんは、いつの間にか会計を済ませていた。美女がジョッキをゆらゆらと揺らしながら、控えめに笑う。

「二人だけで盛り上がりすぎましたね」

「そうですね」

「それでもたまにはそういうのもいいのかもしれません」

「と、言いますと」

 美女は片手をあげて店員を呼び、ビールをお代わりする。店の前の路面からは陽炎が立ち上り、それを全裸に靴だけ履いた二足歩行の生物が通り過ぎていく。満は美女の次の言葉を待ちながら、その光景をただただ沈痛な面持ちで眺めていた。美女はそんな満を見て微笑む。満は、その笑顔をどこかで見たような気がした。

 店員がビールを運んでくると、美女はすぐさまそれを半分ほど飲んでしまった。喉の奥から盛大に息と声を漏らすと、美女はジョッキをやや強めにテーブルに置く。

「一人でいると妙に寂しくなることがありません? それで宇宙に果てはあるのかな。このまま一人で死んでいくだけの人生なのかな。自由とは何かな。とか考えてしまうんです。そうしていくうちにだんだんと一人でいることに薄気味悪さすら感じてしまう。だけれど、急に寂しさを慰めることなんてできません」

「はい」

「だからと言って大勢の人がいるところに繰り出してみても、なんだかしっくりこないんです。ここに自分の居場所はあるのかな。ここは誰の居場所なのかな。そんな事を考えてしまいます。結局、誰の居場所でもあり、誰の居場所でもないわけですけれど」

「ああ……」

「二人ならそれがないんです。互いが互いに居場所を保証すれば、相手が自分にとっての確かな居場所になります。自分もまた相手にとっての確かな居場所になるんです」

 言い終えて、美女がビールを完全に飲み干す。美女の言葉を受けて、満もまた酒を口の中に運んでいく。満はポケットからシガレットケースを取り出し、その中からピースを一本指につまんで火をつけた。美女が無言で灰皿を差し出してくる。

 満はピースの煙を口の中でしばらく楽しんだ後、ゆっくりとそれを吐き出した。それからゆらゆらとゆらめく紫煙をただ眺める。紫煙の先に見える美女の顔。既視感のあるその顔をただ眺め続けた。美女は黙って満を見ているように見えるが、満はその瞳に自分以外の誰かを感じた。しばらくした後、満がゆっくりと口を開く。

「昔、似たようなことを誰かに言われた気がします。その人も酒を飲みながら、僕のことを見ているのか見ていないのかわからないような目をして。」

「そのとき、君はどう答えたの?」

「相手が自分の居場所になってくれるとどうして信じられるのか、と。そうしたらその人はこう言ったんです。"信じるも信じないも私の自由。私が君を信じる。そして、君が私を信じていると私が私の自由で信じているの。"と」

 満がピースを吸いながら焼酎を飲む。美女はやはり控えめに笑いながら、黙って満の話を聞いている。店内の裸んぼうたちは少しずつ服を着始めていた。満の身体にも、満が意識していない間にジーパンが履かれていた。

「私の自由と言われてもね。なんか胡散臭いもので。僕があなたのことを信じていなかったらどうするのか、と聞いたんですよ」

「そしたらどうでした?」

「そしたら、"君が私を信じていないことを知るときがきたら、自己責任。自分のせい。だって自分の自由で君を信じたんだから。ただそれだけのこと。だけど、そうなったら私はショックで死ぬかもね。だから私を信じてもらう。"と言ってました」

 美女だけが何も服を着ておらず、話している最中に周囲の客がざわついていた。美女は「そう」と短く言い、満の頭を撫でる。満はその行為にはじめは戸惑ったが、次第に郷愁の思いに駆られてしまい何も言えなくなった。路面の陽炎がゆらゆらと漂いながら、消えていく。路上を歩く人々の群れが窓越しに美女を見た。美女の裸体を見た。美女は満の視線を追うと、ふふっと控えめに笑う。

「それで、君は結局信じていたのかな?」

 美女は頬杖をつき、今度はまっすぐと満を見つめた。満の視線は空をさまよう。

「わかりません。なにぶん、その人の名前も顔も思い出せないものですから。僕にとって大切な人だったことは確かですが。信じていたかと改めて聞かれれば、わからない、としか答えようがありませんね」

 満の体は完全に服でまとわれていた。ピースの火を消して、わずかに残っていた焼酎を飲み干す。路面からたちのぼる陽炎が居酒屋の店内を包み込んでいく。美女が「もう時間がないのね」とこぼす。満はそんな美女の顔を見て、ハッとした。


 ――姉さん。


「自由とは、自分自身の意思を貫くことですよ」


 美女がほほえみながら言うと、妄想の世界は陽炎の中へと消えた。

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