第5話 時代の壁

 夕食後、ソファーで適当にスマホをいじっていると、テーブルの方からシャーペンが飛んできた。間一髪でけたが、少しでも反応が遅れていたら間違いなく額に直撃していた。俺はペンを拾って飛ばした本人に渡す。


「初音、何のいたずらだ?」

「い、いたずらではなくてですね……その、つい手がすべったと言いますか……いつも筆を使っていたのでこれはほそすぎて持ちづらいんです」


 慌てて取るつくろう初音を無視して、俺はテーブルのノートに目をやる。小文字と大文字のアルファベットがびっしりと書かれていた。丁寧にルビまで振っている。持ちづらいと言いながらも達筆だ。俺はノートの文字を指差して言った。


「これは母さんに教わったのか?」

「え? ええ。そうです。知らないとじょ、じょう……とにかく覚えておいた方がいいと……蒼太さんはこれ知ってるんですか」


 知らないとなんなんだ。気になるだろ。

 

「……そりゃあ、まあ知ってる。むしろ知らない人の方が少ないだろうな」

「そうなんですか!?」


 初音の驚く姿を見るのは初めてだ。俺が首肯すると初音はよほどショックだったのか悔しそうな表情を浮かべる。傍から見れば俺が変なことしたみたいですげぇ気まずい。

 

「初音、そんなにへこむな。お前ならすぐに覚えられるさ」

「……そうですか?」 

「たった二十六文字なんだ。小文字と大文字で形が違うやつもあるけど画数少ないし漢字より簡単だ」


 俺がそう言ってフォローすると、初音は顔を上げて「確かにそうですね」と開き直った。ちょろいな。


「漢字と言えばこの『Y』という文字、『あげまき』に似てません?」  

「は?」

「だから『あげまき』です。蒼太さん知らないんですか」

「初めて聞いたよ。多分、知ってる奴の方が少ないと思う」

「そんなはずは……ええ?」


 私がおかしいんでしょうか、と初音は腕を組み難しい顔をする。初音の言葉から察するに「あげまき」と読む漢字があって、形が「Y」に似ているということか。少しだけ賢くなれた気がする。

 検索して調べてみると、昔の子供の髪型を意味する漢字らしい。まったく想像できない。

 

「ここはほんに吉原と違いますね。まるで外つ国にいるみたいです」

「環境がだいぶ変わってるからな。でも吉原よりは過ごしやすいだろ」

「それはまあ、そうですね……」

「どうした?」


 もしかして地雷を踏むようなことを言ってしまっただろうか。「吉原」という単語がマズかったかもしれない。


「最初の『かんきょう』という言葉がよくわからなくて……。どういう意味なんですか?」 


 そっちかよ。「現実」のときもそうだったが、こいつは語彙力があるのかないのかはっきりしない。アルファベットより現代語教えた方がいいんじゃないか?

 

「いろいろなものが変わったって言いたかったんだ。このテーブルも椅子も、ノートもシャーペンも全部見たことないだろ」

「ありません。どこで買ったんですか」


 ほとんど百均だが通じないのは確実だろう。どう説明しよう。「みせ」だと「見世」と勘違いするかもしれない。


「安く買えるたながあるんだよ。百均って言うんだ」

「『ひゃっきん』……聞いたことありませんね」

「だろうな」

「では、その服も『ひゃっきん』で?」

「服はそんなに安く売ってねぇよ」


 ボロボロの中古なら売ってるかもしれないが絶対に買わない。

 

「そういや、お前の服はどこで買ったんだ。百貨店か」

「『ひゃっかてん』……確かそんな名前のところだったと思います。背の高い女人にょにんの方と実里さんが話をしていたのは覚えてます。私にはさっぱりでしたが」

「へぇ……」


 女人って……十代の女子が使うような言葉ではない。……ん? ちょっと待て。


「なぁ、お前が百貨店にいたときはまだその服着てなかったんだよな」

「そうですけど、それがどうかしました?」

「じゃあ、振袖のまま百貨店に行ったのか?」


 初音の居候が決まった時点で振袖以外に初音専用の服はなかったはず。髷を解いても振袖で行くにはかなり目立つだろう。初音は俺の言葉を理解したのか苦笑いして言った。


「実里さんの服を着て行ったんです。少し大きかったですけど」

「ああ。なるほど」


 それでも店員は疑問に思ったかもな。平日に高校生ぐらいの女子がサイズの合わない服で百貨店に来たら俺でも首をかしげる。

 話が思いきり脱線してしまった(ほとんど俺のせいだが……)ので俺はしばらく黙っておくことにした。初音はノートに視線を戻して作業を再開する。

 家にはテレビがないので、会話がないと図書室にいるような感覚になる。普段なら「マジで静かだな」などとどうでもいいことを思ったりするのだが今は違う。

 年の近い異性とリビングで二人きりという俺にとってはシュールな光景。と、初音はピタッと手を止める。

 

