第8話 蝉時雨が浮雲に告げる夏の始まり

七月の二十八日、日曜日。まばらに浮かんだ小さく真っ白な雲が飲み込まれてしまいそうな程の青空の下、今日も俺は屋上で本を読んでいた。


 いつもは夏休みといえども下のグラウンドや下駄箱までの道のりからは多少の喧騒が聞こえてくるものだが、今はページをめくる音や吹き鳴らす微風の風切り音すら大きく聞こえてしまう程ここは静寂に包まれている。だがそれもそのはず。今の時間は朝六時になろうとしている所。夏休み、この学校の校門が開く時間が七時であるので今この学園に生徒はおろか教師陣すら居やしない。せいぜい当直の教師や警備員が中に居る程度であろう。そんな誰も居ない学園にて、誰にも邪魔されず青空の下で本を読むのは中々に気分が良いものであった。一点だけ心に暗雲をもたらしている事と言えば、仮に誰か大人に見つかった場合は言い逃れが出来ない不法侵入者であると言う現実ぐらいか。


 ここ、日ノ本学園には正門と裏門の二か所の出入り口が存在して、どちらも警備員が門の操作をしているのでその日の警備員が来ないと校内に入る事は通常できない。しかし、ここ以外の校内敷地と公道の境目は大体がフェンスで囲われているだけで、高さも4m程とよじ登れない事も無い。無論、その辺りの不法侵入者への対策か、随所に監視カメラが設置されていて安易に侵入すれば身元がばれる程度で済まない事になる。


 だが、この監視カメラ。侵入の厳しいと思われる箇所については設置が甘い所もあり、何箇所か侵入できる場所が存在する。この間、橘に対してセキュリティがザルな公的機関はどうかなんて口にしたが、実際にこの学校はだいぶ甘い。前にこの学校の警備について調べる事があって監視カメラの死角などを調査したが、もっと増やしたほうが良いと率直に思う。最も、今でも監視が雑だからこそこうして屋上で優雅に過ごしているわけなのを忘れてはならない。


「とはいえ、あの絵を担ぎながらフェンスよじ登るのは面倒だったがな…。カメラは無いといっても時間を掛ければ道路を走ってる車に見られてもおかしくないし」


 手に持った本のページをめくりながら先程侵入した時の事を思い返す。


 昨日、西村先生から渡された『櫻の大樹下暗し』と完成させた手紙を家に持ち帰った俺は『四季桜』の飾られていた壁に俺が描いた絵を掛けて手紙を添えた。これで計画自体は完遂したわけだが、問題は『四季桜』の処分方法。西村先生に渡すという所までは考えていたが、流石にこれだけの物が入る非透明のゴミ袋や隠せそうな物は持ち合わせておらず、抜き身で持ち歩くいて学園に戻る羽目になる。


 だが、先程までの絵を担ぎながらの道中は大層怪しげな目を向けられていたのを思い出し、学内でも様々な人に怪訝そうな目つきで見られたのを考えると、四季桜を運び出すのは、学内に誰もおらず、なるべく道中も人が少ない時間に絵を運ぶ必要があると考え、最終的に夜中か朝方の二択まで絞り込む。この二つはどちらにせよリスクはさほど変わらず、ならば侵入してまた帰らなければならない夜中よりも適当に時間を潰していれば正門から帰れる早朝の方が幾分マシであろうと踏んだ俺は朝五時過ぎに侵入する事にした。朝方の方が足元の確認用のライトなどを使う必要が無いと言う利点もあった。あんな暗がりで光を照らせば一発で見られてしまうというものだ。


「こんなデカい絵なんて無ければ片腕でも登れなくは無かっただろうが…。流石に今回は両手ないと厳しかったな。ヘッドライトの微灯じゃあの茂みの中を抜けるのは辛かったろうし」


 何がともあれ、4mのフェンスを乗り越え整備されていない草むらをなるべく音を立てずにかき分けながら校舎に侵入。一回橘を回収しようかと考えはしたが面倒臭かったのでそのまま校舎の壁沿いを慎重に進み焼却炉前に到着して裏口の鍵を開け、そのまま校内に入り込んで美術室前に絵を捨ててきた後、こうして屋上にやってきた。


