夜になったら逢いましょう

夜になったら逢いましょう

 冬の凍てつく風の中、少年は小舟に乗って夜の海に繰り出していました。とても暗い、暗い場所です。昼の鮮やかな水縹みはなだとは違って、少年の周りに広がっているのは何も映さない暗黒でした。夜の海は、呑み込まれそうな程に暗いのです。少年は身震いしました。もう一枚羽織を重ねてくれば良かった、と長着ながぎの袖に腕を引き入れながら後悔します。


 しかし、そんな暗闇の中でも道標みちしるべはあります。頭上に広がる星々です。夜空に散りばめられた無数の星々は、その中心にある三日月を取り囲むようです。きらきら、きらきら。ほのかな光を放っています。小舟から眺めるそれは、とても綺麗な、美しい景色でした。


 さて、少年が陸からかなり離れたところまで進むと、地平線が何やら可笑しいことに気づきました。道標であった夜空の星々が、まるで川に浮かぶ花のようにのです。そのことが当然であるかのように、ずっと昔からの決まりごとであるかのように、素知らぬ顔で流れてゆきます。あまりに自然に流れてゆくものですから、少年は、はて、星とは海でも生きてゆけるものであったか、と思ったのでした。しかしすぐに思い直し、そんな訳はない。これは何か可笑しいのだ、と小舟を進めて流れくる星々から離れようとしました。


 必死にかいを回して小舟を進める少年でしたが、星々の流れる速さは思いのほか速く、あっという間に追いつかれました。淡い光は海を覆い、暗闇を侵食するように海を満たしました。先程までは呑み込まれそうな闇だった海が、今では小さな宇宙のようです。初めは不気味に思っていた少年も次第に慣れて、小舟から顔をり出していました。海中の星々が少年の顔を仄かに照らします。


 少年は手を伸ばして近くにあった星を海の水ごとすくい上げました。すると、水に取り囲まれた星は四方に光を放ち、小舟をい具合に照らしました。それを見た少年は、この星を瓶か何かに閉じ込めて照明の代わりにしよう、と思いつきます。そして考えつくやいなや、入れ物を探しました。


「おい、お前。何をしている」


 照明作りに夢中になっていた少年に遠くから声がかかりました。野太い、男の声です。驚いた少年は掬い上げた星を海に落としてしまいました。

 声の方を向くと、照明が一つと少年よりも大きい影が二つ、近づいてくるのが見えました。恐らく、舟に乗った男たちです。少年は怒気の感じられる声に少々怯えていました。


 小舟のすぐそばまで来た舟は、ぶつからないよう上手に止まりました。そして、手前で櫂を回していた男が先程と同じ声で訊き直します。

「お前、こんなところで何をしている。此処ここは子供の来ていいところではない」


 彼らの乗っていた舟の先には提灯ちょうちんが固定され、それによって男の顔が照らされていました。眉間の皺に鋭いまなこ。無精髭は人相をより一層悪くしています。よく見ると男たちは二人とも着物の上に何枚も羽織を重ねているようで、大きな身体は威圧感があります。

 少年は腰が引けて、中々返事ができませんでした。見兼ねた男が少し穏やかに話します。


「此処は、神聖なる星の海だ。夜空に輝く星座たちが、月に一度だけこうして降りてくる。神話に出てくるような伝説たちが、だ。だから誰でも立ち入っていい場所ではない。どうやって辿り着いたかは知らんが、早く立ち去れ」

 諭す男に、しかし少年は食いつきます。

「立ち入ってはいけないのなら、貴方方は何をしているのですか」


「私たちは死者を流しているのだよ」

 奥に座っていた男が割って入りました。手前の男よりも上品そうな、軽やかな声です。おい、と手前の男は彼の発言を咎めます。

「良いではないか。いずれは知ることだ」

 そして、笑みを浮かべる顔を少年に近づけて説明を始めました。


「君も、死んでしまった者が星になる、という話を一度は耳にしたことがあるだろう」

 少年は頷きます。男もそれを確認して続けました。

「私たちは死者が星になれるように月に一度、こうして夜空が降り立つときに此処に来る。そして、彼らを流すのさ」

 男は自身の乗っていた舟の後ろを指しました。布に包まれた、を。中身を察した少年は顎を引きます。


「此処に流した死者は、伝説の星座たちと肩を並べて数刻後には夜空に帰る。そして、来月にはまた現れる。星空の一員となる訳だ。だから此奴こやつは神聖な場所だと繰り返すのだよ」

 手前の男をちらりと見ると、彼は不満そうな顔をしていました。それを無視してほら、と軽やかな声は続けます。

「下を見てみるといい。其処にある星は、先月私たちが流した此奴の友人だ。死者は姿を変えて生きているのだよ。君も、わかったら帰りなさい。彼らの静かな時間を奪ってはいけない」


 海に立ち入ってはならない理由に納得した少年でしたが、彼は引き下がりませんでした。

「話は分かりました。それでも帰る訳にはいかないのです」

 少年は二人の男を見上げます。そんな彼の表情に浮かぶ僅かな焦りに気づいたのは、奥の男が先でした。


「何かわけがあるようだね」

 少年は頷きます。

「少女を探しているのです。僕と同じくらいの背丈の、黒髪の美しい少女です。これと同じ、藍の耳飾りを付けています」少年は自身の耳を指しました。「毎晩浜辺で逢う約束をしていたのに、先月から姿が見えないのです」

