2通目 A phantom ship

幽霊船に乗りこんでしばらくのうちは、私の生活は以前と寸分変わらなかった。すなわち、食をいとい、眠りを拒んだ。それでも、川底に沈む汚泥ていどには幽霊船Ghost Shipに乗りこんだという意識があり、幽霊との遭遇を片隅で夢想した。どんな姿なのだろうか。男性か女性か。複数人ならば役割分担があるやもしれない。ここは船の上だ。目的地を決めるもの、地図をみるもの、舵をとるもの、甲板を磨くもの、仕事は多いだろう。彼らはなにを思って幽霊船に乗っているのだろう。なにを求めているのだろう……。

──いまなら分かる。私はあのとき、妻と娘を失って初めて、期待をいだいた。好奇心、興味から生まれる心の弾み。

わずかであっても目的が生まれると人は変わる。身じろぎした私は、ぼんやりしたまま視線を巡らせ、緩慢かんまんな動作で二段ベッドの下段からいずり出た。


幽霊船Ghost Shipと書くと、幽霊が棲みついたおどろおどろしい船を想像するかもしれないが、実際は清潔で明るい空間A Clean, Well-Lighted Placeばかりだ。船体の木目はみずみずしく、甲板はすみずみまで磨き上げられたばかりのよう。船室にはごみの一つも落ちておらず、外光を取り入れることのできない内向きの部屋には燃料もなしに煌々と輝く提燈ランタンがさげられている。

幽鬼Ghostさながら、船内をあてなくさまよったが、ついに幽霊らしき存在Encounters of the Thirdとの遭遇はかなわなかった。上向きかけた気分はたちまち地に落ち、ひどく疲れを覚えて狭い通路に座りこんだ。視線を下げると、こわばった素足が目にとまった。はだしのまま家を出ていたことに、このとき初めて気がついた。急に足の感覚が鋭敏になって、心寂しさをおぼえる。どこかに必要とされていない履物はないだろうか。船に乗っている間だけでも貸してもらえないだろうかと考え、周囲を見渡して扉の存在に目を止めた。光がもれている。誰かいるのだろうか。たちまち靴のことは忘れて、ドアハンドルを持ちそっと押す。細い光が大きくなり、視界が真っ白に塗りつぶされたが、二度三度、まぶたをしばたたけば、すぐに視野は戻ってきた。

手を伸ばせば届きそうなほど近いくせに、どこまでも果てしなく遠く見える青い空が広がっていた。浮遊島コンジャイ=イエンにいたときは遠景に山がのぞめたが、樹木の一本も生えていない。それどころか雲すら浮いていない。ただひたすら青い。かといって、ただ澄み切っているだけでもないのだ。注視していると、穴が空いているのかと思わせるほど濃く深い色合いを見せて、観測者の心を惑わす。

ここは死者の国かと一瞬考えた。ある意味、当たっているのかもしれない。乗員のいない船、現実味のない風景。私は長らくその場に立ちめて、我が身が置かれた状況をしみじみと自覚し、心の深く柔らかい部分にゆっくりと浸透させた。

次にまぶたを開いたとき、私の心持ちはすっかり入れ替わっていた。妻と娘を思えばあいかわらず胸は痛んだが、それはそれとして、余った時間を悲しみで満杯にしたまま生きる必要はないのだと思えた。あいかわらず能動的に生きる意欲はわいていなかったが、かじがただの飾りと化した静かなThen There Were None船につきあうくらいはいいだろうと思えた。

船は自らの意思を示すかのように空を進んでゆく。

これからのちの私の人生は、この船に導かれたと言っても過言ではない。

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