「……この時間はまだ涼しいな。日が本格的に登り始めたらこうはいかないだろうが」


 暑さよりも健やかさが勝る屋上の空気は、怠惰に本を読むには丁度良い気候と言えた。手元のスマホが示す現在の気温は24℃、この位であるならば外に居ても汗ばむ陽気では無いと言える。後三時間も経てばここも地獄と化すのだが、その頃には校舎内をうろついても文句は言われない時間になるだろう。


「天気良し、気候良し、邪魔も来なければ景観も良い。ホントに理想郷だぜ…ここは。……っと。やっとか」


 誰かに向けている言葉なわけだが、帰ってくる事の無い為独り言を呟きながら本のページをめくる。いつもなら雑に本棚から掴み取った本になるのだが、今日持ってきた本は昨日のメッセージの件もあり、探し出して持ってきた。タイトルは『唐詩選』。昨日のメッセージの引用元の文章が載っているのはこの一冊しか持ってなかったと言うのもありこれを持って行く事にしたのだ。内容が漢詩なので本当なら著者別に数冊買って口語訳などの差とかを吟味してみるのも面白いのであろうが、買った時にそこまで熱があったわけでは無いので諦める。自分が住んでいる町を眺めながら、のんびりと読み進めてようやく件の詩のページまで来た。何となくこの詩を、桜夏を見ながら読みたかったのだ。


「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。ねぇ……、確かにごもっともだ。既に死んだお前が言うのも大分おかしな話だが。…まぁ間違っちゃいねぇんだろうけどな」


 苦笑交じりに、俺は本を指の関節で叩き髪の毛を描き上げて桜夏を見下ろす。縁に近づけば近づくほど下から誰かに見つかる可能性は高まるが、見つかったら見つかっただろう。


 年年歳歳花相似、歳歳年年人不同――――――――この文が載せられた詩を書いたのは本のタイトルにも書いてある通り唐の時代のとある詩人。この詩は七言古詩と呼ばれる文体で作られたもので、その中の一部を抜粋したのが今回のメッセージとなる。白髪頭の翁が毎年春に咲く花を眺めて自分の変貌や自分の周りの環境の変化、愛人の死を悼みながら変わりゆく人の世の儚さ、そして対比表現として変わることの無い自然を引き合いに出してこの言葉をポツリと呟いた。これが今回の引用した詩『代悲白頭翁』の内容である。


 詠んだ内容こそ同一ではあるが、この詩に登場する翁と橘には決定的な違いが存在する。それは勿論、生きているか死んでいるかだ。


 白頭の翁はこの言葉を亡き愛人に向けて詠んでいるが、橘は生きているウチの両親に向けてこの言葉を投げかけた。生者が死人に向けたものと、死者が生者に向けたもの。たとえ言葉が同一でもその意味合いはまるで変わってしまう。それはさながら、ルビンの壺のような錯覚、誤認、曲解の中で生まれたようなメッセージであると、少なくとも俺は思っている。あくまで橘が、ではなく自分がと言ったのは、果たして自分がこの言葉に載せた橘の想いがどれ程当たっているかが分からないからである。案外俺は向かい合う少女を連想していても、橘は壺を見ているかも知れない。そこの価値観、考え方は生者と死者に隔たりがある可能性は否めない。


 聞けば奴もドヤ顔をして答えてくれるであろう。というよりも、俺自身その辺りの答え合わせがしたくてここにやってきたわけなのだが、如何せん奴の反応が先程から悪い。


ここまで一言も返事をしてはくれないが、ここが屋上である以上、橘も当然近くに居る。具体的には俺の後方約5m。先程まで俺が座っていた場所からは2m弱の隅っこでいじけながら無反応を貫いているだけなのだ。


「……なぁ?いい加減機嫌直さねぇか?こんな快晴の下でヘソ曲げてても良い事ねぇだろ」


 いい加減、独り語りも寂しくなってきたので橘の方を向いて聞いてみる。橘も最初からこんなブルーな状態では無く、寧ろ一仕事終えた俺を朝早くから見て極めて上機嫌であった。それがどうしてこうなってしまったのかと言えば、偏に言えば俺の所為であるのだが。


「………咲良の所為で朝からこんなローテンションになっちゃってるんですけど?」


 恨みがまし気なジト目でこちらを睨みつけてくる橘、とりあえず俺は謝るしかないのだが、そこまでうだうだ言われる筋合いも無いのではと心の底では思っていたりもする。


「そうは言われてもな。俺は最初に言ったじゃねぇか。西村先生もあの絵を見たがっていた事だし、収まる所に収めたほうが良いってな。その後お前が勝手に処分内容を妄想して捻じ曲げただけなのにそれで当たられてもこっちが困る」


