第23話 論功行賞 1
刑の執行が終わって暫く。
気がつけば、季節は移ろい秋となっていたが、アトはまだあの東の離宮に留め置かれていた。
その間、アトは少し塞ぎ込んだ。
あの罪人の少年が言った言葉が木霊する。
『偽善者!』
そのとおりだ。
別に自分が正しい事をしたとか、思っていないが、自分の村や麓の村落が脅かされていたかもしれない……。それに、ついこないだまで雲の上だった泱容の事だって、見て見ぬふりができない程に関わった。
アトは日が落ちる海を眺めながら、今一つ身に入らないお作法の教本を膝に置いた。
昨日だったか……。
楊曹夫人がやって来たときに
「貴女は解ってないでしょうから、伝えておこうと思って……。多分、貴女、これから後宮へ召し上げられるわ。我が家門から出すことになるから、侍女ではなく、貴妃になるわね。」
と言われた。
「貴妃……。」
そう呟いたアトの脳裏には、故盧貴妃や惇太后の顔が浮かんだ。
アトは彼女達のように冷徹にはなれないし、完璧ではない。
あの馬鹿皇子が、私に何を望んで娶ろうだなんて考えたのか、見当もつかないが、きっと塀の中で何もできず、囲われ一生終えることとなる。
餓えはすまいが孤独に違いない。なにせ彼女達がそうだったのだから……。それとも餓えずに贅沢させてくれるのが、褒美だとでも言うのだろうか? 何も知らない頃であったなら、能天気に贅沢暮らしに浮かれたかもしれないが……。
夫人は慰めるようにアトの両手をそっと握った。
そのぬくもりが、亡き母を思い起こさせ無性に泣きたくなった。
怖いとも不安とも、何とも言いようのない感情に駆られ、アトはひたすら声もなく泣いた。
夫人はアトの涙が収まるまで側いいてくれた。
そうして地に足がつかないような、どこかもどかしく、不安な心地で日々を送っていたある日、泱容から仰々しい手紙がやってきた。
知らぬ間に泱容は即位式を済ませ、皇帝に即位を果たしていて、此度の戦と逆賊粛清の功を労う、論功行賞をするから来いという召喚状だった。
どうして良いか解らず、取り敢えず楊曹夫人に報せを送ったところ、夫人はその日のうちに飛んできた。
何事かと思えば夫人は深刻な顔をしている。
「殿下、いえ陛下は何をお考えなのかしら?」
「どういう……ことですか?」
アトにはよく解らないことだが、何か良くないことぐらいは、夫人の様子を見て察した。
「………。論功行賞に召喚された事自体は、名誉なことであるわ。でもね……女で、これから娶ろうという妃に、与えられたことはないのよ……。どういうことかと解る?」
「………………。解らないです。」
アトは呆然と答えた。ただ単純に、褒美をもらえるという話ではないことだけは理解して、その上でどうして良いか分からなかった。
すると楊曹夫人は幼子を諭すように話して聞かせた。
「それは、陛下の治世を共に支え矢面に立つということよ。当面は太后勢力の牽制に貴女は使われるわね……。子を設けることはもちろん。自分の勢力を作らねば……。」
「はぁ……。」
あまりに唐突すぎて頭がゆいてゆかない。勢力? 子?
抗いようもない激流に弄ばれどこまでも流されしまそうだ。
どうなるんだろう?
