ファナト

@watanukkimonami

第1話_序 蝶番の月

「ぼくたちは、このためにここに来た」

 手慣れた重さ。

 たった五百グラムの、鈍色に光る鉄塊を手首から先の筋肉の収縮運動にひっかけて、ぼくは立っていた。

 月の高い高い夏の夜に、形而下の肉体を持つ僕が、形而上の理想たる心を持つ少女に、向かい合っていた。

 魚眼のように広がる世界。

 悲しい、悲しい無関心の世界。

 ぼくは今から、この少女を、きっと殺そうとするのだろうと思う。

 この少女は今から、ぼくを、きっと殺そうとするのだと思う。

 まるで仕組まれたように、仕方なく、悲哀と愛憎を表情に滲ませながら。

 けれど少女は、そんな色を見せず、俯いて、影をただ延ばした。

「いえ、いいえ。わたしは、全く、気にしていないの。 きっと、最初から分かっていたことだもの」

 気にしていない、そんな言葉、嘘だってわかる。

 ぼくらは、どうしてここまで深く関わったのだろう。

「単純、それは彼女の死に、ぼくという人間が直面したからだ」

 誰ともなく、ぼくがぼくに向かって言い、ぼくはそのぼくの声を聞いていた。

 原罪、sin。

 人間の存在が始まってから、心を得るまで、四百五十万年。

 それまでは、なにもなかったのだ。

 長い歴史の目で見れば、人間の心など、塵に過ぎない。

 残った五十万年ぽっち、それのみが人間の世界を、人間の世界として理解させている。

 ……もし、普通という言葉を、このぼくが使うに許されるなら。

 もし、多数派の意見こそがStandard、それに定義されるものであるのなら。

 普通の人間が思考する向こう岸に、ぼくも少女も、辿り着いてしまった。

 いや、流れ着いてしまった、追いやられ逃げて逃げて、辿り着いた。

 人間の描く普通の対岸。

 脳を持つ生命の神秘の現実、ただ流動し消えていくだけの集合の泡。

 脳細胞が、ニューロンが、FOXP2タンパク質が定めた機構の意味。

 ぼくは、白い洗面器を眺めている。

 水に映ったその泡と、ぼくは何が違うだろう?

 いや、一緒だろう。少なくとも、そこに違いは、ない。

「ずっと、考えていたの」

 少女の長い髪が、月の影に揺蕩った。

 左手に、しと、と嫋やかに巻かれた包帯。

 血など、滲んでいない。

 彼女はそんなことができる人間ではないのだ。

 今、こうして彼女がぼくと向かい合っていること、それ自体、それ自体が、この世界の狂った妄想に過ぎない。

「昨日死んだ生き物と、今日死ぬ、わたし、そこに、なんの違いがあるんだろう。さっき、猫が死んでいたの。車に轢かれて、子猫だった。子猫とわたしは、何が違うんだろう。看取って貰ったら、人なの? じゃあ、看取られず誰にも知られず死んだヒトは、ヒトなの? そもそも、存在、したのかしら。わたし、存在、しているのかしら。じゃあ、それはいつ消えるの? あなたに殺されたら、消える? それとも、消えられない? そもそも、ない?」

 リボン結びにされた清潔な左手を、月に被せて、少女は言葉を紡いだ。

 月に向かって、蝶が飛んでいるようだった。

 大気圏に向かって飛び、静かな月の光に焼かれて、きっと、はなびらのように燃え尽きるだろう。

 そんな蝶々は、苦しそうにぼくに微笑んだ。

 わかられないだろうという恐怖を押しつぶした、地獄のような微笑み。

 この社会という高いコンクリートの牢獄の中で生きていたぼくと少女の生きている時間は、まだたったの十八年ぽっちで、ぼくも少女も、何も知らない。

 知らないが、きっと少女は、ぼくを殺して生き残ってしまったとしても、知ることはできない。

 たとえ哲人の言葉を借りたとして、どうしてそれを理解することのできないぼくが、少女の人生のおよそ最期にして残った、人間として持つことのできる最期の疑問を返してやれるのだろう。

 それは、救済だ。

 もしぼくが真理を知っていたなら、彼女を救済してやることが、できたのかもしれない。

 しかし、ぼくは、ぼくらは何も知らない。

「できるなら、消えたい」

「ええ、わたしも。赦されるなら、消えたい」

 彼女は、涙を流さない。

 けれど、ぼくは鱗粉が舞っている、そう思った。

 彼女の羽根が燃え尽きて、生き物でなくなっていく瞬間を、ぼくは見ている。

 月の光なんて美しいものに、ぼくらは耐えきれない。

 だから、今ぼくも、燃え尽きている。

 彼女にぼくは、どう見えているのだろう。

 化け物か、それとも寡黙な殺人鬼であるか、それとも、本当にただの、冴えない青年か。

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