第5話 地底怪人の夜

 新入生歓迎コンパで飲みすぎた僕は、ひとりで店から外に飛び出したらしい。ベロンベロンになっていた。心配そうなみんなの顔が目の前でちらついて、くるくるまわっている。

 夜の繁華街を行き交う人々にぶつかりながら、僕はただ歩き続けた。下宿に帰るにはまだ早すぎる時間だったし、吐くのなら路上にいるほうが手っ取り早い。

 そのうちに、いつの間にか意識が薄れた。どこをどう歩いてきたのか、ひんやりした空気にビックリして目を開けると、固い木のベンチの上で転がっていた。あたりは真っ暗闇で人の気配がまったくない。どうやら並木に囲まれた小さな公園のようだった。

 起き上がろうとしてみたが、体が全然言う事をきかない。酒がまだ抜けていないらしく、頭ががんがんしている。

 そのままふてくされたように寝転んでぼんやりしていると、突然不思議な人影が視界の外から現れた。頭上に一つしかない街灯が、まるで全世界を照らしているようにその人物の周囲を浮かび上がらせている。僕は何気なく、薄目を開けてそれを観察した。

 驚くほど小さい猫背男だった。引きずるような長いコートを着て、夏の夜だというのに、大きなマフラーで顔を覆っていた。

 男はきょろきょろとあたりを見回すと、突然足元のマンホールの蓋を開いた。それから、コートの中から何やらおもむろに取り出して、穴の中に放り投げ始めたのである。それがどうやら人間のバラバラの手足のようなのだ。穴の中からそれを受け取る手がのぞいている。

 まさかと思いながらも、あまりの出来事に、僕はあやうく悲鳴を上げそうになった。気づかれるとやばいかも知れない。ぐっとこらえたはずが、思わず体が動いた。

「誰だ!」

 振り返った男と目と目が合った。

と、同時に男の口元を隠していたマフラーがはらりと落ちた。なんと男の顔はネズミ、いやモグラだった。人ではない異形のものである。

 僕は今度こそ、腹の底から恐怖のうめき声が出るのを我慢できなかった。次の瞬間、男のコートの裏からぼたぼたと地面に落ちたのは、間違いなく人間の手や足である。

「見たな」

「わわわ……」

 僕はベンチから弾けるように飛び起きた。モグラ男が猛烈な勢いで、こちらに向かって走り出して来たからだ。

 ところが、慌てて足をベンチに引っ掛けた。気が動転していたこととアルコールのせいだ。僕は無様に転倒し、地面に顔面から突っ込んだ。多量の砂を噛んだが、恐怖で渇いた口の中ではすぐに吐き出すのもままならない。

 あっという間に片手をつかまれて、僕は強引に上半身を引っ張り起こされた。

 このまま、食われるかもしれないぞ!

本能的にそう思った。

 が、そこにいたのはモグラ男ではない。背広を着たサラリーマン風の紳士だった。

「大丈夫か」

 紳士は、厳しい口調で尋ねた。年は四十半ばぐらいだろうか、几帳面な七三分けの頭で、表情は穏やかだが目つきに異様な迫力があった。

「君は見たんだね」

 なんと答えていいのかわからなかった。ただ、この男は敵ではないように思えた。

「どこへいったんですか、あいつは…」

「穴の中へ逃げていったよ。もう一度聞くが、君にはあの男が見えたのかね」

 黙っていると、男はさらに続けた。

「人間の目は、対象のごく一部からすばやくその全体像を組み立てる事が出来るかと思うと、実際に見えているにもかかわらず、見えない、と勘違いしてしまう事もある。奴らはいつも人間のそういう盲点をついて暗躍しているのだ。まあ、そのベンチに腰掛けたまえ。詳しく話をすることにしよう」

