第44話 天が祝福するのは如何なる者か

 紀元前691年


 正月、魯は斉の襄公の要請により、衛を責めることになった。斉にいる衛の恵公を復位させるためである。


 魯の公子・溺に軍を率いさせ、斉軍と共に衛を攻めた。


 なんとしても恵公の復位はさせまいという意思の強い二公子がいるため、衛の抵抗は激しく攻略することはできなかった。


 襄公が積極的に軍を動かす中、管仲は公子・糾の説得に当たっていた。いや正確に言えば同じ教育係である召忽の説得に当たっていた。


「ならん」


 召忽は強い口調で管仲の意見を退けようとする。


「されど、今や国民の志望を集めているのは公子・小白だ。一方の我らの主はそういった志望を集められてない。そのためにも国君に向かって、非難をするべきだ」


 襄公は度々戦を起こすため国民は疲弊している。そのため襄公を出奔という形で非難している公子・小白に斉の人々の志望が集められている。


(自分たちもそうするべきだった)


 管仲はこの進言をすることが出来なかった自分が情けなくなった。しかしながらまだ間に合うとも考えていた。


「されど公子・小白がいくら志望を集めようとも他国にいては即位などできないだろう」


 召忽は他国にいるよりは自国にいて機会を待つべきと考えていた。その考えは管仲にもあるため進言したのである。しかし、管仲は何の考えも無しに小白が出奔などするはずがないと考えてもいた。


(特に鮑叔ならば尚更だ)


 管仲は鮑叔という人を知り抜いている。そして、鮑叔の考える術は恐らく斉の上卿である高傒と彼と同等の地位にあり、斉の重鎮の一族である国氏の協力も得ていることだろう。


 内に協力者がいれば他国にあろうと国君になることは可能である。だが、一方で公子・糾にはそういった協力者がいない状況にある。それでは斉にいても即位できる可能性は低くなってしまう。


 しかし、公子・小白が圧倒的に有利というわけではない。


「左様、公子・小白は他国におり、主は自国にいる。だからこそ主は襄公に向かって、堂々と非難し、国民の志望を得て、天の時を得たとき、国君の座に真っ先に着くことが出来るのだ。国民の志望を得ていれば例え公子・小白が敵対しようとも怖くはない」


 公子・糾は斉にいる。そうであれば、変事が起きた時の行動は他国にいる公子・小白よりも早く動くことが出来るはずだ。だが、国民の志望を集めずに即位した時、国民の志望を集めた公子・小白と敵対した時に負ける可能性が高まる。だからこそ今、襄公の政策を非難し、国民の志望を得るべきだと管仲は進言するのである。


「だが管仲よ、父を子が非難してはならず、兄を弟が非難するようなことをしてはいけない。そんなことをすれば主は逆に国民の心は離れていくことになる」


 召忽は形に拘るところがある。確かに召忽の言う考え方は後に孔子が説いた儒教の考えの一つとして形を持つが、それ以前からその考えはあり、一般常識に等しいのである。


 だが、それは支配者層の考え方でもある。そう考えると儒教の考え方は支配者層の考え方であり、社会的弱者の考えではない。


「そのようなことはない。例え、父を非難しようとも兄を非難しようとも徳を積み、礼に従った行いをしていれば国民の心が離れることはない」


 管仲はそういった一つの考えからしか物事を見る人ではない。そのため国君を非難しても構わないと考える。


「ならば商の湯王が父や兄を非難する行いをしたか。周の武王は父である文王を非難した行いをしたか。武王は父の業績を立派に継ぎ、天下を得た。そして、その子である成王もまた父の考えを継承することで、天下を安んじたではないか。一方の夏の傑王は父より得た業績を損ない考えに逆らったために国を失った。商の紂王は兄の進言に耳を貸さず、国を失った。父や兄を非難し、逆らうことをした者は皆、その報いを受けている」


 召忽はそう言って管仲の意見に耳を貸さなかった。一度、言い出せば、断固として譲らないところもある召忽にこれ以上言うのは無理と判断した管仲は説得を諦めた。


 それならば公子・糾を説得するかというと管仲はそれをしなかった。なぜなら公子・糾には癖がある。それは自分の考えを表現する前にまず召忽の意見を聞くことである。そして、彼の意見を聞いてそれを自分の意見として言うのである。


 それはある意味、自分の考えを持っていないことに等しい。そのため管仲が彼を説得しようとしても召忽の意見を聞いてからという返答があるだけであろう。


「天は公子・小白こそが国君になるべきと考えているのか」


 だとすればどれだけ管仲が足掻こうとも、意味をなさらないということになる。


「いや違うはずだ。天は努力するものを見捨てることはないはずだ」


 そう信じなければ人は努力することなく堕落するしかないではないか。そんなことを管仲は認めるわけにはいかない。


「天よ、私は己の役割を果たす。果たして主を国君にする」


『それは誠に己が成すべきことか?』


 そのように呟いた時、ふと管仲に声が聞こえた。彼は辺りを見渡すが人の姿はない。


(今の声は何だ)


 管仲は不思議に思いながらもその声が脳裏から離れなかった。


 その時、小さな黄色い鳥がその場から羽ばたいた。

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春秋遥かに 大田牛二 @sironn

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