「それで海に居ると?」

「……馬鹿げているのはわかっています。けれど村中を捜しました。彼女は約束を破ったこともありません。もう、村の外に居るとしか思えないのです」


 少年の切実な訴えに男たちは黙りました。彼の心情を察して同情こそしましたが、それでも決まりは決まりです。例外は認められません。

 何と言葉をかけていか男たちが考えあぐねていたそんなとき、南の方の海から何か大きな、生き物のようなものが押し寄せてきたのが見えました。凪いでいた水面みなもに波紋が浮かんだのです。


「しまった、鯨だ」

 野太い声が溜め息をきました。

「くじら?」

 少年は顔を上げます。すると焦りを含んだ軽やかな声が説明をくれました。

「鯨といっても、君の想像するところのそれとは全く違うがね。ギリシャ神話に出てくる化け鯨さ。この季節になると南の空に現れる星座。まあそれも、こうして好き放題に泳ぎ回っている訳だけど」


「近づいてきた。舟にしっかり掴まったほうがいい。波に振り落とされるぞ」

 野太い声が云いました。少年は云われた通りに小舟の船端ふなばたを掴みます。しかし、その意識はずっと消えた少女にありました。彼女は何処どこへ行ったのでしょう。あれ程少年と懇意にしていたのに、別れの言葉も告げずに。


 月光に浮かび上がる波紋が迫り、舟まで届くと激しい揺れが起こりました。真下を巨大な影が通ります。少年たちは各々必死に舟にしがみつき、海の中の星々も、鯨の動きに合わせて歪みます。


 鯨が丁度舟の下に潜ったとき、それは大きく体をひねりました。そして、少年の小舟に向かって海から跳ね上がったのです。少年のすぐそばにいた男たちの舟は裏返りそうな程に揺れ、少年の小舟に至っては砕かれてしまいました。少年は宙に放り出され、その横を入れ違うように鯨が通ります。

 落ちていく間、少年は鯨を見ました。男の言うようにそれは少年の知っている鯨とは似ても似つかない凶暴な見た目をしていました。見たこともない程の巨体にゴツゴツとした胴体は、元々星座だからでしょうか、光を纏っています。それに、身体に対していささか小さすぎはしましたが腕もありました。まさに怪獣という言葉が似合う容姿です。


 男たちの叫ぶ声が聞こえ、少年は死を覚悟しました。そして水面に身体からだを打ちつける刹那、のを目にしたのです。星々が海に流れ込んだからでしょうか。笑っているような三日月を残して、夜空は光を失っていました。


 猛烈な衝撃と共に、少年は星の海に沈みます。痛い程に冷たい水。薄れゆく意識の中、彼は自身の身体が幾つもの光に触れていくのを感じました。例の、流された死者でしょうか。少年は涙を流します。肌に触れるたびに仄かに温かい温度が伝わって、毎夜触れていた少女の手が思い出されたのです。星々の温度に包まれながら、少年は沈んでゆきました。


 少年の居なくなった海上には男たちが取り残されていました。鯨は海に潜り直し、そのときに起こった津波のような波にも耐えた男たちは呆然と少年の落ちた辺りを見つめていました。静けさが刺すような寒さを助長します。


彼奴あやつ、助かるかね」

 野太い声が訊きました。

「いや、あれはもう無理だろう。星座になったところを弔おう」

 軽やかな声が、声音を落として返しました。


 二人はしばらく少年の戻ってくる可能性を考えて待ちましたが、いつまで経ってもその気配はなく、しまいには諦めて舟を出しました。その後、当初の予定通り死者を流す準備をします。


「海に落とされなくて助かった」

 野太い声が布に覆われたむくろを抱えて云いました。

「それにしてもやけに軽い。子供か?」

 丁寧な手付きで顔の部分だけ布を剥がすと、男は身体を硬くしました。其処には、黒髪と藍の耳飾りが美しい、腐敗した少女の姿があったのです。


「半月程前、病で倒れたそうだ」

 背後から、他の骸を海に流し終えた男が静かに云いました。


「――お前、知っていたのか」

「ああ」

「なら何故なぜ云わない」

「云って如何どうする」

「しかし……」

 野太い声は言葉を詰まらせました。

「彼奴のことは残念だが、これで良かったように私は思う」


 男たちは暫くの沈黙ののち、少女を流しました。少女は何処か穏やかな表情でした。


 それから、南の地平線では星々が海から空へ流れてゆきました。海の水ごと吸い上げるように、仄かな光は夜空に昇ってゆきます。光の溜まり場となっていた海は元の闇に戻り、凪いだ水面には反射した三日月だけが残りました。星々の帰還です。

 その内に二つ、寄り添い合う星が増えたことに気づいた人はきっと少ないでしょう。彼らは今まで通り、夜になったら出逢うのです。

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夜になったら逢いましょう @Wasurenagusa_iro

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