祈り

 最初に小さな違和感を覚えたのは、『魔物大全』の魔王の項目を読んだ時だった。


『戦前は、エフライム王国による魔物の大虐殺に抗い、各地でレジスタンス活動を行っていた。当時から袖の長い黒衣を着ていたが、これは過去に受けた両腕の傷を隠すためである。【変身】スキルだけでは、傷跡を完全に消すことはできない』


 魔王が隠していた傷のことを、作者はどこで知ったのか? 一瞬気になったが、軽い気持ちで読書をしていたゲイルは、その疑問をすぐに受け流した。魔王が側近に教えた秘密を、取材を通じて作者が知ったのだろうと。


 しかし、アンビアの病室で魔王の正体が父だと気づいた時、頭の奥に眠っていた疑問は形を変えて復活した。問題は『魔物大全』のヴァンパイアの項目だ。


『ヴァンパイアの特徴については、多くの点で誤解がある。それを訂正しておきたい』


 という前置きをしておきながら、その情報には誤りが三つも含まれていた。明らかに、作者のヒルベルト・シュターマンはヴァンパイアから裏づけを取っていない。誤りを正すと言いながら、当事者のヴァンパイアには会わない。これは奇妙な事態である。何か取材ができない理由でもあるのだろうか?


 こうなると、作者が魔王の元側近に取材したという推測も怪しくなってくる。魔王の傷のことを前から知っていた者が『魔物大全』を書いたと考える方が合理的だ。


 一方で、取材をしていない割には『魔物大全』の情報はあまりに正確だ。特にリッチーに関する記述。この世に一人しかいないリッチーから直接話を聞いたとしか思えないほどに、その内容は詳細かつ具体的だ。


 警察騎士の慰労会で、オークのケヴィンは言っていた。


『一部の魔物を除いて、ほとんど面識はなかったと思いますよ』


 そして魔王については、


『魔王様は、誰に対しても分け隔てなく接してくださいました。あの方と会ったことのない魔物は、一人もいませんよ』


 他の可能性を完全に排除できるわけではない。だがゲイルには、魔王が――父が――『魔物大全』を書いたのだとしか思えなかった。父の書いた原稿は、リムの手を介して写本師ギルドに持ちこまれたのだろう。


 残された時間の全てを父は執筆活動に捧げた。その理由も何となく理解できる気がする。


「私は昔、無実の罪で捕まったことがあります」老人は儚げな声で語り始めた。「私を逮捕した者たちは激しい拷問で自白を強要しました。最後まで抵抗しましたがね。しかしそんな努力もむなしく、私は死刑を宣告されました」


 父の最後の言葉に、ゲイルはじっと耳を傾ける。


「死刑が迫ったある日、私は看守から恐ろしい報告を聞かされました。『お前の息子を殺した』と」


 フィリップ王の仕業だ。妻のカトリーヌ・エフライムを殺した犯人を苦しめるため、死刑囚に死以上の苦しみを与えるため、残酷な嘘をついたのだろう。父だけでなく母に対しても。嘘を真実だと思わせるだけの権力が、国王にはある。


「私はそれを信じてしまいました。そして激しい復讐心にとらわれました」


 父は語り続けた。脱獄し、【変身】スキルで姿を変えたこと。魔物のフリをして、人間と戦ったこと。王国に復讐するため、魔王となり戦争を引き起こしたこと。


「事件の真相を知ったのは、偶然でした。真犯人の同業者だった者から聞いたのです」


 カトリーヌ・エフライム殺害事件の実行犯はアラクネだった。自分を嵌めたのが魔物だと知った時、父はどんなことを思ったのだろう。


「すでに三十年もの年月が経っていましたが、私は事件のことをもう一度調べてみようと思い、捕虜にした人間たちから情報を集めました。そして、息子が実は生きていたことを知ったのです」


 今なら分かる。魔王が自身の命と引き替えに戦争を止めたのは、ゲイルのためだったのだ。


 我が子に会うために自殺した母。


 我が子を巻き添えにしないために命を絶った父。


 過去の呪縛が音も立てずにほどけていく。


「息子に謝りたい」かぼそい声に後悔がにじみ出る。「本当にすまなかったと」


 涙が流れそうになるのをこらえて、ゲイルは言った。


「きっと許してくれますよ。愛情をくれたあなたに、感謝しているはずです」


 ほんのわずかな時間、父の顔が震えた。ゲイルにはそれが、温かい微笑みのように見えた。


「もう思い残すことはありません」


 澄みきった夜の静謐さのなか、父は天井に顔を向け、最後の祈りを捧げた。


「この世界に永遠の平和を」


 シモン・ザナックとヒルベルト・シュターマンの一人二役を続け、父が完成させた『魔物大全』。それは償いであり、平和への祈りでもある。改心し、魔物と人間の共存を願った父は、魔物の正しい姿を伝えるためにこの本を書いた。人と魔物をつなぐ架け橋となるように。


 闇の中で、蝋燭の火が揺らいだ。祈りの言葉を終えると、老人の口は開かなくなった。体の各部が一つずつ動きを止め、それはやがて全身に達した。意識を持たない肉体から、残されたわずかな魔力も失われていき――




 魔王は死んだ。


(完)

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魔物達の事件ぼ!(改稿中) 沖野唯作 @okinotadatuku

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