最終話

 八月一日。

 楓夏の言っていた十日目。


 バイクの排気音で葉月が目を覚ますと、すでに正午を回っていた。

 胃袋が重い。徹夜でハンマーヘッドの燻製を飲み下し続けた。どうにかこうにか内臓まで食べ尽くし、力も尽きて寝入ったのが確か八時過ぎだったはず。ハンマーヘッドは時間内に食べ尽くした。楓夏のミッションは完遂した。あとは川で聞いたこと、彼女の頭をハンマーヘッドで割ればすべてが終わる。


 胸元にかかっている楓夏の手をどけて体を起こす。ハンマーヘッドから出てきた少女は、アンモニア臭もすっかり抜けてすうすうと寝息を立てている。彼女の頭を割る、はたしてそれが何を意味するのか、とうとう本人には聞けず仕舞いだったが、きっとふたりでいっしょにいられる時間はそう長くはないのだろう。そんな気がした。


「はーちゃんの名前で何か来とったで」

「ありがとう、祖母ちゃん」


 階下で段ボール箱を手渡された。一抱えはあるが大きさの割にとても軽い。久しぶりに少しやってみたくなったこと、空に向かって頑張りたくなってみたことが、この中に入っている。

 中学三年生にもなって頬が緩む。夏休みだからか注文が殺到しているらしいが、無事に届いて安心した。いまだ寝ている楓夏のもとへ駆け寄り、


「起きて、楓夏」

「ええ? あ、おはようございます……」

「寝ぼけてないで早く支度した」

「葉月ちゃん、それ持ってるの、何?」

「ふふん、ペットボトルロケットのもと」


 ロケットの先端になるノーズコーン、軌道を安定させる翼、噴射口、発射台、それらがすべて揃っている。便利な時代だ。ペットボトルと空気入れさえ用意すれば手軽にロケットが作れてしまう。

 炭酸飲料の丸いペットボトルをさかさまにして、コーンをビニールテープで固定、翼も下から穿かせて固定、蓋をはずして少量の水を入れ、噴射口で栓をすればあっという間に完成だ。十分もかからない。

 飛ばす場所は、裏手の川からすこし登ったところにあるちょっとした原っぱでいいだろう。どうせパンパンに空気を詰め込んだところで容量は2L、素人では百メートル飛べば御の字。

 距離に意味はない。

 飛ぶことが、葉月にとって価値があった。


 すべてをセットし終えて、空気入れのハンドルに手をかける。

 もし、飛ばなかったりしたらどうしよう、それだけはいやだ。


「葉月ちゃん」


 葉月よりもずっとすべすべして柔らかな手が重なった。ハンマーヘッドから飛び出てまだ十日目なのだ、保湿は赤ちゃん並みだ。ハンドルをつかみ損ねていたぎこちない指先が、するりと曲がった。


「楓夏……」

「いっしょに入れよ」

「うん、ありがとう」

「いえいえ」


 シャコッ。

 ピストンの上下が耳に心地いい。


「ねぇ、楓夏」

「はい」

「これが終わったらどうするの」

「空に帰ります。これが、ハンマーヘッドの通過儀礼みたいなものなので」

「そっか」

「葉月ちゃんは……これが終わったらどうするんですか?」

「うーん、夏休みの宿題かな。受験勉強もしなくちゃいけないし」

「葉月ちゃんならうまくいきます」

「そうかな」

「そうですよ」

「そうだね、うん」


 二十回くらいはハンドルを押しただろうか。そのたびに楓夏が背負ったハンマーヘッドががさがさと騒いだ。明らかにペットボトルの表面が張ってきて、肩も重い。けれど、腕を止めたくはなかった。


