第二章
第22話 戦の終わりと始まりと
このところ、アトには納得のいかないことが多い。
先ず、先の戦帰りのことである。
アトが乗ってきた、主人を落として走り去っていく薄情な馬は、兵士の誰かが捕まえてくれていて、それに乗って下級兵卒と並んで帰ろうとしたのだが、なぜか泱容の馬に載せられ、一緒に帰ることになった。
お陰で、意味ありげな視線を投げられかけ、羞恥心で死にそうになりながら、帰る羽目となり、帰ってから猛騎の屋敷に戻ろうとしたら、都の東、海のま
そうして何日か過ぎて、楊曹夫人に久しぶりに相まみえた時、ジッと見つめられたかと思えば、びっくりするようなことを言われた。
「貴女、今日から本当に養女として、我が家門に入ったから、私のことはこれから母上と呼ぶのよ?」
「へっ? 母上? …………楊曹夫人それはどうして??」
アトが間抜けな聞き方をするので、夫人は怒った。
「“母上如何なる理由でございましょう?”と、尋ねるのが淑女でありましょう? 今までのように甘くはしませんよ?」
楊曹夫人がキッと睨むと、アトは少し身を引いた。
またあのまどろっこしい喋り方をするのか……。
しかし、おかしい! 納得がいかない!
だってアトの仕事は終ったはず。
報酬の銀錠五つもらってホクホクと帰るはずだったのに!!
性悪皇子め! また人で遊んでやろうという魂胆だな!?
庶民の小娘相手に……暇か? 暇なのか!?
と、不満をふつふつと貯めながら、一週間ほど経って、泱容が何の前触れもなくふらっと現れた。珍しく酒を飲んでいる。
元々小作りな端整な顔であったが、痩せて陰のある顔になり、色香が増した気がする。それに、自分でもその魅力をよくわかっているのか、今日着ている朱色の深衣で、その薄い布地の袖が揺れるたび、昼間なのにおかしな雰囲気を醸し出している。
男だっていうのに、手折られる花のようだ……。
案の定、侍女は泱容にぽーっと、頬を赤くし手元が覚束ない。一方アトは、“コイツの色香に当てられると遊ばれる!”と警戒し、わずかに身構えた。
そして、
「殿下、ご用向は? というか、何で太師の養女になったんですか? 私。」
泱容はアトの方を見ると
「何をそんなに身構えている。こちらへ来ぬか。」
と自分が横たえる長椅子の真ん中辺りを勧めた。
「なっ何を言ってるんです!? ぎ玉体に触れるわけにはゆきませんっ!!」
と飛び上がらんばかりに叫んだ。
そ……そんなところ座れるかっ!
だって……だって……そんなの殿下の腰や太腿が当たるじゃないか!? (お尻に)
女の身でそんな羞恥に耐えられない!!
すると、泱容は持っていた盃を置き、ズンズンとアトの近くまで寄った。アトは、後退りしたいのをぐっと堪え、色香に惑わされるものかと、必死で口をグッと引き結んだ。
すると泱容は
「全く気に入らぬ。どうしてくれようか?」
と、アトの両頬をむずんと掴んでもみくちゃにした。
痛いですと、身をよじってアトが逃げ出そうとすれば、腰にスルッと手を回され、尻から背筋をスーッとなぞられた。
その時、泱容の顔が眼前に迫って、あの香木だか花だかよく解らない、良い匂いが鼻腔を満たし、変な触られ方にも驚いたが何よりも、この遠慮のない色香がアトを動転させた。
わぁぁっ……!!!!!
アトは慌てふためくあまり、両手をバタバタして泱容の腕から逃れると、無様に尻餅をついた。そして……
なんだか服の
「無いっ! 帯が……。」
と、泱容を見ると、片手に帯の端を持ってニヤニヤしている。
「え? どっどうやって取ったの??? イヤそうじゃない! 返せっ!!!」
アトは見頃を必死に押さえて、帯を取り返そうと手をのばすが、高々と挙げられてしまえば到底届かない。
「〜〜〜っ! 性悪!」
「どうした? 前は平気で服を脱いでいただろう?」
「そっ……だって……あのときは……別に変な触られ方しなかったし……そのっ……。」
アトは泱容の顔を見てしまった。
少し乱れた髪が一筋ぱらと落ちると、長い睫毛に縁取られた鮮やかな青い瞳にかかる。それが、少年の様にニコッと笑えば、目を離し難い。
あぁっ! 顔が良いくらいでっ!
少々の悪戯くらい許してしまいそうになる。憎たらしいことこの上ないのに!
その時、ポタポタとなにかが床に落ちた。ふと自分の指を見れば
「血!?」
恥ずかしいやら悔しいやらで、頭に血が上りすぎたのだろう、アトは鼻血を流していた。
慌てて
それを見て泱容は仰け反るほど笑い転げた。
あはははははははははっ!! あーっ!!!
この惨状に、流石に目の醒めた侍女は急いで手拭いと
そして着替え終え、再び泱容の前に出ると、アトは口をへの字に曲げ、隠すことなく不満を表した。
泱容はまだ笑っている。
人を弄ぶのがそんなに面白いか💢
アトはギッと泱容を睨むと訊ねた。
「殿下! ご用向は!? まさか暇つぶしに遊びに来ただけではありませんよね!?!?」
泱容は笑いすぎて、目に貯めた涙を拭いながら言った。
「あぁ……はーっ、久しぶりに笑った。……用、そうだな。……――――――。」
? 何だ??
