第3話

 とにかく大急ぎで家のなかに運び込み、次は泥を落とさなければならない。葉月と楓夏、ふたりで浴室にこもって、冷水のシャワーを頭からかぶりながらも意に介さず、必死に、ハンマーヘッドの肉についた砂を、筋の間に入り込んだ小石を、洗いこそいだ。


 すべてが終わったときには外もすっかり暗かった。雨は嘘のように晴れた。


 救出したハンマーヘッドの肉は、表面は固いのに指で押さえてみると抵抗がない。乾燥が途中で無理に中断させられた証拠だ。鼻に近づけると、アンモニア臭が消えるどころか雨水を含んで泥臭い。とても食べられるような状態じゃない。

 楓夏の言っていた期限までは、あと一週間。天日干しに二日、雨を含んだ分も考えると三日かかるかもしれない。だが、乾かしている間にまた雨が降ったら?

 まともな消臭方法が見つかったのは今朝だ、ただでさえハンマーヘッドの肉はまだまだ残っていて、残り一週間死ぬ気で食べないといけないのに、これ以上、後におしてしまったら食べつくすどころではなくなる。


「葉月ちゃん。どうしよう、わたし、これ、食べられなかったら……」


 手が止まれば脳が動き出す。

 現実が、最悪の想定が目の前を覆って喉を締め付けてくる。


 一口大の肉を、葉月は無理やり食べてみた。

 むせる。

 洟が飛ぶ。

 胃がひっくり返ったように縮こまり、たった二十グラムの肉塊ですら拒絶を示す。

 こんな代物を、無理にでもいいから根性で食べろなんて、楓夏に言えるわけがなかった。

 だからと言って、安易に励ましたり慰めたりもできない。この肉を食べなきゃいけないのは楓夏で、葉月はただの手伝い、失敗すればどうなるかすらも知らない、所詮は他人事。彼女の代わりに今朝出来上がった干物をしがんで、すこしでも消費するしかない。

 手を、いや、口を動かせ。頭も動かせ、何か考えろ、この場をしのぐ方法を。二日かかる天日干しよりももっと手早くできる加工方法。何かないか、何かあるはずだ。確かものを噛めば頭の働きもよくなるってどこかで見た気がする。干物なんて噛むのにピッタリじゃないか。ほら、もっと口を動かせ、頭を動かせ、人類数十万年の歴史だろう、何か方法があるはずだ。

 こういうときに限ってハンマーヘッドの干物がやけに美味く感じる。スルメのような触感、唾液をしみこませてしがんでいるうちに少しずつ身がほぐれて、口の中に独特の香りを充満させる。アンモニアとは少し違う、香ばしいのだけれどえぐみやコクがあって、ある意味ではよく干した布団とも似ているのだが、もっと、甘みというか、旨みを含んだ香り。何かに似ている気がする。


「あ……スモークサーモンだ」


 もちろん味も触感も違う。けれどこの鼻腔をさらっていく香りは、スモークサーモンだ。つまるところ、燻製。


「葉月ちゃん……?」


 燻製。

 そう、干物にしたハンマーヘッドの肉は燻製の香りに近い。それならば、天日干しにするよりも直接燻製にしてしまえばいいのではないか。燻製ならば高温の煙で素早く香りを付け、水気を飛ばし、火も通すことができる。保存だってきく。


 思わず、楓夏の肩に乗せた手が強張った。


「いいこと思いついた。燻製にするんだよ」

「燻製……ですか。でも、道具は……?」

「それなら大丈夫。わたしが用意できる。楓夏は、キッチンペーパとかさらしで、できるだけハンマーヘッドの水気を取って」

「――わかりました」


 うまくいくかどうかなんてわからない。でもやるしかないだろう。

 葉月は納屋に走った。燻製の道具なんてない。近いものならすぐに用意できる。この二日間、さんざん食べてきたハンマーヘッドのフライ。その揚げ油をいれていた容器。昔使っていたビニールプールをよければ、見つかった。


 空の一斗缶。これが求めていたもの。幸い、三つもある。

 ひとつを抱えて今度は台所へ。キッチンペーパーを広げる楓夏も尻目に、缶切りの刃を一斗缶の底にあてがった。大丈夫、そこまで分厚くはない、固くもない。数分の格闘で底が抜けた。あとは側面下部に小さな空気孔と、金串を通せるような穴を両側にいくつかあければ出来上がりだ。一斗缶による即席の燻製窯。


 新しい問題にぶち当たる。燻製に必要なものは窯だけではない、煙を出すための燻煙材がなければ、いくら窯があったところで燻製にはならない。サクラとかブナとかのチップを使うのだが、このさい小枝や薪でもいいのだが、そんなに都合のいいものはない。