「蒼太さん」

「なんだ」

「今思ったのですが、この『あるふぁべっと』という文字、どういうときに使うのでしょうか?」

「……あー」


 正直、どんな場面で使うかなど意識したことがなかった。というか普通、意識しない。使うなら英語の勉強かローマ字を書くときぐらいか。ただ、後者はまずローマ字の説明から始めなければならない。ぶっちゃけめんどい。

 

「……そうだな。答えにはなってないけど、お前がよく言う外つ国の言葉はアルファベットを知らないと読めない。知ってるだけじゃダメなんだけどな」

「というと?」 

「例えば、お前これ読めるか?」


 俺はノートの余白に大文字で「BOOK」と書いた。小学生でも読める簡単な単語だが、初音は嶮しい顔で単語をジッと見つめる。


「先に言っとくけど、そのまんま『びーおーおーけー』とは読まないからな」

「それくらいわかってます」

 

 やや苛立った声で言う。さすがにノーヒントでは厳しいか。


「ヒント……じゃなくて助言してやる。頭文字は『ぶ』で三文字の言葉だ」

「『ぶ』? 三文字?」


 初音は俺の言葉を反芻はんすうした後、緊張した面持おももちで答える。


「……ぶ、『ぶおおく』」

「ぶっ」


 思わず吹き出しそうになるのを抑えて俺はかぶりを振る。ヤバい。ツボったかもしれない。


「な、なんですかその顔! 私を馬鹿にして!」

「してないしてない。つーか、なんで四文字なんだよ」

「それは……べ、別にいいでしょう! 少しぐらい間違えても」


 初音は顔を赤らめてキッと俺を睨みつける。これ以上は初音がブチギレそうだ。俺は息を整えて答えを教えた。


「『ぶっく』……? これ四文字なのに?」

「言語が違うんだから文字数が一致しないのは当然」

 

 しかし「ぶおおく」は予想外だった。ローマ字の知識もないから読めという方が無理があるのだが、四文字で答えてくるとは思ってなかった。ちゃんと三文字って言ったんだけどな。


「ちなみにこれはどういう意味ですか?」

「本。意味というよりは日本語訳って言った方がいいな。本の意味っていうのは違和感がある」

「本……外つ国ではこのように書くんですね」

「全部の国でそう書くわけじゃないけどな」

 

 初音は「BOOK」の上に小さく「ぶっく」とルビを振った。そして単語の下に「本」と書き記す。


「もっと覚えれば外つ国の方と話せるでしょうか」

「単語だけじゃ厳しいと思うぞ。それよりは現代語を覚えた方がいい」

「げんだいご?」

 

 またか。「現実」に「環境」に「現代語」もしかしたら「現代」という言葉自体知らない可能性もある。

 そう仮定すると、この三つに共通するものはなんだ。抽象的な言葉とか? そんな言葉は探せばいくらでもある。

 言語学者ならわかるかもしれないが俺にそんな知識はない。だが、今はインターネットという武器がある。素人でもある程度のことはわかるだろう。

 

 まず江戸時代と現代の違い……大きな違いと言えば、現代は西洋の文化が取り入れられていることだな。江戸時代にバレンタイン、ホワイトデー、ハロウィンがなかったのはすぐにわかる。となると、明治維新以降……早い話、江戸時代よりも明治時代のことを調べた方が大きなヒントが得られるかもしれない。

 

 結論から言うと俺の読みは当たっていた。明治時代の言葉について調べてみると「現実」「環境」「現代」の共通点は和製漢語。簡単に言うと、英単語の翻訳のために新しくを作られた造語。または、もとからあった単語の意味を変えたもの(借用語ともいうらしい)。

 ほかにも「恋愛」「社会」「世界」「常識」「絶対」「情報」のように日常でよく使っている言葉も和製漢語。初音が言っていた「じょう」なんとかは「常識」か「情報」のどちらかだろう。

 

「……どんだけあんだよ」


 すべての和製漢語が江戸時代の人間に通じない、なんてことはさすがにないと思う。「恋愛」は文字でわかるだろうし「世界」は世界地図を見せて手振りはぶりで説明すれば通じると思う。「社会」と「絶対」は抽象的だから説明が難しい。

 

「蒼太さん、どうしたんです? 難しい顔してますけど」 

「いやなんでも」 


 まだ半信半疑だったがこれで確信した。初音は本物のタイムトラベラーだ。和製漢語まで考慮して江戸時代の人間を演じるなど不可能。時代小説だって書けやしない。

 初音は未来にいるという自覚はないだろう。江戸時代にタイムスリップの概念はないから当たり前だけど。吉原遊郭から遠く離れた場所にいると思っているのかもしれない。もし、この世界に吉原遊郭が存在していないと知ったら初音はどう思うだろうか。少なくとも今は知るべきじゃない。……それなら現代語は教えない方が返って都合がいいのでは? いやでも、ある程度は覚えてないとさすがに不便だよな。

 

「あの……蒼太さん。さっきから何をぶつぶつ言ってるんですか?」 


 お前、頭大丈夫か? と言わんばかりの表情で初音が訊いてきた。内容は聞き取れていないようだ。俺は適当にはぐらかしたが初音は納得していない様子だった。

 

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