「どれくらい入れます?」

「もうちょっといけるんじゃないかな」

「破裂しないですかね」

「大丈夫っしょ、ハンマーヘッドだって、わたしたちのお腹に収まったんだし」

「確かに」


 ほとんど額をくっつけながら作戦会議をする間にも、空気がどんどん圧縮されていく。女子中学生二人分の腕力では、いい加減プラスチックの頑丈さには敵わなくなってきた。


「も、もう無理ー」

「じゅうぶんすぎますってー」

「いったんきゅうけー!」


 力こぶがはち切れるころには全身から汗が噴き出た。土とかそういうのも気にしないで寝転がると草が香った。

 空は今日もパステルカラーで、ハンマーヘッドの影が頬を撫でていく。


 よし、と起き上った葉月に合わせて楓夏も立ち上がる。大事そうにハンマーヘッドを抱えていた。

 発射台の上に置かれた発射ボタン。ピストルの引き金と懐中電灯のスイッチを足して二で割ったような代物をかちりとすれば、ロケットは飛んでいくはずだ。


 楓夏と目があった。

 一瞬、間合いを測りあうような沈黙。

 しばらくして、ふたりでいっしょにスイッチを手に取った。


「ひひひ」

「えへへ」


 いっしょに押そう、と言うことすら憚られた。

 なんとなく、カウントダウンのタイミングが、声に出さなくとも感じ取れた。

 目と目だけで、いまが3のカウントであると分かり合えた。


 2――


 1――


「うおあっ」

「きゃあっ」


 炸裂音が鼓膜を突き刺し、水しぶきが全身に降り注いだ。

 瞼を閉じそうになったが我慢した。ふたり、目を見開いてロケットの行方を追う。


 白い水の帯がパステルの空を真っ二つに滑る。

 虹の橋が架かって、葉月の心はまだその向こう。


 ロケットがどこまでもどこまでも飛んでいく。

 風をつかまえ雲に乗り、どこまでもどこまでもどこまでも。


 ハンマーヘッドを追い抜くくらい楽しそうに。


「ねぇ、楓夏。空を飛ぶって、どんな感じ?」

「飛んでみますか?」

「……できるの?」

「はい」


 差し出されたのは、彼女が後生大事に抱えていたハンマーヘッドのハンマーヘッドだった。


「約束、しましたよね。これでわたしの頭を割ってください」


 すっかり乾燥したハンマーヘッドは、文字通りハンマーのように硬い。こんなもので頭を割られたら、人間なんて頭蓋骨粉砕どころじゃない。

 もう、

 やっぱり、

 楓夏と話すのは最後なんだ。

 けれど、楓夏はハンマーヘッドから出てきた女の子で、空に帰らなくてはいけない。さっきも言っていたじゃないか、空に帰ります、って。だから、この手で楓夏を空に帰してあげなくちゃいけない。


「わかった」


 飛び出た片方を持ってみると、角材のような硬さと軽さ。それでいて、乾ききった鮫肌が痛いくらいに指の肌にしがみついてくる。人の頭を割るのに、これ以上ぴったりなものはないような気がした。

 剣道なんてやったことないけど、見よう見まねで構えた。


「これ、殺人になったりしないよね」

「大丈夫ですよ」


 軽く微笑む楓夏の表情に緊張もほどけて、彼女を傷つけてしまう恐怖よりも、彼女のためにという使命感が膨らむ。


「じゃ、いくよ」

「はい。――あ、葉月ちゃん」

「ん?」

「十日間、本当にありがとう」


 葉月の指に力がこもった。


「わたしのほうこそ、本当にありがとう」


 ハンマーヘッドを振り下ろした。

 楓夏の頭が横に割れ、みるみる砕け散って空に溶けていく。

 同時に中から現れたのは、大きな大きなハンマーヘッドシャークだった。

 大きな大きな二重の矢印が、葉月の目の前を楽しそうに泳ぎ回る。


 葉月ちゃん、こんなに大きくなったよ、と。

 楓夏、大きくなったね、と。


 楓夏は向きをくいっとかえ、器用に葉月の背後に回り込む。

 そして襟元を口で掴んで真上に放り投げた。


「のわっ――うっ」


 楓夏の背中に受け止められ、このまま乗って行けということらしい。


「よし、行こう」


 背びれに抱きつき脚に力を込めると楓夏はいっきに加速した。風圧で息ができない、鳩尾が冷たく痙攣している。雲が目に入って口にも入って全身はずぶ濡れだ。それでも叫びたい。


「楓夏! これ最高ーっ!」


 地面のパステルカラーがどんどん小さくなって、空のパステルカラーがどんどん大きくなって、雲も突っ切り、ハンマーヘッドの群れも突っ切り、頭上すれすれをすれ違ったハンマーヘッドをすんでのところで回避し、途端に、ベールを後方へと引き流すようにして、空のパステルがすべり落ちていった。視界の中心から放射状に、深い藍色の領域が広がりを見せる。