 俺も今回の処分方法は橘が意気消沈してしまう事以外はマトモな解決策だと思っているので反論はしてみる。元より説明はしていたのでこんな事で一々うだうだ言われてもしようが無いし、何よりあんなサイズの絵を廃棄処分するのは面倒が過ぎると言っていた筈。だが橘はそんな俺の説明で納得はしてくれず、逆に俺の言葉を皮切りに立ち上がり唸り声を上げ、泣き喚くように駄々をこねだした。


「処分!私が求めたのはこの世からの完全な処分!こちとら一遍残らず消し炭にして欲しかったってのに…!何でよりによってケージに渡しちゃうのさ!」


「そりゃ元々あの人の持ち物だからな。ちゃんと元の場所に返してやらないとだろ。それに、仮にそうでなくても西村先生は絵を見たがっていたんだ。ならば見せてやるのが優しさだろ。恩師の気持ちに答えてやるいい生徒だからな、俺は。…それに、まだ西村先生の手元に残ると決まったわけじゃないぞ?まだあの人は学校に来てないだろうからな。運良く清掃員が見つけてゴミと勘違いしたらそのままゴミ捨て場行きだろう。そしたらお前もハッピーじゃないか」


「なんで!何でそんな運任せの方法にしちゃったのさ!違うじゃん!普通に咲良が横着せずに焼却炉に突っ込んで来てくれれば終わりだったんだよ⁉それをこんな…!」


「お前的には焼却がモアベターだったんだろうけど俺的には西村先生の手元に戻るのが一番丸く収まると思ったからな。そのどちらにもなりそうな選択をしたってわけだ。もしかしたら西村先生も一度見たら満足して捨てるかもしれないしな。そしたら皆幸せじゃないか」


「そんなの、ありえないにきまってんじゃーーーーーん!」


 生きていれば校門まで響きそうな橘の慟哭は大気を震わす事無く俺の耳にのみ劈く。今更ながら、コイツの声が俺の耳に届くのはどんな理屈なのだろうか。ふと気になった疑問について考えている間も橘は愚痴を吐き続ける。


「あーあー、これでもし成仏できなくなっちゃったらどーしてくれんのさ咲良!責任重いよコレ?私十八年近く彷徨って漸くあの世に行けそうだったってのに台無しにしちゃってさー。一生モンだよ?私もう死んでるけど」


「安心しろ。少なくとも今回の絵がお前の成仏に関係しているとは露程も思っちゃいない」


「なんでさ⁉何故咲良がそんな事を言えるのさ!根拠、根拠の提示をお願いしまーす!」


 これみよがしといつもの五割増しで強気な橘。珍しくマウントを取れると思っているのか随分と口も流暢であるが、残念だが俺も根拠と言える程ではないがいくつかの指摘は出来る。やれやれと言わんばかりに両手を上げて、俺は橘に絵と成仏の関係性についての説明を始める。


「まず前提だが、お前は俗に言う幽霊と呼ばれる存在であることに間違いはない。そこについて否定をするのはこの一週間で止めた。なら次に考えなければならないのはお前がどんな幽霊であるかだ。幽霊と一口で言っても大分物が分かれるってのはネットで調べた話だ。ネットの情報を鵜呑みにするなとは昔四谷さんには言われたが…お前みたいな常識が通じない存在は例外だろう」


「常識が通じないって失礼な!私これでもちゃんと意思の疎通できるし通じないとか失礼な話なんですけど!」


「会話云々じゃなくて存在そのものがって事だよアホ…。まぁいい。ともあれネットで調べた結果、お前は浮遊霊のような自由性はなく、自称するように地縛霊だと言う認識に至った。屋上から出ようとしても戻されるってお前の話が理由だな」


 地縛霊という単語は自分で口にした事もある癖に橘的には好きではないのか嫌そうに首を捻っている。とは言え現状の再認識は大事なので咳払いをしながら俺は話を続けた。


「さて、地縛霊の特徴として今上げた特定の場所に固定されてしまって動けないと言うものがある。これについては生前に執着していた物や場所を中心に居場所を決めるらしい。お前の場合は日ノ本学園の校舎がそれにあたるだろう。だが、そうなるとお前の未練や執着、この世に留まらせている理由はこの学園に存在する事になる。それならば、俺の家にあった四季桜がお前の成仏できない原因にはなり得ないだろう?もし本当にあの絵がお前を縛っているのならばお前の化けて出る場所はこの学園じゃなくて俺の家になるはずだろ?対象に行動範囲を縛られるのが地縛霊なんだからな。」