 話が飛躍しすぎて、最初、僕には何がなんやらさっぱり理解できなかった。それよりも、先ほどの情景が心の中に蘇ってきて、瞬時も穏やかではいられない。

 が、男は僕のことなど頓着ないようだ。

「心理学の実験でよく使われる『瞬間露出器』というものがある。これは絵や文字を瞬間的に見せて、どんな風に見えたかを調べるものなのだが、これを用いるとよく知っている言葉や絵ほど短時間で理解される事がわかる。例えば、『しじんゆく』とか『いけくぶくろ』というように語順が違っていても、人間にはちゃんと新宿、池袋と読めてしまうものなのだ。絵についても同様で、一般的には、多少不完全なものでも、それが猫に似ていれば猫に、ネズミに似ていればネズミにというように、おかしな部分、足りない部分をすぐに補ってしまう」

「……ということは、僕の見たものはモグラ男ではなかったと……?」

 ふと、目の前の紳士が、実は先ほどの化け物の仲間ではないかという疑念が沸き起こった。最初から何もかも騙されているのではないか?そう考えるとさらに恐怖に襲われた。

 だが、男はまるで僕の気持ちを見透かしたかのように言った。

「いや、そうじゃないよ。君は、普通の人が見えているのに見えないものが確実に見えているということだ」

 男は急に笑顔になった。

「少し逆説的で説明しにくいのだが……いいかい、例えば、瞬間露出器で見る対象がタブー語になると、人間というのは、よく知っているはずの単語でも理解するのに時間がかかってしまう。つまり、見る時間が他の単語の場合よりも長くないと『見えない』のだ。これは、実際には『見えている』のにもかかわらず、頭のどこかでそれがいけない言葉だという制止が働くために、見えなくさせているのだよ」

「僕ははっきり見ました。あれは確かにモグラでした」

 男は、僕の表情を覗き込むように観察していたが、突如ベンチを立ち、地面にしゃがみこんだ。

「どうやら君には真実をしゃべってもいいようだね」

 男が地面を掌で押しのけるように掘っていくと、土の中から鉄板が現れた。さらに土を押し広げると、やはりそこも鉄板である。

「見たまえ、いつの間にか、地面の中に鉄板が敷き詰めてられている。都内のあらゆる場所で見られる深夜の道路工事の半分以上は、理由のわからない工事だ。実は、奴らが我々の盲点をついて、密かに地面の下に細工をしていたのだ」

「何のためにこんな事を。しかも奴らって……」

「我々には、日常の中で、いくらでも『見えていない』ものがある。奴らが見えないのも、それが人間にとって、タブーの存在だからだ」男は深く呼吸をした。

「奴らは地底怪人、我々人間に対するいわば負の存在だ」

「地底怪人!」

 酒が脳にきたのか!

 常識では到底理解できない馬鹿げた会話。もし、この男がペテン師だとしても、三流以下の法螺吹きに違いないだろう。すでに与太話の限界を超えている。

「まさか、僕をからかっているのですか」

「残念ながら、これは事実だよ。君なら理解できると信じたからこそ話したのだ。現実にこの鉄板は都内一円に敷き詰められている。あまりにも突飛で想像を越えた危機だから、誰ひとり気づかないだけだ」

「鉄板って、いったい…」

「人間を丸焼きにしてしまおうとする恐ろしい計画だ。古来より人間は奴らの食い物なんだからね。その作戦準備は今や大詰めにきている。ここで阻止しないと、大変な事になる」

