3通目 巨人の島 -He is thirsty-

まどろみのなかで強い衝撃を感じた。寝ぼけまなこだったため思い過ごしの可能性も考慮したが、不自然な感覚が頭から離れず、けっきょく私は身を起こした。二段ベッドの下段から身を乗り出し、両目を乱暴にこすりながら通路を歩く。爽涼そうりょうな青空か、ほどよく熟したワインの夕日か、惹きつけてやまない漆黒の星空、不浄を切り裂く清廉の夜明け。おおよそ想像しうる外の情景を脳裏に描きながら扉を開けて、そのどれでもない光景を前に覚醒した。幽霊船──実際の乗船者は私一人だけなのだから、幻想の意味をこめて幽霊船Phantom Shipと記すべきだろう──が、別の浮遊島に到着したのだと推量するまでにかなりの時間を必要とした。

まず、本当にコンジャイ=イエン以外の浮遊島があったことに驚いた。驚愕を咀嚼し嚥下するまでに、また長い時間をかけてしまった。次に悩んだのは、これからどう身を振るかである。船を降りるか否か。

眼前の浮遊島に、争いの気配は見受けられない。港となる幽霊船の受け入れ口だけが平地で、少し先から森となり、そのまま高い山々が連なっている。ひとの住む領域は狭そうだ。

それから、土と緑のにおいが鼻についた。草刈り鎌で青草を刈ったときに感じる臭気が一帯にただよっていて、つい自宅の庭の草むしりを想起した。

山林は限りなく静かで鳥のさえずりが聞こえるのみ。実にのどかだ。

さりとて安全が保障されているわけでもないだろう。山野では、樹木のかげに獰猛どうもうけものがねぐらをかまえているやもしれない。高所を飛ぶ鳥も、その気になれば固いくちばしで皮膚を突きやぶることもできよう。

幽霊船には、コンジャイ=イエンの住人が代価として積んだ日持ちする食料があるので、無理に探索に出る必要はない。気まぐれな船がいつ出航するかも定かではないため、手堅くゆきたいのであれば、下手にみずから動くのではなく、船の様子を見に来た住人を観察し、危険がないと判断してからでもじゅうぶんだ。

しかし、私の魂は、妻と娘を失ってすっかりびてしまったらしい。私の念頭には肉の殻の損耗に対する憂慮も恐怖もなく、霧のない世界が本当にあるのかという猜疑心が先頭にあった。ゆえに理屈で危険を理解しつつもさほど重視せず、一切の荷物も持たないまま、あっさりと下船した。

地に足をつける。問題なく立てた。土の感触、石の固さ、ひげのように茂る低い雑草を踏みしめて、一歩前へ。なにも変わらない、私の知る感覚は、なんの異常も訴えない。

背後を振り返ると船がそびえていた。停泊場は唐突に地面が消えて、眼下には空の青を下地に雲の白が点在している。

──「浮遊」「島」。その言葉の意味を改めてかみしめながら、私は再び前へ踏み出した。

しばらく進むと、おおう、とうなるような低い声が響いた。

私は文字通り飛び跳ねて驚き、二歩、三歩と後退する。足元の地面が動いた。いや、正しくは、土ではなかった。土色をした、生暖かい、丸太のようなもの。ずずずと動き、大地に密着し、丘だと思っていたこんもりとしたものが続いて動いた。

それは、巨大な人だった。群青色の髪は途中でひげと重なり合い、まるで河川のように見えた。目はどろんと眠そうで、鼻は団子だんごのように野暮ったく、耳がとがっている。六本指の手のひらは、幽霊船をおもちゃのようにつかめそうなほど大きい。背中には緑が生い茂る樹木が生えていて、見ようによっては亀が甲羅を背負っているかのようだ。

彼は──ひげがあったため男性だと思ったが、果たして真実はどうだったのだろう──ゆったりとした動作で身を起こして、驚くほど緩慢かんまんに腰を落ち着けた。振動で大地が揺れたため、私は立っていることもままならず、その場で四つん這いになった。