「え?そうなの?霊の事なんて生前調べた事無いから知らなかったけどそんなものなの?」


 俺の幽霊講釈に対して何一つ知識が無かったらしい橘は興味深そうに話を聞いていた。自分の事なんだから多少は自分で考えたり実証実験などをやって欲しいものなのだが、如何せんその辺りまでの頭は回らないらしい。とは言え俺も経や塩が効くのは橘の尊い犠牲があってこそ初めて知ったわけであり、実験をするのは俺もある程度付き合う必要があるのかも知れない。なんといっても現状、コイツが見えて意思疎通が出来るのは俺一人なわけだから。


「仮にあの絵が執着の内容だったとしたら、あの絵の完成が可能性としては考えられなくも無いが、処分は絶対にあり得ない。何故ならそれは死んだ時のお前が未練として持てないからだ。処分の有無は死後に行われた事だからな。ここまで考えて、俺は四季桜は未練の対象からは除外した」


「……言い返せない…言い返せそうな場所が存在しないよ咲良…」


 そこそこ穴がありそうな論理ではあったが、どうやら橘を黙らせるにはこの程度で十分なようで歯を食いしばりながら威嚇するだけになってしまった。


「あくまでもネットで調べた限りの推測だがな…ある程度お前には当てはまるものだとは思っているさ」


「ぐぬぬ……。…ん?今の言い方って…」


 俺が腕を組みながらそう言うと、ふと何かを考えついたらしく若干の期待を目に宿しながら橘が質問をしてくる。


「もしかして咲良、私の成仏できない未練の正体が分かったりしてる?」


「まさか。ただ現状の指摘として四季桜の絵自体はお前を縛るものとしては不適切だろうって話だ」


 実を言えば、俺の中に仮説は一つあるにはある。桜に哭く少女の噂が現実であるのは自分が誰よりもよく知っていて、桜夏が咲いた時に橘御影は出てきた。ならばこの二人はやはり密接な関係があるものだと考えられる。突き詰めて考えた場合、卵が先か鳥が先かみたいな話になりそうだが、アレが咲いているからこそ橘御影という幽霊が存在するという見方が一番有力だと自分の中では思っている。とはいえこれも結局はよもやま話、確かめようが無いのだから推論の域を出ることは無い。


「櫻の木の下に埋まっているモノ……ね」


「?何ぞ?今のは」


 俺の呟きに興味を示す橘、だがこれに関しては橘に聞いても分からないだろう。


「さてな。とにかく、今回の一件はお前の成仏には無関係の可能性が非常に高い。そんでもって欲しがる人が居るってんならその人に上げたくなるのも優しさてもんだろ。もしこの後にあの絵が成仏のファクターになり得そうな証拠が見つかったら西村先生と交渉して焼却してやるよ。…それともお前は我が身可愛さで生前の恩師がぼやいた望みを叶えさせる気は無いってか?」


 俺が挑発的に橘に聞くと、橘は渋い顔をして唸り声を出した。少しばかり言い方が汚かったかもしれないが、これで反撃してくる程橘の情は薄くないだろう。それはこの一週間で良く分かっていた。自己中なように見えるが、根は相手の事を思って動くような奴なのだと。


「……その聞き方は卑怯じゃない?咲良」


「さぁ?卑怯に聞こえるならお前の心がそうさせているだけだろ。俺は別にお前が自分を優先して絵の廃棄を強行してくれと頼まれたらやってやらなくも無いぞ?人間と幽霊なんて価値観がズレて当然だからな。俺の思った以上に状況が切迫して、且つあの絵が重要だとお前が判断するならそれに従わなくも無い。どうする?」


「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬうぅ……」


 橘の唸り声は音を大きくし、威嚇でもしてるかのような言い方になってきたが気にも留めぬように涼しげな顔をしていると、やがて根負けしたらしく大きな溜息と共に気を抜いて静かに座った。


「はぁ~。分かりました分かりました。良いよ、咲良が違うと思ったんならきっと違うんでしょ。私も最終的に四季桜の代わりの絵を作って欲しいとは頼んだけど廃棄までは頼んでないし。焼却したいとは何回も言ったけど」


