12.その覚悟は揺らぐのか?

 父の執務室を離れてから、アイクは重い溜め息をつく。父の不在は想定外だった。

 一度途絶えてしまった勢いを取り戻すのは容易ではない。まして彼にとっては、一世一代の大決心と言っても過言ではないほどの勢いだったのだ。

 シーニには出直すと言ったが、本当に出直す事など出来るのかと自分を問い詰めたくなる。

 もう一度アイクは重い溜め息をついた。そして、とぼとぼと情けない足取りで自室に向かって歩き出す。


 その道中、ふと両親の部屋の扉が視界に入る。先程は父に話をつけてこようという一心で勇んでいたために、執務室以外のものが全く目に入っていなかった。

 今の時間ならば、部屋には恐らく母がいる。

 父に話をつける事ばかりに気を取られていたアイクだったが、旅に出るのならば母にも伝えておかねばならないとここに来て漸く気がついた。


 母は、厳格で頭の固い父と違い、温和で物分かりの良い人物だ。

 筋を通すために、父に再び話をつけに行く勢いを少しでも取り戻すために、アイクは旅に出る事をまずは母に伝えようと考えた。


 何度か深呼吸を繰り返して息を整え、両親の部屋の前に立つ。

 緊張しながら扉を軽く叩き名乗ると、中から柔らかな女性の声が入室の許可を出した。


「失礼します」


 アイクは部屋に足を踏み入れる。

 部屋の中には一人の美しい女性と、その侍女が一人。

 女性の名はルーザ・ディルニスト。グラドフォス騎士団長ヴェイグ・ディルニストの妻であり、アイクの母親である。

 艶のある深い青色の髪と澄んだ勿忘草色の瞳を持ち、凜とした雰囲気を纏う美しい女性だ。

 その美貌から若かりし頃は「青薔薇」と呼ばれ、貴族庶民問わず多くの男性を虜にしていた事はアイクも知っている。


 母ルーザは読書の途中だったようで、椅子に腰掛けて開いた本を手にしていた。朝食後の一、二時間ほどを読書に費やすのは母の日課だ。

 アイクの姿を捉えた母は手にしていた本を閉じ、サイドテーブルの上に置く。


「あの人ならいないわ。もう一時間もすれば戻って来ると思うのだけれど」


 アイクは父に用事があって部屋を訪ねたのだろうとルーザは思い、そう言った。


「いえ、父さんではなく、母さんに用があって来ました」


「あら、私に?」


 アイクを含む息子達がこの部屋を訪れるのは、夫のヴェイグに用がある時が常だ。

 珍しく夫ではなく自分に用があってここへ来たと言う息子に、ルーザは少々驚いた表情を浮かべた。


「どうしても話しておきたい事があって……」


 用件を口にすると、母はそばに控えていた侍女を下がらせ、部屋は二人だけになる。

 アイクは母の前に歩み寄った。

 改めて、母の勿忘草色の瞳と視線が合う。


「とても、身勝手な話です。……俺は、旅に出ようと思います」


 言下、母は驚いたように一瞬だけ目を見開いた。


「旅……それはまたどうして?」


 聞き返す母の声は、僅かに震えているようにアイクには感じられた。動揺を押さえ込んでいるような声だった。


「信じてもらえないかもしれませんが……」


 そう前置きをしてから、アイクは答え始める。


「昨日の夜中にマルス達と郊外にある洞窟に行きました。……無断で深夜に家を抜け出した事は謝ります。そこで、創世の聖霊と名乗る存在に言われました。俺達が神に選ばれ、邪神の魔の手から世界を守る使命を与えられた存在なのだと」


 母は驚きを滲ませた表情のまま固まったように、息子の口から紡がれる言葉を聞いていた。


「魔界へと赴き、邪神を倒せとその聖霊は言っていました。それは俺達にしか出来ない事だと。俺は、やっと自分にしか出来ない事を見つけた。兄さん達でも、父さんでもない、俺にしか。だから俺は旅に――」