 台所を見回す。何か燃やせるもの、燃やせるもの――。


 あった。楓夏がこの家で食事をするときに使うもの。


 割り箸。そのまま、きれいに加工された小枝じゃないか。

 まだある。お茶の出し殻。祖母ちゃんが掃除をするために乾燥させて取り置きしているのだった。これをうまく使えばいい感じにお茶の香りもつくかもしれない。


「祖母ちゃん! お茶の殻もらうよ!」


 火加減なんて知らない。とにかく煙が出ればいいんだよな。

 折った割り箸に片っ端から火をつけ、振り回し、火の勢いを弱め、煙だけが出る状態にする。地面に山盛りにし、茶殻を振りまき、その上から、底が抜けた筒状の一斗缶をかぶせる。充満していく煙。


「完璧だ」


 崩れた縁側から漏れ出てくる居間の光が、揺蕩う煙を浮かび上がらせる。心臓が逸る。


「楓夏、ハンマーヘッド、できてる?」

「はい、そっちのはもう拭いてます」

「オッケー」


 切り身をS字フックにぶっ刺し、一斗缶に通した金串に引っ掛ける。桜色の肉が八つ、煙に沈んだ。あとはふたをかぶせて、待つだけ。一時間、いや、二時間。空気孔から煙加減と割り箸の減りを見つつ、ほかの一斗缶も加工する。昼間の反省から雲模様にも気を配った。憎たらしいほど晴れていて、こんな田舎では天の川まではっきりと見えた。英語でミルキーウェイとは言うけれどそのぼんやりとした星の集団は、一斗缶から漏れる煙とほとんど重なるようだった。なんとなく、目がしばしばしてくる。視界がにじんで星の光が溶けていく。風下だったらしい、燻製窯が吐き出した煙にすっかり顔を覆われていた。


「葉月ちゃん、どうなったかな」

「うん……開けてみるよ」


 あれだけ自信に満ち溢れていたものの、いざ結果を目の当たりにしようとすると鳩尾が締め付けられそうになる。軍手をはめて一斗缶の蓋を取り外すと、大量の煙が噴火のようだ。


「けほっ、け、煙たいです、これ」

「うわ、くっそ、また風下だ!」


 風上に回ったり蓋であおいだりしながら、トングをかちゃかちゃ鳴らす。フックを掴んでそっと、ハンマーヘッドの肉を取り上げてみた。薄い桜色だった肉は煙を浴びて、きれいな琥珀色に変わっていた。燻製に特有の、光沢をもった被膜もちゃんとできている。


「おぉ、燻せてる……」

「こんなに変わるんですね」


 燻製には成功した。あとは、味と、何より臭いがどうなっているか。あのアンモニア臭ははたして消えているのか。


「食べるよ」

「はい」


 親指大の肉片をむしり取ると、触った感覚では弾力があり、燻された直後なので湯気も出ている。これだけを見るとおいしそうなのだが、意を決して、ふたり同時に口に放り込んだ。


 燻製材を使っていないのでいい香りとはいかない。燃やした新聞紙の焦げ臭さがいいところだ、割りばしと茶殻ではこんなものなのだろう。歯に絡みつくような粘っこい表面は、燻製チーズやスモークサーモンと同じ。身はかなり火が通って水分も飛んでおり、ほくほくと繊維にそってほぐれるものの、ほぐれたひとつひとつの肉塊には歯ごたえがある。


 おいしくはない。

 でも、焦げ臭さを我慢すれば食べられる。

 焼き芋の皮だと思えば、いくらでも食べられる。


 そう、食べられるのだ。


「臭くはない、よね」

「はい。食べられます」

「食べれるんだよね」

「はい、食べられます!」


 成功だ。

 アンモニア臭はまったくない。食べられる。たった二時間で、数キロのハンマーヘッドの肉が食べられるようになったのだ。


「楓夏、どんどん燻製にしよう!」

「いま持ってきます!」


 三つの一斗缶をフル回転させるべく、大量の割りばしに火をつけ、大量のハンマーヘッド肉をフックにぶっ刺した。庭先はもうもうと立ち込める煙で景色もおぼろげだ。


 ハンマーヘッドの天日干しが底をつき、燻製を食べながら作業を進めていれば真夜中にもなる。このペースならあと三日ほど、約束の十日まで四日の余裕をもって燻製は完了するだろう。それだけの時間があれば、なんとか食べきることができるかもしれない。