「口にしてはいたな。だが愚痴で動くほど俺は安い男じゃねぇぞ」


 やけくそ気味な橘の台詞を流しながら俺は絵を廃棄しなかったもう一つの方の理由について考える。


先程話した事ではあるが、まず橘は絵の所在を知らなかった。そして四季桜の在りかを知った時に焼却したいと口にはしていたが最終的に頼んできたのはモデルと構図を同じにした絵の完成であり、これを聞いた時点で俺は橘が絵の処分方法で廃棄を望んでいるか疑念を抱く。


 幽霊、こと地縛霊は生前にやり残した何かしらの未練を抱いて現世に留まると言うネットの言葉を信じるのであれば、四季桜が残っていた事自体は死後に発生したアクシデントであり生前の未練としては考え辛い。もし生前からあの絵を廃棄したいなんて考えていたようならば、あそこまで入念な下書きはしない筈。そして、奴が頼んできた事は絵の処分としては見当外れな俺の手による別の絵の完成。これらを纏めれば、橘の未練というのは『未完成の絵が残っている事』では無く『絵が未完成で残っている事』と推測できる。そして、相手の体を乗っ取る事の出来ない出来損ないの幽霊は、俺が似たような絵を描いているのを見て同調しようとしたのだろう。だが結果は失敗、なるべく奴の意図を汲んだりはしてみたものの橘を泣かせることは出来ても成仏させることは出来なかった。先程の地縛霊の性質との矛盾とここまでの流れを考えれば、四季桜の完成は橘の未練の大元では無かったと言えるに足ると思っている。


「知ってるよ。咲良は自分で考えて正しいと思った事しかしないモンね」


「…そこまで頭が固い人間では無いと思っているがな」


「冗談冗談。まぁ私もあの絵が残ってるのは恥ずかしいなーとは思ってたけどそれ自体が成仏


出来ない理由だとは思ってなかったし。丸く収まったようなものじゃない?…これからケージが死ぬまであの半端な作品を見られてニヤニヤされる以外は」


「それで困るのはお前だけだ。大団円じゃないか」


「私がその円の中に入ってないんですけどー!…はぁ」


 そのツッコミを最後に諦めたのか疲れたのか、橘はがっくしとうなだれて会話を打ち切る


そして数秒後、ガバリと顔を上げて、そういえばと話を変えてきた。


「家に飾ってある四季桜を桜夏とすり替えて、四季桜と私と聖君の文通を処分して、私に事後報告だけど報告を済ませて……もうやる事大体終わらせちゃったんじゃない?まだ朝も早いし二度寝でも決めればいいのに何で家に帰らないの?まだ学園でやる事あるの?」


「いや…確かに何もないんだが……」


 橘が聞いてきたのは、純粋に俺が何故ここに居るか。確かに今日のやるべきことは全て終わらした。実はまだ橘の文通は焼却炉に突っ込んでは無いのだが、今日帰ってきた親父達の反応を見て返せと言われたら返せるように残しているだけなので、問題なければ明日には燃やすので一日くらい些末な差であろうと隠している。残りの絵の処分と橘への報告は終わらしたので、基本的にはもう帰っても良いのではある。だが、学園に居る理由は無いが家に帰る事の出来ない理由は存在する。


「家にはすり替えられた絵とお前が書いたということにした手紙、そして家に居たのは俺一人、この状況かを想定してみろ。両親はまず誰を疑う?」


「え?……あー。成る程ね?たしかにそりゃそうだろうけど…。でもそれ咲良が家に居なくてもあまり変わんなくない?どの道咲良が疑われるでしょ?」


 橘の言い分も最もである。今の状況を作る事で、あの絵をすり替えた犯人として両親が考えられるのは俺、窃盗犯、橘の三択に持っていけた筈。それでも、湖の三択ならば親友の幽霊が絵をすり替えたなんて優しい幻想を信じる可能性は相当低いだろう。現実的に、冷静な思考ができるならば俺が絵の変貌に驚かない限り犯人は俺だと断定されてしまう。実際それが正解だから仕方ない。