故郷にはもとよりもう帰れぬ身だが、妃にでもなってしまったら、本当に二度と親兄弟達とは会えなくなる。月映兄さんとも……。
怖い……。
普段、暴漢だろうが野盗だろうが、物怖じ一つせず平然と立ち向かうアトが、この時、絶壁に立たされたような恐怖に、身を震わせていた。
そして、この事態に猛騎や重嚴も、大変頭を抱えていた。
先ず、アトの入内は太師が反対すると思っていたのに、あろう事か養子入りさせ後押ししたのだ。
教養をみっちり身につけた娘なら、内政の抑えとして惇太后を牽制出来る。しかし、アトの教養と言えば、読み書きにそろばん少々と薬の知識。
喋り方は宮廷生活で多少らしくなった程度で、立ち居振る舞いは無骨でがさつ。それに詩歌は全くできない。勿論、政治など理解していようはずもなく、感情で行動すると言う最たる欠点がある。これでは冷静な判断を下せず、采配を振るえようはずもない。後宮での権限は早々に侍女か宦官に奪われ、公式の場では大恥どころか権威の失墜を招く。もうそうなればお飾り貴妃として、後宮の奥での軟禁生活となってしまうだろう。
余りに無謀だ。
それに、もう一つ気になるのは月映のこと。
彼に言わない訳にはいかないので、伝えたのだが……
「………………なるほど。」
と、何に対しての納得なのか、今一つ解らない事を呟いた。
ただ少なくとも、激怒していることだけは予想通りで、あの感情の抜けきった
そして、泱容のこと……。
気に入っているのだろうな、ぐらいの認識だったが、相手の生活や立場を破壊激変させてまで、側に置くことを選んだ執着に驚きと不安を隠せない。
確かに、これまで信用ならぬ者達に囲まれていた泱容の事を思えば、身を呈して庇ったり、感情を隠さないアトの鮮烈さは、よく効いたのかもしれない。
そのことを考えると、アト一人を唯一の妃にするわけにもいかないのに……。
先帝の二の舞いも有り得る。
先帝は泱容の母、碧妃を溺愛していた。そのために、彼女に嫌がらせを働いた者達に一切の容赦なく、侍女や宦官が闇で葬り去られていたのだ。それが仇となり、彼女は貴族や後宮内の支持基盤を作れず、孤立。守る盾もなく呆気なくその命を失ったのだった。
「…………傾国の美姫とは言うが、必ずしも美姫とは限らぬものじゃ。」
猛騎と対面して座る重嚴が、溜息混じりに呟いた。
「全くです。アトには可哀想なことをしたと後悔しております。」
猛騎は組んだ両手に頭を落とした。
「致し方あるまい。」
はぁ……と、猛騎と重嚴の二人は深くため息をついた。口に出さずとも、二人が憂慮している内容は同じとお互い解っていた。
何より、アトを論功行賞の場にて褒美を取らせる等と、“女”に権威付けさせる行動に出た。
この行動は“皇帝が認めた女”と言う意味を与え、太后でもない“女”に実権を与える、ということに繋がる。これでは、太后に対する挑戦と受け取られてしまうだろう。実際、喧嘩を売っているのだろうが。
それに、権力の世界というは基本“男”が表に立つもの。いくら功を立てたからと言って、やっかみを買うこと請け合いである。そうなると、貴族側から支持基盤を作るのは絶望的だ。後宮内に至っては、太后が実権を握っているのだから論外である。
泱容も楊太師も、一体何を考えているのか?
これでは、碧妃の二の舞いとなるのは間違いないだろう。
おもむろに重嚴は口を開いた。
「よもや……太師は、あの娘を囮に考えておるのでは……?」
「やはり、そう思われますか?」
「……しかし、囮が悪いとは思わぬが、あの娘では、陛下がいざという時に切り捨てられぬであろう……。なぜあの娘なのか……。」
と重嚴は腕組みしながら訝しんだ。
猛騎もそれが疑問である。
何故アトなのか?
