第6話 遊女見習いと朝食

 初音が居候してから一週間が経った。初音にとっては江戸時代とまったく違う生活環境でストレスはあったと思うが、ある程度対応できるようになった。

 まだ現代の知識にとぼしいところはあるものの、苦手としていたアルファベットの読み書きはなんとか克服。あとは小学校で習う長さや重さ、時間の単位、アラビア数字なども教えた。小学校低学年で習うデシリットルはどこで使うのだろう。一応、タイムスリップの大まかな説明もしたが彼女が理解できたかはいささか怪しい。

 

 閑話休題、吉原遊郭に関する情報を書籍やネットで調べてみると、花魁は美貌だけでなく、教養も必要とされたらしい。振袖新造は遊女の見習いだから、初音はもともと教養はあったのだ。吉原でつちかった知識や経験がこんなところで役に立つとはさすがの本人も思っていなかっただろう。

 母さんが仕事に復帰して最初の平日。俺は初音と朝食を取っていた。


「蒼太さん、パンだけで足りるんですか? お腹きません?」

「俺は小食だから。パンだけって言っても何も食べてないよりはマシ」

「それはそうですが……」

「俺の心配する暇があったら現代語の勉強した方がいいぞ。俺がやった国語辞典は持ってるだろ」

「あ、はい。蒼太さんが使っていたものですよね。本当に私がもらっていいんですか?」

「要らないからやったんだよ」

 

 調べたい単語はネットで調べればどうにでもなるしな。そのうち捨てる予定だったから、タイミング的にちょうどよかった。

 初音は朝食を済ませると、壁にかけてある時計を見て時刻を確認する。


「午前七時五十六分ですね。蒼太さんは学校……でしたっけ。そこには行かなくていいんですか」

「まだ行かない。ホームルームまで一時間近くあるからな」

「ほおむるうむ……現代の言葉は私には難しすぎます」


 ホームルームという言葉は知らなくても生活する上で困ることはない。が、今の初音は現代で最低限知っておくべき知識の取捨選択がまだできない。何か効率的に現代の知識を習得する方法はないだろうか。国語辞典に載っている単語の意味をすべて記憶するのははなから無理だし、インターネットは情報量が多すぎる。逆に考えよう。俺が江戸時代のことを覚えるなら、ネット以外で何を使うか。まずは江戸時代関連の本……は範囲が広すぎる。わかりやすさを重視するなら図やイラストがあるものを選ぶ。イラスト……。


「漫画とか」


 最近はあまり読んでいないが漫画は視覚的に見てわかりやすいし、「漫画でわかる○○」なんてタイトルの本はざらにある。あくまでも現代の知識を身に付けることが目的だからファンタジーやSFは除外。ミステリーは微妙なところだ。

 となれば、ジャンルは恋愛が一番無難だろうけど何を選ぶか悩む。初音にはやはり女子向けの作品がいいと思うが、母さんなら何冊か持っているかもしれない。


「確か、蒼太さんが通っているのは高等学校ですよね。現代に住んでいる方はみんな通うのでしょうか」

「余程の事情がない限りみんな通うだろうな。ほとんど義務みたいなもんだし」


 初音は俺の言った意味がわからなかったのかキョトンとしている。当然と言えば当然か。


「実里さんも高等学校に通ったんですかね」

「母さんは大学まで行ってる。つーか、普通に高校でいいよ。いちいち高等学校って言うのめんどいだろ」 

「私には現代の普通がどういうものなのか、基準がよくわかりません」


 俺は何も返せなかった。そりゃそうだ。


 時刻を確認すると、ホームルームまであと三十分。思っていたよりも時間が経っていた。家から学校までは徒歩で約二十分。俺は立ち上がって玄関に向かう。


「蒼太さん」

「なんだ。用があるなら夕方に……」

「いってらっしゃい」


 いってらっしゃい、がエコーで何度も脳内再生される。たった八文字でここまで心を揺さぶられるとはなんたる不覚。


「……いってきます」


 俺は玄関を出てからドアを閉めて軽く深呼吸した。いつまでもえつているわけにはいかない。



 教室に入るとホームルーム開始まで十分を切っていた。急いで来たので少し息が切れている。


「お前が時間ギリギリで来るなんて珍しいな。寝坊でもしたか?」

「まあ、そんなとこ」

 

 優也の問いに俺は適当に答えた。席に座ると、優也は「怪しいな」と訝し気な表情を浮かべる。


「で、本当の理由は? 寝坊じゃないだろ」


 無駄に鋭い。遠くから俺の行動を監視してるとかはさすがにねぇよな。マジだったら怖い。


「早く学校に来てもやることないからギリギリまで家にいたんだよ」

「ぼっちらしい理由だな」

「勝手に言っとけ」

 

 相変わらず口の減らない奴だ。旧友ではなく悪友と言った方がいいかもしれない。


「ねぇ。新学期始まってからずっと思ってたけど、二人ってめっちゃ仲いいよね。どういう関係なの?」


 優也の隣に座っていた女子生徒が興味ありげに訊いてきた。言葉に詰まる俺とは対照的に優也は余裕の表情で答える。


「同じ中学に通ってたんだよ。てか、俺らってそんな仲良く見えんの?」

「見えるよ。だって、このクラスで明石くんをディスってる男子って高尾くんだけだもん」


 理由が独特すぎる。「名前で呼んでるから」ならまだわかるけど……。周りにも聞こえていたらしく、クスクスと笑う生徒がちらほら見える。

 さすがの優也もこの返答は意外だったようで目を見開いた。それから俺を見て「だってよ」と笑って言う。

 

「まあ確かに、陰キャで俺をディスれんのは蒼太だけだろうな」


 こいつ、完全に面白がってやがる。だから教室にいるのは嫌なんだ。


「……ホームルームはまだか」


 椅子の背にもたれかかり、俺は無意識に呟いた。


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