 ここから、如何にして両親に誤認させるかを考えれば、第一に俺が家に居ない状況を作るのが最善と考えた。これで俺が居ない間に絵が変わった事にすれば、犯人の選択肢から俺という可能性をなるべく除外する。その為に、普段から窓やドアの鍵は気をつけている俺だが今日は徹底的に確認してから家を出てきた。もしアレで我が家に侵入する気なのならば両親の部屋の窓ガラスを割るしかない。共用スペースの防犯は俺が手を加えているので強固になっているから両親すら心配は露程もしていない。もし今日の、それも絵を運びだした朝五時から両親が家に帰るまでの時間―――――昼までには帰ると言っていたので七時間ほどの間に、治安の良い紫咲で絶望的な間の悪さで泥棒に目を付けられて侵入を許してしまったとしたら、それはもう運命がこんな怪しい真似は止めろと言われているようなものだと開き直るしかないだろう。


「俺が疑われるのは当然だが、冷たい現実よりも温かい嘘を信じたくなる状況作りが俺の仕事だ。1%でも可能性を上げられるのならば、俺は校門が解放される前の学園にだって忍び込むしクソ暑いのを覚悟で家に帰らず時間を潰す。人事は尽くすものだと言っているだろう」


「うーん…まぁ結局は聖君達がどう思うか次第だから何とも言えないけどさぁ……。…あー、そういう事か。だから咲良は絵の完全な廃棄とかをしてない訳だ」


「…まぁそう言う保険的な意味合いも無いわけでは無いがな。個人的に元鞘が一番落ち着くだろうって思いが一番強い」


 橘の指摘通り、万が一計画が破綻して両親、特に親父が癇癪を起こした場合は物が無いと収めようが無い。そんな状態の親父に廃棄してしまったなんて言おうものなら首を吊られかねないと思っている。止めるのは容易いだろうがなるべくならば穏便に終わってくれる事を願うばかりだ。


 そんな様々な思惑があった事を知ると、橘も絵の処分方法に納得したのか大きな溜息を吐いて苦笑を漏らしながら一言を漏らす。


「息子ってのは大変だねぇ」


 そんな言葉で纏められてしまったら、俺も同意せざるを得ない。


「全くだ」


 短く、そして心底面倒そうに言って俺も橘の近くにあった日陰に座りながら本を閉じる。四季桜に関わる話はこれで全部話し切った。ならば次はこれからの事について考えなければならないだろう。俺は陽炎が揺らめき始めた屋上の風景から目を逸らすように目頭を押さえて、熱の籠った息を吐きだす。


「にしても、今日はこれからどうすっかな…。最低でもあと五時間は暇を潰さなきゃならんのだがやることが無い」


「勉強でもすればいいんじゃない?夏休みってことは宿題もたんまり出てるでしょ?学生の本分は勉学だよ!」


 至極当たり前の事を橘は言っているのだが、コイツに言われると癪なのは何故だろうか。


「絵がデカすぎて荷物大体置いてきちまったってのに宿題なんか持ってるわけ無いだろ…。この本と財布、家の鍵に携帯くらいしか持ち合わせてないっての」


「そうなの?じゃあ能代ちゃんとデートでも行けば良いじゃん。学生の本分は恋愛だよ!青春青春」


 そして一瞬で先程までの発言を翻す橘。奴の中に学生の本分とはいくつあるのか。複数ある時点で本分では無い気がするが、ノリと流れで会話しているような奴に対して一々ツッコミを入れていては埒が明かない。


「前から能代とはそんな関係では無いって言ってるだろ?火葬処分で本当に脳まで焼かれちまったのか?」


「またまた~そうやって照れちゃって~、あそこまでべったりで流石にそれは無理があるでしょ?風紀委員室からの移動の必死さとかもあるしアレで付き合ってないは無いって」


「人の関係を捏造するなっての…ったく。第一、能代もここ最近はオーバーワーク気味だ。朝の練習は休みに入ってから欠かさず行っているし炊事や洗濯などの家事もやってるって話だ。もしアイツが暇だってんならじっくり休養を取るべきだと思う。矢矧程だらけるのも何だが能代は休みを取らなすぎだ。あの姉妹は足して二で割るくらいが丁度良いんだがな」


「ほぇ~、能代ちゃんって妹もいるんだ。咲良も人気者だね」


「…どうしてそうなる」


 本当にコイツの頭の中には脳味噌が詰まっておらず彼岸花の花畑でも出来ているのではないかと思える程の曲解である。高校に入ってからは那賀家と西村先生以外の人付き合いをしてこなかったというのに人気者とはヘソで茶が沸く話だ。俺は携帯をパタパタと振りながら呆れたように橘に反論をする。


