第1話_序の次 扞格なダダイスム

 三学期の終わりに、ぼくは死んでいる少女を見つけた。

 黄昏の教室で、手すりに首をかけて、花のように死んでいた。

 首が手折られた花のように、少しだけ地面に向かい合って、根にあたる足は、汚らしいワックスでてらてらと光る廊下に捕まれて、少女が死んでいた。

 ぼくは教室に這入る為に、教室の手すりをただ、なんの気もなく捻った。

 ごとりと、頭が落ちた音がした。

 地面に、無造作に、石がぶつかるみたいに頭蓋が跳ねて、転がった。

 少女は、起きてこなかった。

 眠っている少女が、おそらく死んでいることをぼくは知っていた。

 少女の名前は、知らなかった。

 興味もなかった。

 ただ黒くて長い髪が美しくって、その安らかな死に顔があまりにも美しくて、窓際に少女を抱きかかえて、机を並べて、その上に置いた。

 黄昏の夕日に紅く照らされた教室に、少女の死体を置いて、ぼくは見つめていた。

 世界に捧げられた供物だ。

 誰かが幸福に生きるための礎だ。

 少女は、美しいから、神子に選ばれた。

 少女は、美しかったから、誰も持っていない、清廉すぎる黒い髪を持っていたから、村娘達に嫉妬されたのだ。

 少女は、美しかったから、神の御前に捧げられる前に、汚らしい大人どもに穢れさせられたのだ。

 少女は、何も願ってなどいなかったというのに。

 少女が望んだものがあるとすれば、それは普通の生き方だったろう。

 けれど、穢れた大人のせいで、彼女は供物としての役割さえも果たせない、肉の人形に成り下がった。

 悪意、現実、呪詛。

 器だ。

 そしてそれがいま、ぼくの前にあった。

 最期の役割さえも失敗させられた、無用の肉体。

 ただ腐っていくだけの、最後の晴れ姿。

 けれどぼくは、その彼女こそ、美しかった。

 それでも、生きていたこの少女が愛おしくて、堪らなかったのだ。

 だから見ているだけでは足りなくて、逆光に暗く映える少女の艶めかしい肌のきめや、小さな花弁のような唇に触れた。

 傷も、膿もない、悪意に爛れた肌。

 それを癒やしたくて、ぼくは少女を飾っていた。

 黒い雲の影は、太陽に飲み込まれるように、強い風を立てていた。

 けれど、ぼくらだけは外界から遮断されて、幸福だった。

 息を吐く間もなく少女を飾って、しばらくして。

 夕日が沈んだ頃に、ぼくは少女を生き返らせようと考えた。

 鞄の中にあった清潔なタオルで、彼女の隅々までを拭いた。

 そうして着崩れた制服を正しく、ぼくの思う少女の美しさにするために、着付け直した。

 彼女の鞄から櫛を取り出して、その髪を櫛いた。

 そうして、彼女を背負って、学校を後にした。

 少女の体は、軽かった。

 ぼくにはない臓器の一つの重みすら、感じない。

 まるで、存在がないようだった。

 空が揺れる、空が揺れる、揺れているのは、空か、世界か。

 コンクリートの網が曲がる、縊れる。

 繁華の人の鳴き声が聞こえる、いや、カラスかも知れない。

 けれどぼくには、同じに見えた。

 やがて、小さな廃ビルの一つが見えて、ぼくは

 たじろいだ。

 

 生。

 

 彼女の生。

 

 彼女の性。

 

 神の供物を生き返らせる、背徳。

 

 けれどぼくは、彼女を動かしたい。

 

 動いて欲しい。

 

 なぜ?

 

 そんな疑問に答えるまもなく、ぼくは階段を上がって、鍵のかかっていない密室に入り込んだ。

 風化して割れた、角すらないガラス窓、ひび割れた打ちっぱなしのコンクリート。

 その中にある、小さなソファに、少女を丁寧に下ろした。

 星月の光のみが反射する吹き抜けの世界。

 ここでは、みなが等しく意味がない。

 意味があるのは、彼女だけだ。

 だから、ぼくは彼女を生き返らせる。

 そこに転がっていた和酒の瓶があった。

 ぼくはそれを口に含んで、彼女に口移しで飲ませ、そのまま、ソファで横にした。

 そして、再び少女の身なりを正しく直す為に、服を脱がせ、下着も着直させた。

 彼女の肌にあった真新しい痣や傷は、それを覆うために、清潔な包帯を巻いて、美しく縛った。

 黒い少女に、白い包帯が巻き付いていた。

 白蛇。

 呪いの蛇。

 けれど、白蛇で、守られている少女がいた。

 穢れでしか、身を守れない。

 人間の弱さを見ている、過ぎた白にも、黒にもなれない。

「綺麗だ」

 ぼくは、少女と初めて、対話した。

 そして、細心の注意を払って少女の小さな手のひらの指と指を、ぼくの手で籠絡するように握った。

 そうして、月の光が吹き抜けの事務所に満ちるまで、時が満ちるまで、ぼくは少女とただ、向かい合っていた。

 触れたい気持ちを抑えながら、息を潜めて、世界への叛逆を悟られないように。

「君の、死んでいる姿が綺麗だ」

 月の光は、満ちた。

 だからぼくは携帯電話を握って、ある番号に、かけた。



「――もしもし」



「――――」



「はい、お願いします」



「――――」

 