黙ったりして……。
アトは泱容のかを覗き込んだ。
すると、泱容はさっきとは打って変わって、真剣な顔でこう告げた。
「盧氏と、それに連なる氏族全員の刑が確定した……。伝えておこうかと思ってな。」
「…………そうですか。」
アトは襦裙の裾をぎゅと握った。
そして、意を決したようにぱっと顔を上げ尋ねた。
「いつですか?」
「見るのか?」
「見なければ……!私は……私も手をかけた。」
「…………お前は命に従い、主に忠実だっただけだろう……。どうせ気に病むのだ見ずとも良い。」
泱容は盃を見つめ方眉をひそめた。
表情のそれは、迷惑そうなのか面倒なのかという面持ちになのに、言葉端はアトへの気遣いが見える。でも、その優しさに甘えるのはいけないとアトは思った。
「ありがとうございます。でも、従う主を決めたのも私、そして剣を握ったのも私ですので……。」
そう言って泱容を真っ直ぐに見つめた。すると泱容は、一瞬沈痛な面持ちをしたが、直ぐに顔から感情を消して
「迎えを出す。それで行け。」
と答えた。
「ありがとうございます。」
アトは侑をした。
そして、当日。
アトは泱容が出した迎えの馬車に乗り、護衛だという鎧を着た兵士と、お付きの侍女と共に行くことになった。兵士は馬に乗り、同乗せず侍女が一人アトと同乗した。罪人達は皆、国家反逆の重罪なので、城の地下に留め置かれている。だから刑場となる河川敷に直接向かわず、先ずは城門へ向かう。
そして、馬車が走り出した時、アトは街が閑散としている……というか、人がいないことに気づいた。なんだか不気味で緊張すら覚える。しかし……。
城に近づくと一転、異様な興奮と熱気に包まれた人垣が、幾重にも河川へ向かう大通りの両端に取り囲んでいた。一見祭りのような雰囲気だが、爆竹もなってなければ出店も屋台もない。
そんな光景を見てアトは思った。
何も知らなければきっと、自分もあの人垣の中にいたのだ……。
そこへ、城門が開いた。城の地下に繋がれていたであろう、何百といる縄に繋がれた氏族達が、徒歩でゾロゾロと歩かされていた。
彼らが出てくると、一斉に観衆が沸き石が投げられる。
小さな子供も沿道から石を投げつけられて、何度も転びその度に鞭打たれている。
その姿にアトはひどく苛まれた。
そして、お付きの侍女も護衛の兵士も振り払って、アトは馬車を飛び出した。そして人垣の肩を足場に、ぴょんぴょんと渡り、子供達の横に立って歩いた。
今のアトは綺麗な襦裙を着ていて、身分が高そうに見える。だから、そんな恐れ多い人間がいて、石を投げる馬鹿はいない。
案の定、石を投げる手は子供がいるところでは、ピタッと止んだ。
そんな奇天烈な行動するお嬢様など、いないだろうから、見張りの兵士達にびっくりされて
「御身に障りますゆえお下がりを。」
と、丁寧に退出を促されたが、
「このままでは刑が進まず遅れてしまいましょう。子供だけでも…。」
と断ると、彼等はそれ以上何も言わなかった。
子供達はわけも解らず、アトを見上げる者もいれば、敵を見る目でひどく睨む子供もいた。
アトはそれでいいと思った。
私を恨んでそれで済むならそれでいい。
世の中正しいことばかりではない。
私は、自分の村落や馴染みを守りたかった。
そのために、罪もないであろう者たちも犠牲にした。
だから私の罪だ。
城から河川敷まで、短いはずのその距離がひどく長いように思える。
しかし、ついてしまった。
せめてもの救いは、子供達がいの一番に処刑されたことだろうか。
最後の時、アトは罪人の少年から石を投げられた。
石はアトの額にぶつかり血が出た。
「偽善者!!!」
少年はそう叫んだ。
アトは、ダラダラと流れる血を拭いもせずに、取り押さえられた少年の前にしゃがんだ。
「ごめんなさい。でも、それでも家族と馴染みを守りたかった。」
アトがそう詫びると、少年は言葉もなく涙を流した。そして、そのまま川に沿って並ばされ……。
儚く散っていった。
アトは刑が終わってしばらく、後に貰った金で彼等の骨を拾い、寺をこっそりと造った。
償いにもなりはしないと思ったが、せめてこれ以上雨風に打たれ、踏み敷かれることのないように。
そう願いながら、手を合わせ深く腰を折った。
そんなアトに罰が当たったのかもしれない。
アトは気付けば後宮の妃になっていた。
庶民からしたら皆が羨む大出世だ。
だって、庶民の暮らし向きは楽ではない。餓えに備え戦い、貧窮に悩まされる。それを忘れるために、大声で歌って田畑を起し、口や頭を全力で使って金をあくせく稼ぐ。ただ自由だけが取り柄で、大したモンではないと思っていたが、実は大切だったと気づくのは、いつも、なくなってからだ。
でも悔いはしない。
それだけのことをしたのだから。
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