 肩の荷が軽くなった気がする。息も緩み、額の汗を拭うと手の甲は真っ黒になった。


「うわ、なんじゃこれ!」

「葉月ちゃんの顔、煤で真っ黒ですよ」

「そういう楓夏だって全身灰まみれだぞ」

「本当ですね」


 ふたりとも、割り箸と茶殻の出す燃えカスやら煙やら、あとは土やら虫やら汗やらでどろどろに汚れきっていた。その恰好がおかしくて、ふたりして笑いがこらえきれない。


「これでお風呂に入っちゃったら、かえって汚しちゃいますね」

「いいものがある。こっちも落ち着いたし、ちょっとやってみるか」

「何をするんです?」


 葉月は、ついさっき納屋で見つけたビニールプールを引っ張り出してきた。もう十年くらい使っていないので埃もかぶっているが、破れてはいない。


「わあ、すごいです! 一度こういうの入ってみたかったんです」


 ホースをほとばしらせながら交代で自転車用の空気入れを押し、ものの十分でプールの出来上がり。四角くて広さもあるので、葉月と楓夏ならふたりいっしょに入れそうだ。


「ひひひ、できたぞ。それっ!」


 葉月は服もサンダルも脱がずにそのまま水に飛び込んだ。


「いいんですか、濡れちゃいますよ」

「いいのいいの。どうせ服も泥だらけなんだし、ついでに洗濯だ。ほら、楓夏も入りなって」

「きゃっ」


 腕を引っ張られて楓夏の足がプールに飛び込んだ。


「つめたっ――あ、気持ちいい……」


 ただの水道水も、熱帯夜では立派な清涼剤になる。頭からかけられると、全身を油のようにべっとり覆っていた汚れが、さっと流れていく。


「でも、水が汚れてしまいます」

「大丈夫、こうやれば」


 葉月がビニールプールの縁にもたれて、水をざぶりとあふれさす。ホースを沈めておけば源泉かけ流しだ。


「そういうわけだから楓夏も」

「へへ、そうですね。隣、失礼します」

「近う寄れ近う寄れ」


 肌にぴたりとひっついたワンピースが水を吸って涼しい。けれどビニールプールは、ふたりが寝そべられるといっても子供用なので、ほとんど肩と肩は触れ合うし、水の冷たさ以外にも互いの体温が直に伝わってくるのだった。


「あー、生き返るわー」

「おじさんみたいですよ、そのセリフ」

「いいんだって、一日の終わりなんだから」


 水に肩までつかりながら、ビニールプールを枕にする。一斗缶から離れているので煙も気にならない。夜空がまっすぐ見える。天の川が顔のすぐ前にある錯覚。天の川を泳いでいるのはカササギではなくハンマーヘッドで、たまに二重の矢印が星々を背に流れていく。確か冷蔵庫のなかに冷えたコーラがあったはずだけど、それさえあれば完璧だったな、と葉月は腕を伸ばした。


「あの、真上にあるちょっと水色っぽいのがデネブ。まっすぐ下に行ったのがアルタイル。お、もうちょっと下に行ったら土星があるじゃん。その近くのごちゃごちゃしたのがいて座ね」

「葉月ちゃんって、星、詳しいんですか」

「なに、その意外そうな顔」

「いえー……そんなロマンチックな趣味があったなんて」

「ほっとけほっとけ」


 きーっと、奥歯を鳴らす。


「昔、好きで勉強してたときがあったんだよ、わたしにも」

「昔……今はやってないんですか?」

「ん、まぁ……」


 星は好きだ。宇宙も好きだし、何ならロケットとかスペースシャトルとか宇宙ステーションも好きだ。空の遠いところに浮かんでいるのが不思議で、たまらなく心を惹かれる。本を読んだり博物館に行ったり自分で望遠鏡も覗いたりした。けれどもある日、自分の頭がそれほどよくないことに気が付いて、自分なんかが空に向かって頑張るのは無駄なんじゃないかと思うようになった。それだけだった。


「久しぶりに、少しやってみてもいいんじゃないですか? お暇なんでしょう?」

「人のこと暇って」

「だって、わたしが落ちてきたとき、縁側でお昼寝しようとしてましたよね」

「み、見てたのか……」

「はい」


 言い訳が見つからなかった。なぜか満面の笑みを浮かべる楓夏が憎たらしかった。


「わかったわかった。その代わり、楓夏にも手伝ってもらうからな」

「いいですけど、何を手伝えばいいんですか?」

「まずはそうだな――」


 思いつきでしかないので改めて聞かれても難しいのだが、と考えようとして、鼻が異臭を検知した。大量の白い煙が流れてきている。


「けほっ、け、煙たいです、葉月ちゃん」

「うわ、くっそ、また風下だ!」


 ふたりは大慌てでプールから転進したのだった。

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