第40話 魯の桓公

 小鳥の声が囀る美しい朝、それにそぐわない表情を浮かべる者が居た。魯の桓公である。


「一体どこにいるんだ文姜」


 彼は苛立ちを露わにしながらそう呟いた。そう妻である文姜が突然、消えたのである。そのことを知った桓公は配下の兵に命じ至る所を探させたが見つけることができないでいた。


「どこにいるのだ。もしや何者かに連れ去られたのか」


 そうなれば恐ろしい事態である。そのようなことがあれば、文姜の命が危ない。そう考えた桓公は再び兵に探している範囲を増やすよう命じようと思ったその時、戸が開き、兵が現れた。


「我が君、奥方様が見つかれました」


「そうか、よくやった。文姜は今どこにいる」


 桓公は兵の報告に感情を爆発させて言った。


「実は……」


 兵が言う前に戸が開き、部屋に斉の襄公が文姜を連れてやって来た。


「斉君がなぜここにいるのだ」


 桓公は文姜の姿を見て安堵しつつ、驚きながら疑問に思うと襄公は言った。


「なんでも私と話がしたいと妹は私の元に一人でやってきましてな。私も注意したのだが、このじゃじゃ馬は帰ろうとしなくてな。そのため仕方なく話をすることにしたのだ。長く離れていたこともあり、話が弾み朝まで話し込んでしまった。申し訳ない」


 襄公の謝る姿に桓公は驚きつつ、文姜を見た。彼女は桓公にあまり見せない笑顔をしつつ、彼女も続いて言った。


「はい、どうしても兄上と話したく勝手な行動をしてしまいましたわ。申し訳ございません」


 勝気な彼女の謝罪に驚きながらも、彼女の行動はそう簡単に納得するわけにはいかない。


「いや、兄と会いたい思いは大変わかった。しかし、なぜ夜に抜け出す必要があったのだ。他に会う機会などいくらでも……」


「この度のことを謝罪したいため宴を用意した。魯君には是非参加していただきたい」


 そう桓公が文姜に言うのを襄公が遮った。


 最初、桓公は断ろうとしたが、何故か襄公には有無を言わせない雰囲気があった。そのため桓公はそれ以上言わず、宴に向かうことにした。


 ふと、襄公と文姜の間が近づきすぎるのを僅かに眉を顰めつつ。


 そのようなことがあってから数日経ったが桓公は未だに斉に滞在していた。理由は襄公が引き止めるからである。だが、それ以上に桓公には疑問があった。あの日以来、文姜が勝手に屋敷を抜け出し朝に戻るということが続いていたのである。


 最初こそ、兄と思い出話をしていると思っていた桓公だがあまりにもその回数が多いため流石に疑問に思い始めていた。


(まさか文姜は男と会っているのではないか)


 そのような考えが桓公の脳裏に浮かび始めた。しかし、そのことを彼は信じたくはなかった。だが、その考えは段々と膨らみ始め、遂に彼は兵に文姜を監視させることにした。


 そしてその夜。兵が文姜の部屋を監視していると文姜がこっそり部屋から抜け出した。


 命令を受けて監視していた兵は彼女を追った。


 彼女は斉側の屋敷に入った。それを見た兵はそのまま屋敷に入り、追跡した。そして文姜がある部屋に止まったのを確認した。


 兵はじっと文姜を監視しつつ、すると部屋の戸が開いた。そして、兵は部屋の主を見て驚いた。そのため思わず声が出そうになったがこれを抑えるとしばらく部屋を監視し、やがて微かに女性の露っぽい声が聞こえると、


(ああ我が君……)


 思わず、天を仰ぎつつ兵は静かにその場を離れた。


 兵が戻ってきたことを知った桓公は兵を部屋に招いた。


「どうであった」


 その声は震えていた。


「報告します。残念ながら奥方様は男の部屋に入り、関係をもっています」


 桓公は予想していたとは云え、肩がわなわなと震え、怒りが込み上げてきた。


「誰といるのだ」


 兵は僅かに沈黙したが、口を開いた。


「斉君とでございます」


「なんだと」


 桓公は思わず声を荒げた。まさかよりにもよって実の兄と関係を持つとはあまりにも禁忌の行いであり、礼に背く行いであり、そのような者が国の正室であるとすれば周辺の国から嘲笑われることになる。そして、そんな女を自分は愛していたのだと思うと怒りが込み上げて行った。


(おのれ、おのれぇ許さんぞ)


 桓公は激情の人ではないが今回のことにはさすがに激怒した。そして、朝を迎え、文姜が戻って来ると、彼女に怒鳴りつけた。


「どこに行っていた」


 いつもとは違う口調の桓公に疑問に思いつつ、文姜は悪びれた様子もなく。


「兄上の元に」


「思い出話に花を咲かせたと」


「はい」


 そう文姜が言うと桓公は彼女に近づき、彼女の頬を思いっきり叩いた。彼女はそれにより、倒れると桓公を睨んだ。


「何をなさいますか」


「何をだと、ふざけるな」


 文姜の言葉に桓公は声を荒げた。


「私は知っているのだぞ。お前と斉君の関係を。一国の正室にいるお前が他国のしかも己の兄と関係を持つとは何たることか、恥を知れ」


 桓公は文姜に蹴りを入れると部屋から立ち去った。文姜は痛みに悶えながらもなんとか立ち上がると兄の元に向かった。


「どうしたのだ。誰にやられた」


 文姜が痛みによって顔を歪めていることに驚きながらこの愛しい人へひどい仕打ちをした者を問いただした。


「魯君に私と兄上様の関係を知られ、あの人にやられたのです」


「なんだと」


 襄公は叫んだ。彼は激情の人である。自分の愛しき人を傷つけた桓公に激怒した。


(許さんぞ。殺してくれる)


 襄公の行動は早かった。その点、彼は決断力と行動力に優れていると言えるかもしれない。


 襄公は桓公を宴に招いた。


「宴などいりません。私どもは今日、帰らせていただく」


「止めはいたしませんが最後に別れの宴を開かせていただきたいのです」


(どの口が言うのだ)


 桓公はそう思いつつ、


(だがここで変に断って感情を逆なでるのは下策であろう)


 桓公は国に戻れば直ぐ様、軍を斉に向けるつもりであったが、今はまだそのことを襄公に知られてはならないと思ったため渋々宴に参加することにした。


 宴の最中、桓公は襄公の顔を見ないようにしていた。だが、襄公は構わずに桓公に酒を注いであげ続けた。


 すると桓公は酔い始めた。そのため桓公は、


「そろそろ帰らせていただきます」


「分かりました。しかし、酔っておいでのご様子、臣下の肩を貸しましょう。彭生、魯君を車に乗せよ」


 彭生と言われた男は襄公に言われ桓公を持ち上げた。彭生は大男で怪力の持ち主である。


 彭生は桓公を肩で担ぎ運んだ。そして、車に乗せようとしたとき桓公を抱き上げると彼は桓公を締め上げ始めた。怪力の男に締め上げられ悲鳴を上げる桓公。しかし、周りに助ける者はおらず、遂にこと切れた。


 彭生はそのままこのことを報告した。


「良くやったぞ。彭生」


 襄公は高らかに笑った。

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