「鉄板、丸焼き、人間……!」

 僕は一瞬錯乱したのかも知れない。男は呆然と鉄板を見つめる僕の手を掴んで、今度は例のマンホールのところへ引っ張り寄せた。

 マンホールの蓋を開けると、底の見えない暗黒の中から、ぷうんと鼻を刺激する臭いがする。明らかにガソリンの臭いだ。

「下水は今ガソリンで溢れている。奴らは、このガソリンに火をつけて、一気に地上の人々を鉄板焼きにしてしまおうと企んでいるのだ」 

「いったいどこからこんなガソリンを…?」

「ガソリンスタンドの地下から少しずつくすねてきたのだろう」 

 ……と、その時である。

 マンホールの中から、突然毛むくじゃらの手がすっと伸びてきたのだ。

 それが目の前の男の胸倉を掴んだかと思うと、あっという間に穴の中に引きずり込んでしまった。僕は腰を抜かして、大声で助けを叫ぶ事も出来なかった。

 さらに穴の中から出てきたのは、あの地底怪人である。人間と同じ服を着て、どの顔も無個性な同じモグラの顔をしていた。それが、次から次へと這い出してきた。

「なんて悪夢だ!」

「いや、これは夢などではない」

 再び男の声が穴から聞こえてきた。

 次の瞬間、引きずり込まれたはずの男が疾風のように穴から飛び出し、モグラ男の群れの中に突っ込んだ。

 何という跳躍力だろう。

 見上げるモグラ男たちの頭上で、さらにつむじ風のように回転した。

 あっと叫ぶ間もない。そのまま着地した男の周りに、すでに数体のモグラ男が、朽木のように転がっていた。

 とび蹴りと旋風脚の複合技だった。しかし凄まじいスピードである。

 男は、何事もなかったかのようにネクタイを緩めながら、ゆらりと立っている。

 いったい、この男は何者なんだ。

 その疑問は、すぐに、ぎぎーっという叫喚にかき消された。モグラ男たちが、四方から飛び掛っていったのである。が、一瞬にして、二体のモグラ男が軸足を刈られて仰向けになった。倒れる間際に、目にもとまらぬ掌底が一体の顎を、そしてもう片方の背刀が別の一体のこめかみを見事に砕いていた。

 さらに他のモグラ男はその突き手を絡めとられ、瞬時に小手返しに返されて、受身を取る間もなく後背骨を蹴上げられた。

 モグラはドサリと音を立てて転がったまま、ピクリとも動かない。たちまち泡のように解けて、小山のような黒土の塊になった。

 間髪を入れずに、さらに二体のモグラ男が男に掴みかかろうとした。が、稲妻のような連続後蹴りで、鞠のように吹き飛ばされ、そのまま数体を巻き込んで束になって転がった。

 男は平然と手刀を構え、猫足に腰を落としている。

 拳法の達人に違いない。格闘技ファン(もちろん見るだけだ)でもある僕はそう思った。

 しかし、いくら達人だとはいえ、楽観できる状況ではない。穴の中から数知れず出てくるモグラ男が、たった一人に怒涛のごとく、次々と挑みかかっているのである。その様は、まるで男自身が巨大な渦巻きの中心になったかのように見えた。モグラたちはそこに吸い込まれるように巻き込まれ、そして渦の外に弾き飛ばされた。

 だが、その圧倒的な数の多さに、男の動きが徐々に封じられてきた。

「どうやらこれまでだ」

 と、男は集団の蠢きの中で、叫んだ。

「逃げるんだ。走れ!」

 もはや、一瞥でも後を振り返る余裕はない。僕は何度も足を絡ませ、地面に転び転びしながら、死に物狂いで駆けた。

 捕まれば確実に殺される。しかもバラバラにされて、穴の中に投げ込まれてしまうのだ。奴らの秘密を知ってしまった僕が許されるはずはないだろう。

 

 

 

 本当に恐ろしい悪夢だった。

 自分の悲鳴に驚いて目を覚ますと、僕は下宿のベッドの中にいた。相変わらず頭が痛く、ひどい悪寒がした。体中から冷たい汗が出て、シーツをびしょびしょに濡らしている。

 時間を知りたい。

 そう思って、やっと起き上がった時である。ドアの方からチャイムの音が聞こえてきた。僕は再び不安と恐怖に支配され、あの忌まわしい記憶が蘇ってくるのを痛みのようにきりきりと感じていた。