  「ほう、ほぉーう、ほーおおぉう」

巨人は幽霊船を見つけて、次に私に顔を寄せて何度もうなった。まさかこのうなり声が彼のあつかう言語なのかと不安になったのも、つかの間。

  「ほぉーおう、旅人、珍しい」

ひじょうに速度の遅い、低い低い声だった。ともかく理解できる単語があったので、私はいつもの言葉で話しかけた。

  「あなたはここの住人か?」

  「んんんー?」

巨人は座ったまま体を折り曲げ、右耳を私にそばだてた。どうやら聞きとれなかったようだ。私は声を大きく張り上げて同じ質問をした。

  「そぉう。わで、住む。寝る」

こんな屋根もない、野ざらしの場所で寝るとは。……野蛮な、と一瞬考える。

  「みんな、寝てる」

巨人の視線が遥か後方、幽霊船とは反対の、浮遊島の中心地へと向けられた。私の目には鬱蒼うっそうと樹木が生い茂る山がいくつもあるように見えるだけだが。

  「まさか……あれは全て、あなたの仲間か?」

驚愕に震える声は小さかった。ゆえに聞きとれなかったはずだ。しかし、続いた言葉はまるで私の声が聞こえていたかのようにつながっていた。

  「みんな、寝る」

なんという島だろう。なんと圧倒的なのだろう! 彼ですら小高い丘ほどの大きさであったというのに、あの山々はさらに大きな巨人たちであるという。

心そのものが打ち震えるような激しい動揺に襲われて、私はしばしば言葉を失った。

それから私は彼を質問攻めにした。彼の話しは流暢りゅうちょうとは言いがたく、会話には強い根気が必要だった。しかも、通用しない、理解されない単語も多かった。家、建物。仕事、勉強。平日、休日。贅沢、趣味……そもそも彼は貨幣の概念すらも持ち得ていない。はじめこそは彼にさまざまな言葉の意味を説明していたのだが、日が暮れて夜が訪れるとすっかり気力もえ、翌朝には単語ひとつひとつにとらわれるべきではないと判じた。ほかの浮遊島の住人との交流に必要なのは、もっと大らかな目で見る視野の広さだ。重心を重くして丹念にさぐるのではなく、あえて多方面へ会話の主軸を飛ばすべきなのだ。

ひと眠りしている隙に彼もまた深い眠りにつくのではないかと懸念されたため、そこだけは何度も懇願して休息を入れる。果たして翌朝、彼は約束を守り、私との対談につきあってくれた。

ちがいの根本的な原因は、文化、つまり生活基盤のちがいあった。彼らはひたすら眠る種族らしい。一日、二日単位ではない。数年、数十年。ときには数百年もこんこんと眠り続ける。食事はせず、数十年に一度の頻度で雨水をすするのみ。

故郷の浮遊島では孫の顔を見ずに死ぬこともざらであったため、数百年を個人で生きるというのは、想像の領域をはるかにこえていた。常識があまりにもちがいすぎる。通用しない言葉があって当然だった。

ことさら興味深かったのは彼らの死生観だ。おおよそ「生活」らしい活動をしていない彼らだが、「生物」であるという自覚はあるらしい。ならば、女という性のない彼らが──そもそも性別という用言が通じなかった──どうやって繁殖しているのか不思議に思い、尋ねる。どのように生まれ、どのように死ぬのか。それをどうやって学習するのか。彼は言った。

  「大きいひと、起きる。教える」

端的な物言いにも慣れてきた。大きいひと、とは物理的な大きさのほかに年長者の意味もあるのだろう。老人が子どもに昔語りを聞かせるのはよくある風景だ。

  「大きいひと、死ぬ。土になる。死ぬ。土、割れる。土、落ちる」

土になる──この場合のいなくなるとは死ぬということだろうか。

彼は続ける。

  「土、なくなる。わでら、分ける。土、増える。わでら、生まれる」

  「…………」

私は無言のまま、幽霊船の向こうに広がる大空原を見つめた。

土になる。土は落ちる。

急に興奮が冷め、凪いだ心が戻ってきた。

唐突に、もっとも大切な質問をしていないことに気づいた。

  「ここに、霧は出るか。触れればやまいかかる霧だ」

問いかけに対して巨人は身じろぎひとつしなかった。これまでに何度も見た、言葉が通じなかったときの反応だった。──霧、という単語を彼は知らないのだ。


その夜も幽霊船の中のベッドを使ったが、長らく眠れず思索にふけっていた。

私はいま願いを叶えて霧のない世界にいる。だがこの拭いようのない違和感はなんなのだろう。私は本当はなにを望んで幽霊船へ向かったか。あらためて過去の記憶を探った。霧に恐怖したわけでも、妻と娘を失った現実から逃げたかったわけでもない。ただ自らの肉体を置く場所として、あの浮遊島は、あの家は、適切ではないと感じていた。はまらないパズルのピースを無理やり埋めこもうとするような、どうしようもない心地の悪さがあった。同じ不自然な働きを、いまここでも感じている。

  「……ここではない、ということか」

ではどこなら良いのか、などという野暮な問いかけはすまい。私の旅はまだ続くのだろう。パズルのピースがはまる場所を探して。……そんな土地があるとすれば、だが。


まんじりと朝を迎えた。頭が重い。病気ではなく、寝不足のせいであろう。ほんの少し前まで起きているとも寝ているともつかない状態であったというのに、体はすっかり復調したようだ。そのまま何時間も寝台のうえで眠気に付き合っていると、船体がにぶいうなりをあげて確かに振動した。幽霊船が声をあげている。

なにごとかと驚き飛び起きた私は、すぐさま甲板へ出た。景色が動いている。浮遊島を離れ、青く澄んだ空原へと進む。

  「待っ……」

港となっていた平地に彼の姿が見えた。どこか悄然として見えるのは、焦りが私の目を曇らせているためだろうか。

ここではない、と結論づけておきながら、いざ離れるとなると急に惜しく思えた。

大地から生まれ大地と同化することで死を迎える彼らを「異物」ととらえ、遠ざかろうとしておきながら、もっと交流したかったという欲求におそわれた。なんとぶざまなことか。

だがもう遅い。幽霊船は私を乗せて出航し、ふたたびどこへ運ばれるとも分からない。

後悔をしているということは、私の働きが十全ではなかったということだ。我ながら無様で的外れだった。

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#浮遊島企画 ジョン・スミス編 ひつじ綿子 @watako

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