 不意にルーザの勿忘草色の瞳から涙がこぼれた。それは白い頬を伝って彼女のドレスの上に落ちていく。


「か、母さん……!?」


 アイクは動揺した。母の涙を見るのは初めてだった。


「ごめんね……ごめんなさいね……」


 狼狽える息子にルーザは謝罪の言葉を掛ける。

 そこでアイクは漸く母に所持していたハンカチーフを差し出す事が出来た。

 一言礼を言ってから、母はそれを涙に濡れた目元に当てる。

 何度か深呼吸を繰り返し、感情を落ち着かせてから母は口を開いた。


「いつかそう言って旅立つ日が来るのだと分かっていたわ。それが運命だもの……」


「どういう事ですか……?」


 何もかも分かっていたというような母の口振りにアイクは首を傾げる。

 ルーザはそっと息子の右手をとって、その甲に刻まれた紋章に触れた。


「アイクが生まれた時、この紋章が何なのかと屋敷中が騒ぎになった。色々な有識者を招いて調べたわ。この紋章は、神に選ばれた者の証……」


 母の冷えた指先が紋章の形をなぞる。


「地上界を脅かそうとしている邪神を討ち滅ぼす事、それがこの紋章を持つ者の使命。そうでしょう?」


 アイクは頷く他なかった。


「紋章の意味を知りさえしなければ、そんな恐ろしい運命にアイクが身を投じる事になんてならないと思っていた。だから、アイクがこの紋章の意味を知る事がないように、神話の類いからは出来る限り遠ざけて育ててきたのだけれど……」


 紋章の形をなぞっていた指がぴたりと止まる。


「運命は、変えられないものね」


 哀しみの滲んだ笑みを浮かべ、母はそう呟いた。その瞳からは再び涙が溢れて、アイクの右手の甲に降り注ぐ。

 初めて見た母の泣き顔。数年前にアイクの祖母――ルーザの実母である――が他界した時も、母の弟妹が泣き崩れる中、母は決して涙を見せなかった。それどころか、深い愛情の滲んだ微笑みを浮かべ、実母への感謝をその耳元で伝えていたほどだ。

 なんと強いひとなのだろうと当時のアイクは思った。その時から、母は何事にも動じない強靱な精神を持つ人物なのだと思っていた。


 その母が、涙を見せたのだ。

 アイクにとっては、心を抉られるほどに衝撃的な光景だった。


「母さん……それほど母さんを悲しませてしまうのなら……俺は、行きません」


 絞り出すような声だった。

 決意と使命への希望が、痛いほどに後ろ髪を引く。だが、それに気づかぬふりをしたくなるほどに、アイクにとって母の涙は衝撃的で、切なくて、耐え難いものなのだ。


「……アイクは、それで良いの?」


「え……」


 母から返されたのは、想像とは違う言葉だった。

 濡れた目元にハンカチーフを押し当て、母は一つ深呼吸をしてから言葉を紡ぐ。


「『自分にしか出来ない事を見つけた』、アイクはそう言ったわね。あなたにとってそれがどれほど大きな意味を持つのかは理解しているつもりよ。そして生真面目なあなたの事だから、きっと強い覚悟をもって行くと決めて、私に、お父様に伝えに来たはず」


 まだ涙で潤む勿忘草色の瞳がアイクの顔を真っ直ぐに見つめる。


「あなたの覚悟は、私の涙で……この程度で揺らぐものなの?」


 母の言葉は、アイクの胸を貫いた。

 その衝撃で、答えを返そうとしても思うように唇が動かない。声が出ない。


「……ごめんなさいね。私、取り乱しているようだわ。少し頭を冷やしてきます」


 そんな息子の様子を見てルーザはそう言うと立ち上がり、部屋を出て行く。

 アイクは、ただ母が座っていた場所を見つめて立ち尽くしていた。


『あなたの覚悟は、この程度で揺らぐものなの?』


 そっと自分の胸に手を当て、アイクは母の言葉を思い出す。

 貫かれた後に残ったのは、強い痛みではなく清々しさだった。

 母の言葉は彼の迷いを強くさせたのではない。胸のつかえを、押し込められた本心を、外へ押し出した。

 母に言われたような気がしたのだ。「自分の信じる道を行け」と。


 ――俺の覚悟は、揺らがない。

 アイクは強く両の拳を握る。

 ちょうどその時だ。不意に部屋の扉を叩く音が聞こえた。

 意識が現実に引き戻された彼は、すぐに返事をする。


 直後、扉が開き、部屋に入って来たのは背の高い中老の男だ。

 硬質な黒髪に、切れ長の瞳は鋭い光を宿した黒水晶の色。精悍な顔立ちも相まって、非常に厳格な印象を与える男だった。


「私に用があるそうだな、アイク」


「……父さん」


 その男こそ、グラドフォスの騎士団長であり、アイクの父であるヴェイグ・ディルニストだった。

 遂にやって来た、この瞬間。この世で最も恐れる人物に、生まれて初めて真っ向から反抗する瞬間。

 父の鋭い眼光に思わず震えそうになる拳をきつく握り直し、大きく息を吸い込む。


「俺は、旅に出ます。己に与えられた使命を、邪神を討ち滅ぼす使命を果たすために」


 迷いのない、明瞭な声でアイクはそう告げた。

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