 まさかと思いながらドアの前に立ち、覗き穴から外を見た。しかし、外は真っ暗だ。

 すると、外の相手はどんどんと、けたたましくドアを叩いてくる。僕は泣き叫びたかった。覗き窓からは依然暗闇しか見えない。

「だ、誰ですか」

「私だ、ここを開けたまえ」

 聞き覚えのある声に思わずドアを開けると、顔と顔がくっつきそうになって仰け反った。そこに立っていたのはあの男だった。どうやら、彼も覗き窓を覗いていたらしい。

僕は否応ない現実に引き戻された。

 男は僕の体を押し込むようにして、ずかずかと部屋の中に入ってきた。泥と油にまみれて濡れ雑巾のように無残な姿だった。 

「君に預けた書類を返してもらおう」

「なんのことかわかりません」

「当然だ。あそこで私が持っているのはあまりにも危険だったので、承諾なしに君のポケットに突っ込んだのだからね」

 ズボンの後へ手をまわすと、今まで気がつかなかったのだが、紙の束がポケットにねじ込まれていた。一見して、何を書いているのかわからない。

 紳士はその束を引ったくるように取り上げた。

「これは地底怪人から盗んだ作戦書だ。今後の恐るべき計画が明らかになっている」

「ミミズが這ったような字ですね」

「ミミズ文字だ。奴らが使う文字だよ」

「しかし、どうやってあの穴から戻ってきたんですか?」

 いま、疑念はそのひとつだ。

「下水道の下には、奴らの都市アジトが重層的に存在している。下水道からそのアジトを結ぶパイプのバルブを開いて、下水道に充満したガソリンを全部アジトに流し込んだのだ。そのガソリンに火をつけて、奴らのパニックに乗じて逃げ出したというわけだ」

「な、なんということを……」

「そうでもしなければ、我々は鉄板焼きになって食われてしまうところだったんだからね」

 言いながら、男は窓際に飛びつくように移動した。カーテンを開けると、なんと外はまだ暗闇である。夜はまだ明けていない。

「見たまえ、我慢できなくなった奴らが飛び出してきた」

 窓から覗くと、あちらこちらで地面がもこもこと盛り上がり、そこからモグラ男が出てくるのが見える。

「これでひとつづつ狙い撃ちするんだ。夜明けまであと数分ある。それまでの戦いだ」

 男が手渡してくれたのは懐中電灯だった。

「これは光量を特別に強くした特殊兵器だ。奴らは、光に極端に弱い。なにしろ地底怪人だからね」

 僕たちは懐中電灯の光の筋で、地から這い出してくるモグラ男を次々と叩いていった。モグラ男たちは、光に当たるとくちゃっと音を出して、潰れたように死んだ。残るのはやはり、黒土の塊である。

 恐ろしく弱い。

 しかし、その数がすごかった。いくらでも穴の中から這い出してくる。よくもこれだけの怪物が足の下に潜んでいたものだ。

 僕は窓際のモグラ叩きに熱中しながら、紳士に尋ねた。

「その作戦書に書かれているさらに恐るべき計画というのは何なのですか?」

「今は聞かないほうがいいだろう。どうせ、そんな馬鹿な、と呆れるのがオチだからね」

「もうここまできて、驚くような事はありませんよ。すでに僕は都民を代表してあなたの手助けをしているんだ」

 男はしばらく考え込んでいたが、意を決したように話し始めた。もちろん、その間もモグラ叩きの手は止めない。

「ガソリンの爆発で地熱を上げる事によって、奴らは恐るべき最終兵器を起動させるつもりだった。その兵器を富士山の下からマントルを通じて都内の地下に誘導しようとしていたのだ」

「な、なんですか、その最終兵器って……」

「……地震兵器、巨大ナマズだよ……」

 僕は自分の耳を疑った。思わず叫び声が出た。

「そんな馬鹿な!」

 今度はナマズか……。

 僕の頭の中はくるくる回っている。

 そろそろ夜明けだ。

もぐら叩きを楽しんだら、いよいよ今度はこの男の素性を尋ねなければなるまい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナンセンス・感染す・ショートストーリー 野掘 @nobo0153

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