第41話 申繻

 魯の桓公の客死は、それを知った桓公の配下たちによって魯に伝えられた。桓公の死を知った魯の大夫たちは一応に憤怒を顕にした。己の国の国主が他国で無残に殺されるなど、納得などできようがなかった。


「直ぐ様、兵を斉に向け派遣し、君の仇を討つべきだ」


「そうだ。その通りだ」


 魯の大夫たちは怒りの声を上げ、桓公の仇討ちを主張する中、申繻と臧孫達がそんな彼らを宥め、反対した。


「今は斉と戦うべきではない。今、我らが為すべきは国君のご遺体を回収することが先決である。斉に兵を向けるべきではない」


 申繻と臧孫達の二人はこの主張の他に、魯と斉との国力を比べ戦えば唯ですまないという考えと桓公が死んだ以上後を継ぐのは皇太子である同のことが頭にあった。


 だが、同はまだ若いのである。そんな彼を擁立し斉と戦うには不安が残る。しかし、二人の主張を聞いても大夫たちの怒りは収まらなかった。


「父上が亡くなったとは本当のことか」


 若く力強い声が周りに響く、この声の主こそが桓公の息子である同である。


「本当のことでございます」


「そうか」


 大夫たちの言葉に、同は手で顔を覆い悲しみを堪える。


「殿下、国君の仇を討つべきでございます。どうかご決断を」


 大夫たちは同の判断を仰いだ。


「斉は憎き父上の仇である。しかし、父上の喪に服さず戦を起こすのは孝に背く行いであり、斉は母上の国でもある。今、優先すべきは父上のご遺体を向かえ、丁重に葬儀を行うことこそ肝心である」


 同は大夫たちの主張を退かせ、桓公の遺体を取り戻すことを優先した。


「されど国君の仇はどうなさる」


 大夫たちは尚も主張する。それに対し、同は、


「父上を殺したのは公子・彭生であるという話ではないか。斉君にこの公子の死を乞えば聞かないわけにはいかないであろう」


 同はそう言うと臧孫達の方を向き彼に命じた。


「使者は臧孫達に任す」


「承知しました。必ずや任務を果たします」


 臧孫達が桓公の遺体を取り戻すため斉へ向かった。


 一方、斉の襄公に対し、斉の大夫・竪曼がこう進言していた。


「賢者とは己の死によって忠を示し、疑惑を除いて民に安寧をもたらすものです。また、智者とは理を尽くして遠方を考えるために身の危険から逃れることができるのです。今、彭生は公子でありながら、忠諫をすることなく、阿諛によって君を弄び、君に親戚の礼を失わせました。その結果、君の禍を招き、魯と我が国の間に怨みをもたらしました。彭生がその罪から逃れることはできません。それにも関わらず、君は怒りによって禍を作り、悪を憎むことなく彭生に対して寛容でいます。これは無恥な選択であり、彭生一人の問題ではなくなります。もし魯が我が国の罪を問うたら、言い訳として彭生を殺すべきです。」


 詭弁である。公子・彭生に命じたのは襄公なのである。しかし、それを堂々と言うのは国として余りにも不味い。そのため彭生が勝手に行ったこととして、全てを押し付けろと竪曼は言うのである。


 このことは魯の方も理解はするはずである。内心はどうあれ両国の関係は表立て変わらないように見せることが必要ではないか。


 しかし、襄公にとっては魯との関係がどうなろうとも構わないと考えている。他国の印象なども自分には関係無いのである。そう考えているため彼は魯に攻め込もうとまで考えていたがその考えを変えた人物がいる。


 文姜である。彼女は襄公にこう言った。


「兄上様。魯は愚かな国であります。されど魯の後を継ぐのは私の子でございますわ。どうかご慈悲をお与えくださいませ。そうすればあの子は兄上様のために尽くすことでしょう」


 文姜の子、つまりは桓公の子でもある。しかしながら襄公という人は文姜には甘く、彼女の血を受け継ぐ者であることを聞くと頷いた。


「そうだな。お前の子は我が子も同然であるな」


 襄公はそう言うと文姜を抱き寄せる。抱き寄せられた文姜は可愛らしい声を上げ、襄公の胸に顔を埋める。


 こうして、今宵も官能の夜は静かに情熱的に過ぎていく。


 翌日、臧孫達が斉にやって来た。


「魯の大夫・臧孫達が斉君に拝謁いたします」


「表を上げよ」


「感謝いたします」


「魯より遥々良く来られた」


 襄公は嫌味を含みながら臧孫達に言う。されどこのようなことで動じるような臧孫達ではない。


「此度、臣が参りましたのは我が君がご不幸にもこの斉の地で亡くなられ、そのご遺体を御迎いに参った次第であります」


 臧孫達の毅然とした態度に面白くなさそうな表情をしながらも、襄公は彼に対しそう言った。


「魯君の死は私としても、とても悲しきことであった。魯君のご遺体は丁重に扱っておる故、向かえよ」


 白々しい、そう思いつつも表情を崩さない臧孫達は襄公に礼を言う。だが、このまま引き下がるようなことはしない。


「斉君に申しさせていただきたい儀がございます」


「何だ申せ」


「はっ此度、我が君が斉に出向いたのは、斉君の威を恐れつつも斉との関係を無下にするわけにもいかず、国に安居するわけにもならなかったため旧交を温めるために斉に出向いた次第でございます。されど会見を終えたにも関わらず、帰国することはございませんでした。しかしながら斉君はこの罪を咎めようとはなさいません。それでは諸侯に対し、悪影響をもたらすことになりましょう。そのようなことになります前に彭生を処刑なさいますよう」


 臧孫達の言葉は簡単に言えば、桓公が斉に出向いたのは襄公を恐れてのことであり、されども国の関係を重んじためである。しかしながらそのために出向いたにも関わらず、斉は桓公を殺した。その形だけの謝罪もしないのは国を治める者としていかがなものであるのかと言っているのである。


 そのことがわからないような襄公ではなく、思わず、椅子から立ち上がらんとしたが、ここは珍しく耐えた。


「汝の言に従おう」


 襄公の言葉に臧孫達は静かに礼を示した。


「離せぇ、私は君に命じられたことをしただけではないか」


 彭生が声を荒げるも処刑され、その首は臧孫達に渡された。その後、臧孫達は桓公のご遺体と共に帰国した。


 同は桓公の遺体に合うや否や、悲しみを顕にし、泣いた。周囲の大夫たちもそれに釣られて泣いた。


 その後、同は即位した。これを魯の荘公という。彼こそ魯において名君と讃えられることになる人物である。そう考えると魯の桓公の死が彼の登場を早めたことになるのは皮肉としか言えない。


 因みに彼の母である文姜は斉に留まった。

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