第39話 禁忌

 紀元前694年


 正月、斉の地である濼で魯の桓公は斉の襄公と会見を行った。その時、桓公に付いて来た者がいた。彼の妻・文姜である。


 文姜が今回の会見を知り、何度も桓公に願った。


 本来、このような場に女性を連れていくことは礼に反した行いであったため桓公は悩み、申繻にこの件を相談した。彼は桓公をこう諌めた。


「女には家(夫)があり、男には室(妻)がいるものです。それにも関わらず、このような場に出るのは軽率な行為であると言えます。軽率なことをしないことが礼です、礼を破れば必ずや禍が起きることになります。どうかお考え直しを」


 最初こそは桓公は申繻の諫言に従おうと思ったが、そのことを文姜に伝えると、


「あなたは一国の主でありながら一臣下の言いなりになるのですかっ」


 彼女はその美しい顔をわずかに歪めながら激高した。彼女の剣幕に桓公は動揺する。


「いや、だがな文姜よ。申繻は我が魯の重臣である。そんな彼の言葉に無碍にするわけにはいかない」


「それでも一臣下に過ぎません。それに私はただ斉の家族に会いたいと願っているだけではありませんか。それのどこがいけないのですかっ」


 そう激高しながらもやがて彼女は泣き始めた。そんな文姜の姿に驚きしつつ、同情した桓公は彼女の肩を持ち、


「うむ、わかった。わかったぞ。斉君との会見にお前も連れて行こうではありませんか」


「ありがとうございます。我が君」


 文姜は先ほどとは打って変わり、笑みを浮かべた。だが内心では、


(面倒な男だ)


 と、吐き捨てた。彼女は桓公のことを見下しており、彼のことを好んではいなかった。男らしくないところが気に入らないのである。


(男は男らしくなければならない。そうあの方のように)


 文姜には思いを寄せる存在がいる。その人のことを思うと彼女の普段の鉄仮面の表情からは考えられないがそれはもう満面の笑みを浮かべるのだ。


「それほど斉の家族に会うことが嬉しいのか文姜よ」


 桓公はそう彼女に言う。


「えぇ、でも我が君がそれを許してくれましたことのほうがそれよりも嬉しく思っています」


「そうか、そうか」


 桓公は嬉しそうに何度も頷く。


(単純で愚かな男だとこと。こんな男と居たくない。早くあなた様に会いたい)


 桓公を見下しながら彼女は斉にいる思い人のことを再び思い馳せ始めた。こうして桓公と共に文姜は斉へ出向いたのである。


 この会見で酒を交わす中、襄公は桓公に言った。


「これから先、両国の友好を深めるため此度はこちらに滞在なされよ」


「ありがたいお言葉ですが……こちらも政務がありまして、お断りさせていただきたい」


「そう言わず、しばらく滞在してくだされ。私も妹と久しぶりに会うことが嬉しくてですな。妹と様々なことを話したいのです」


 襄公は意外にやさしく、桓公に言う。そんな彼を見て桓公は意外に思いながらも、


(斉君は良くない噂がある人だが、妹を思う御心はあるのだな)


 と、どんな人にも心というものはあるものだと納得し、同意することにした。


「わかりました。しばらく滞在いたすとしましょう」


「おぉ、ゆっくりなされよ」


 襄公は桓公がそう言ったことが嬉しいのか自ら桓公に酒を注いであげた。


 その夜、桓公を含め、魯の兵たちが泊まっている場所から一人抜け出す者がいた。その正体は文姜であった。


(やっと愛しき方に会える)


 彼女はそのことに胸をときめきながら愛しき者の元に行く。


 そして、彼女は愛しき者のいる部屋に辿り着くと興奮を必死に抑えながら、彼女は戸を叩く。


「何者か?」


 部屋の主がそう問いかけると彼女は、


「文姜です」


 と、彼女は普段では考えられないような甘い声で答えた。すると、戸が開かれた。


「あぁ兄上様」


 彼女は目の前に現れた愛しい人である斉の襄公の胸に飛び込んだ。そう文姜の愛しき人とは兄である斉の襄公その人であった。


 現代と同じようにこの時代とて、兄と妹が肉体関係を結ぶことは禁忌である。それにも関わらず、彼らは愛し合った。そのことを斉の重臣たちさえも知っており、これを知られないようにまたは彼らを引き離すために、斉の先君・僖公は文姜を桓公に嫁がせたのだ。


「お会いしとうございました」


 普段の文姜は桓公の前でも毅然とした態度を取っており、そのことを知っていれば目の前の人物がその文姜であるとは誰も思わないだろう。


「あぁ私もだ。文姜」


 襄公は彼女を強く抱きしめる。文姜の目からは涙が零れ落ちる。彼女は兄から離れている間、別の女に心を移していると思っていた。


 しかし、この愛しき人は前と変わらず、自分を愛してくれている。そのことが何よりも嬉しかったのだ。


 襄公とて同じである。彼女が別の男に抱かれていると思うと桓公への怒りが湧き上がってくる。また虚しさも生まれ、文姜以外の女を抱いてもそれは解消されなかった。


 しかし、今、文姜と会い彼女が己のことを未だに愛し続けていることが襄公は嬉しかった。彼にとって美女とは文姜のことのみを言うのである。


「さぁ部屋に入るといい」


「はい、兄上」


 襄公は文姜を部屋に招いた。そして、彼らは離れていた時間を取り戻すかの如く激しく交わった。


 禁忌の愛に溺れし二人の運命はやがて、多くの者を巻き込んでいくことになる。果たしてその運命が辿り着く先は果たしてどのようなものになるのか。

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