 

 電話は、ブツン、と切れた。

 そして、重力の糸が、切れた。


 ぼくの躰が、浮き上がり、少女の体が、浮き上がった。

 ソファが、一升瓶が、寂れたコンクリブロックが、プランターが。

 傀儡のような顔をしているぼくの顔を、ぼくが見ている。

 そうしていると、月が傾いた。

 一瞬で望月になり、半月になり、新月になり、回る。

 回って、時計の針が逆進する。

 ぼくは空を泳いで、これから生き返る少女を、抱きかかえた。

 ぼくは少女の、像を見ている。

 そして少女を抱えているぼくを見ている。

 ぼくの像は、少女の像と一体化している。

 論理形式が成り立った。ぼくは少女を抱えているぼくを見ている。

 一つの論理像を見ているぼくがいる。

 月よりも大きな目線。

 像の外に立つことはできない。

 宇宙の先を、月の先を知らないぼくは、月よりも大きな目線で世界を見て、しかし月と離れることは決してできない。

 世界への小さな叛逆。

 モラルに対してのインモラル。

 罪に対しての罰。

 罪を転写した罰。

 罪の像を象った罰。


 ぼくは、後悔していた。


 ぼくは、後悔していた。


 ぼくは、後悔していた。


 こんなに美しく死んでいる少女。


 生き返らせてしまうことを、後悔した。


 後悔した。


 後悔した。


 月の重力が、巻き戻っていく。


 やめろ、と、ぼくは世界に懇願した。


 けれど世界は、あざ笑う。


 月が、笑っている。

 

 頬だけを引き絞って、目はただこちらを見るだけで、笑っていない。


 何も、何も思っていない。ぼくの世界の中に、ぼくはただ一人で笑って居る気がしているだけだ。ぼくも、笑っていない。恐れているだけだ。


 ここは嘘、虚像。


 アルカイク・スマイル。


 不気味だ、不気味だ。


 街の中で、学校の中で、家の中で、トイレの中で、市役所で、待合室で、本屋で、服屋で、部屋の中で、白い洗面器で、鏡で、扇風機の羽根の中で見える表情と、同じだ。


 ぼくは、少女の表情をみた。


 真っ白で、死んでいる。


 安心、した。その死体の、ぼくを笑わないその自然に、愛を信じた。


 ぼくは、死んでいるこの少女が好きだ。


 ずっと、ぼくの隣で、静かに死んでいて欲しい、少女が死ぬところが、みたい。


 少女が、ぼくの愛しているものになる瞬間を、知りたい。


 知りたい、知りたい。知りたい。その肉体が死んでしまう瞬間を、みたい。


 怖い。


 少女は、生き返る。


 あの虚構の表情――アルカイク・スマイル――をするために、生き返る。


 無理に体を抱きしめた、必死に、その体にしがみついた。


 怖い。


 涙が、落ちた。

 怖い。

 ぼくは、目を閉じて、その子が、生き返らないように、願った。

 意識が遠のいていく。


 暗い、おかしい、壊れている。

 

 ぼくはどうして、この子を生き返らせたかったんだ。


 どうして、どうして、どうしてだ。


 足が地面について、静かに、ぼくは少女の膝で泣いた。

 どうしても、少女の虚構を知りたくなくて、ずっと、月が見えなくなるまで泣いていた。


「ねえ、君、誰」


 気がつけば、眠っていたらしい意識が、戻った。


 太陽が、登っている。


「ぼくは――」


「大丈夫? 泣いてるよ」


 頬伝った涙を、少女は、細い袖口で拭いた。

 八の字に顰めた眉が、少女の白い肌が、どうしてか美しくて、ぼくは耐えきれなくて、また涙で前が見えなくなった。

「ああ……」

「泣かないで、どう、したの」

 少女の手は、暖かい。

 けれど、暖かいだけだ。

 暖かい。


 ああ、そうか、これが。

 ぼくのしたことか。


――ぼくは、少女を、生き返らせた。

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ファナト @watanukkimonami

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