 目の前に現れたのは北斗七星だった。左の後頭部に焼け付く熱を覚えながら、矢印が向かっているのはおおぐま座だ。地面からでは遠くに点としか認められなかった七つの星が、いまでは指でつまめるほどに大きく近づいている。


 ……つまめてしまった。

 指で。


 北斗七星の柄の先、アルカイドという名前の青白い星。指の間でぼんやりと光っている。二等星なのでそこまで明るくはないが、水色の光は少しあたたかい。というかなんとなく美味しそうだ。若干の弾力もあるし、まるでグミのようで。

 最近、ハンマーヘッドの焦げ臭い燻製ばかり食べていた葉月は我慢できなかった。


 星を、口に入れる。


 本当にグミだった。

 甘い、鼻に抜ける爽やかな酸味と舌にはじける刺激、ソーダ味のグミだった。星とはこうやって食べられるものらしい。

 こんどは柄杓の掬う部分の先端、黄色い星、ドゥーヴェ。これは、ふむ、甘みは抑えめで酸味が強く、ほんのりと苦いレモンの味。ドーヴェの隣、メラクはほとんど真っ白。舌にきゅっとくる渋みと独特な甘さ、喉にこびりつく強烈な清涼感はハッカ。ぐるりと右に回ると牛飼い座のアークトゥルスが橙に光っている。色名の通り、甘みと苦みが強いオレンジだ。太陽にも手を伸ばそうとしたが、熱すぎて素手では触れなかった。火傷しかけた指を冷やそうと手をあおぐと、ぱしゃぱしゃと水音がする。宇宙そのものが深い藍色の液体らしい。とろりと甘い匂いがする、ブルーベリーのジュースだ。ジュースを太陽にかけて冷やすとあら不思議、ブルベリーヨーグルトの味がした。太陽はヨーグルト味のグミだったらしい。


 この宇宙がすっかり食べられるなんて、新しい発見だった。

 楓夏が自分の抜け殻と化したハンマーヘッドを食べつくしたように、葉月もまた昔日の憧れだった宇宙を食べつくすことができた。いや、ふつふつと、また嗚咽に似た熱がこみあげてくる。

 星を食べられた今なら、なんだってできそうだった。


 もう一度、次は楓夏がいなくたって、宇宙に行ってやる。


 知らず知らず、ペットボトルロケットを打ち上げた原っぱで大の字になっていた。すぐ隣には、先ほどまで楓夏が身に着けていたワンピースとサンダル。足元にはロケットの発射台と発射スイッチ。ロケット本体は見当たらなかった。




 シュモクザメ、いわゆるハンマーヘッドが夏の入道雲を泳ぐようになって十数年。

 日本の夏といえばハンマーヘッド。

 何はなくともハンマーヘッド。

 ペットボトルロケットやら、強烈な草と土の匂いやら、汗で張り付くブラウスやら何やらよりもハンマーヘッド。


 そう、葉月が右手に持つハンマーヘッドのハンマーヘッドこそ、日本の夏だった。


 空は今年もパステルカラーだ。陽射しの加減か気温のいたずらか、これが夏空の色なのだろう、とぼんやり思っていた。

 絵の具で描いたような雲とともに漂う無数のシルエットがハンマーヘッドだ。あのハンマーヘッドたちのように飛び回って、泳ぎ回って、遊び回れたらどれだけ楽しく人生は回っていくだろう。


 何せハンマーヘッドは己の進むべき方向を熟知している。下から見上げるとハンマーヘッドの姿というのは、まず頭部が左右に広がって矢印の形をしているし、一対の胸ビレも矢印に見える。二重の矢印だ、どれだけ自分の針路を強調したいのだろうか。たまにくねくねと蛇行する個体もいるが、それにしたって二重の矢印で自らの道を切り開いているのだ。

 十日前までは、そんなハンマーヘッドがただただうらやましかった。



 けれど今はもう、うらやましくなかった。


 葉月も手に入れたのだ。

 自らの矢印を。

 未来を切り開いていくハンマーヘッドを。


 空を飛ぶ彼女たちに比べればひとつ少ないけれど、葉月にとってはかけがえのない矢印なのだ。




 楓夏に手渡されたハンマーヘッドのハンマーヘッドを担いで、葉月は歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

八月頭のハンマーヘッド 多架橋衛 @yomo_ataru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