「この夏に入ってからなぜかストーカー気味の後輩とかの知り合いが増えたが、そもそも俺は基本人付き合いが悪い人間だったんだ。連絡先も能代と矢矧、後は四谷さん位しか知らないし、そいつらが何も無い日曜に連絡を寄越すわけが…」


 無いだろう、と言おうとした瞬間に、携帯から通知音が鳴った。携帯を振っていた手をピタリと止め、睨みつけるように目を細めながら携帯を見つめる。なぜ今日に限ってマナーモードを切っていたのか、振動だけならば俺の態度次第では橘に気取られる事は無かったというのに。そして、橘の方に視線を動かすと固まった俺をニヤニヤと笑いながらこれ見よがしと煽ってきた。


「あっれ~?誰からも連絡なんて来ないんじゃなかったの?何か音鳴った気がしたんだけど気のせいかな~?」


「うるせぇ、塩撒くぞ」


「ひっ…、っと思ったけどさっき咲良の言ってた荷物に塩もお経も無かったよね。騙されないよ!ほらほら~、どうせ能代ちゃんでしょ?早く返信して上げたほうが良いんじゃないの?」


 局所的に頭の回る幽霊に心の中で舌打ちをしながら、学園に赴く際は塩を携帯しようと心に決めCODEを開いて相手を確認する。十中八九能代であろうが、もしかしたら例の件を調べていた矢矧からかも知れないとも考えられた。結局、開いて見れば大方の予想通り相手は能代だった。


『朝早くに済まない、起きてこれを見たら適当に返事でもしてくれ』


 俺にとって朝六時過ぎなんて早くも何とも無いのを知りながら常套句から始まるのは能代の性分だろうかと考えながらフリックで文字を打つ。


『起きてるぞ。何か用か?』


 送信をするとすぐに既読が付いた。時間的にアプリを開きながら家事を行っていたのだろう。だがこんな時間に連絡を寄越すとなると何かしら急用のような気がする、何事だろうか。


「噂をすればデートのお誘いじゃない?」


 まさか、と思わず鼻で笑いながら口にしてしまった。橘が俺の態度に対してキレながら文句を投げつけてくるが全て無視。そうこうしている内に、なんと能代の方から電話が掛かってきた。基本は文面で話を済ます能代が掛けてきた事に若干の驚きを感じながら俺はすぐさま通話ボタンを押す。


「お、お早う。名蔵」


 携帯を耳元にくっつけると、能代は何故か緊張したような声で挨拶をして来た。そんな間柄でも無いだろうと思いながら俺はフェンスに背中を預けながら話す。


「おう。能代が電話かけてくるなんて珍しいな、何か急用でもあったか?」


「急用…急用というわけでは無いが……。名蔵は今日何か用事はあるか?」


 どうやら差し迫った用事があると言うわけでは無いらしい。その事にホッとしながら俺は端的に現状を伝える。


「さっきまであったがもう終わっちまった。今は学園の屋上で桜夏でも眺めてる」


「が、学園に居るのか?」


 驚いた能代の声の奥から、何か小さい声が入っているような気がする。この様子だと矢矧が近くに居るのだろうか。そんな事を考えた時に、ある事を思いついた。


「何でこんな時間に…まだ校門は開いていないだろう。いや、名蔵なら侵入するのは造作も無いだろうが」


「色々用事があったんだよ。だがもう全部終わっちまった。今は開門する七時までの時間潰し中だ。退屈してたから助かった」


「そ、そう言ってもらえると助かるが…」


「退屈って何さ!私じゃ役不足ですかそうですか!呪っちゃうよ!頑張って色々やって!」


 妙に暑苦しい橘を手で払いながら邪険に扱う。そもそもお前は最初ヘソ曲げていただろうがと口を突きそうになったが睨む程度で抑える。相手するのも無視するのも、面倒この上ないのだから本当に厄介な幽霊である。


「そんなワケだから気にしなくていいぞ。それより、何か話があったんじゃないのか?」


「あ、あぁ。今日も学園の剣道場で練習をする予定だったから良かったら付き合ってもらえないかと思って電話をかけたのだが…」


「…まぁ、そんな所じゃないかとは思っていたがな」


 能代からの話は想像の範囲内の話だった。去年の夏の終わり辺りから能代は急激に強くなろうと練習量を目に見えて増やしている。剣道部の活動日を週三から週五にしていたり、部活外での自主練習なども入れていて、そこまでやる必要があるのかと俺が思ってしまうくらいだった。まだ夏休み前の能代は、土日は休息は取れていたと思うが今年の夏に入ってから能代はほぼ毎日剣を振り続けている。