アトは確かに、その辺の兵士よりよっぽど腕が立つ。刺客を送られても凌げるかもしれない。だが、毒は? 信用の置ける侍女や宦官が側にいなければ、防げない。
猛騎は顔を上げ覚悟を決めた。
「こうなっては仕方ない。アトが生き残れるよう全力を尽くすまで。先ずは顔も見たことない妹とやらに、頭を下げてきますよ。」
「ふむ。後宮に送るのだな?」
「えぇ。」
「では儂は孫に声をかけておこう。」
「痛み入りまする。」
猛騎は頭を下げた、身勝手な自分の主を恨みがましく思いながら。
そして、楊太師邸には太師が待ちわびていた人物がやって来ていた。
来訪は二度目で、今回は前回とは違って、顔に泥を塗り、美しい髪は隠し、焦げ茶の木綿の
「おぉ……。その成りでも目立つものじゃな。月映とか申したか?」
「えぇ。太師の御耳にまで我が名が届いていたとは、恐悦至極に存じまする。」
月映は丁寧に作侑してその場に直った。
「さて、用向は如何に?」
「兎を野に放っていただきたく……。」
「兎? はて? 何のことやら?」
太師は小首を傾げて、惚けるふりをした。そこで月映はすかさず
「御身がお望みなのは私の方ではないですか?」
と問うた。
すると、太師はニヤリと笑って聞き返した。
「なぜそう思う? 少々思い上がりが過ぎるのではないか?」
これを聞いて、月映は瞬間的に怒りが沸き起こった。が、自らの腕を掴み必死に抑えた。
「はぐらかすのも構いませんが……兎は所詮兎。虎を狩るには、分不相応ではありませんか?」
そう言うと優雅に微笑んだ。怒っている態度などおくびにも出さない。
まるで
“兎(アト)の事など関係ない。兎(アト)なんかより自分を取り立ててくれ”
と、言っているように聞こえる。
「ふむ。確かにそなたであれば、謀もうまくやろう。それだけの実績はつい最近示したゆえ……。」
そう言うと、ふむと唸りながら太師は顎髭をさすった。そして、
「では、そなたを貴族として取り立てよう。官職を与えねばならぬので、科挙には及第してもらうのが絶対条件じゃが……。」
太師はそう言いながら、チラッと月映を見た。すると月映は
「なんだ……そんなことですか。」
と余裕たっぷりに笑顔を見せた。
この様子を見ると太師は小さく頭を振って
「やれやれ、最近生意気な餓鬼が増えたもんじゃ。やっと儂も引退かのぉ……。」
と言うと。
月映は目の笑ってない笑顔で
「御冗談を……。」
と返した。
「そう年寄りを虐めるでないわっ!! 性の悪い奴よ。寿命が縮まるわい!」
と顔をしかめた太師に、月映はいい加減“糞爺”と喉まで出かかったが、グッと堪え笑顔を作り
「では、寿命の縮まらぬ内に、お暇いたしまする。次にお会いするときは、及第を得ました時に……。」
と別れの挨拶をした。
「会試(※1)はとびきり難しい出題にしてくれるわ!」
「楽しみにしております。」
そう言うと月映は、夕闇に紛れるように去った。
楊太師こと
「太師。」
声の方を向けば孫凱が立っていた。
「おぉ、そなたか。何か掴んだか?」
と声を落として問えば、孫凱は無言で首を横に三回振った。収穫は無しという合図で、収穫有りの時は二回横に振ると決めている。
「そうか。」
「ただ……。これを……。」
孫凱は焦げた紙の切れっ端を渡した。
太師は紙片を見つめ、言った。
「皇帝の剣はやはり、剣ではないのだな。」
「はい。」
楊賢徳の顔に刻んだ深いシワが、鎮痛そうに更に深く中央に寄った。
「“蛟は幾度も蘇る”……、後どれだけ猶予があるのか……。」
「尽力いたします。」
孫凱がそう言って頭を下げると、楊賢徳は行けと命じて下がらせた。
『どうかこの国を守ってね……。』
楊賢徳は目を閉じて反芻した。彼の亡き姉、
この世を去ってもう四十年は経つのに、未だにこの老人を縛り付けているのだ。
こんな遺言聞かなければ、今頃どこぞの田舎に引っ込み、世捨て人をやっていたに違いない。懐かしくも恨めしく思う。
彼女は彼より遥かに賢く、慈愛と思いやりにあふれた人だった。そんな人だったから、理不尽に命を落とすこととなったのだ……。
「この愚かな老いぼれめを天帝はお赦しくださるかの……姉上。」
そう呟きながら、日の没する茜の空を眺めた。どこか返事を期待するように、視線を宙に彷徨わせた。
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※1:科挙の実施的な最終試験。
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