「最近、ほぼ毎日剣道部の練習か俺との朝練をやってるだろ。今日ぐらいは休んだらどうだ?体壊したら元も子もないぞ」


「心配ない。自分の体の事は自分が一番分かっているさ。それにちゃんと休みは取っている」


「だが流石にオーバーワークが過ぎるん…」


 しつこく休みを勧めようとすると、能代は俺の名前を呼んで制止。そして短く自分の意見を口にした。


「今はただ、無心で剣を振るいたいんだ」


 能代の一言に、俺も鼻を鳴らして考える。何故これ程までに能代は強さを求めているのか、これは全く分からない。ただ、自分にも似たような頃があった事を鮮明に思い出していた。あの頃の俺と同じではないであろうが、能代には能代なりの考えや思いがあって剣を振っているのだろう。ならば、それを無理やりにでも止めるのは野暮というもの。俺の役目は止める事では無くて適度な速度で走らせる事だろう。


「……わかったわかった。どうせ俺が居なくても練習はするんだろ?だったらヤバそうになった時にストップをかけれるよう傍に居た方が安心できる」


 観念したような声でそう告げると、能代は少しだけ高めの声で感謝を述べた。そしてこの後に残りの家事に掛ける時間を逆算する独り言を二、三発した後にこの後の予定を伝えた。


「朝食や洗濯を済ませた後になるから八時頃に学園に到着すると思う。構わないか?」


「あぁ、構わないぞ」


「貴重な休日を潰して済まないな、それじゃ…」


「あぁ、ちょっと待ってくれ」


 能代も意気込んで家事を終わらせようと電話を切ろうとしたが、俺は先程の思いついた保険をかけようと能代を呼び止める。不思議そうな声を出す能代に対して短く要件を伝える。


「近くに矢矧はいるだろう?少し頼みたい事があるんだが」


「……声が聞こえていたか、五月蠅い妹で済まないな。今代わる」


 謝る必要もないのに能代が謝罪をしてガタリと携帯を置く音が聞こえる。奥まった小さい声で何か言い争いを二十秒ほど続けた後、妙に間延びしたやる気の無い声の主が通話に出た。


「もしもしー…?寝起きの私に何か用ですかー?」


「お前が寝てたなんて珍しいな。てっきり今日も夜通し遊んでたのかと思ってたが」


「起きて遊ぶ時代はもはや旧時代なんですよお義兄さん。今や寝ながらRPGを行う時代です。知ってます?睡眠没入型MMORPG『ルルイエ』。今爆発的な人気なんですよ?」


「…ニュースで見たことがあるかも知れない程度だ。ゲーム関連は興味なくてな」


 矢矧が規則正しい生活をするなんて明日は嵐になるかもなんて思っていたが、寝てても矢矧は通常運転だった。どんなゲームをやっているのか知らないが、前に能代から聞いた話だと廃人レベルだとかなんとか。そもそも昼夜逆転してほぼ引き籠ってる時点で廃人の様なものでは、と本人に言った事があったがその時は噛みつかれるかという勢いでブチ切れられた。どうやら矢矧にとって引き籠りは良くても廃人は嫌らしい。


「まぁお義兄さんがサブカルに疎いのはデフォですからしょうがないですよね。とにかく今は寝ながらゲームが出来るんですよ。ですのでこれから朝ご飯食べたら二度寝をキメようかと思ってたんですが」


「相変わらずぐうたらしてるな…まぁ夏休みだしそれもアリだろうけどな」


「でしょー?お義兄さんもそう思うでしょー?今横からお姉ちゃんからの鋭い視線に晒されてるんですけど助けてくれませんー?もういっその事お義兄さんの家に移住しようかとガチで考え始めてるんですけど、どうです?押しかけ義妹」


「別にウチの両親的には問題ないだろうけどな…。だがどこで寝るんだよお前、ウチに空き部屋なんて無いぞ?」


「そりゃ勿論お義兄さんの部屋で、アダァッ!」


 どうやら能代にも忍耐の限界が来たらしく、矢矧が悲鳴を上げた。何をやっているのだかと溜息を一つ吐くと、横に座っていた橘がうずうずしながら頭を揺らして俺の携帯電話を見つめていたのが目に付いた。


「ねぇねぇ、私もその会話聞く事って出来ない?スッゴイ気になるんですけど」


 俺の電話中の態度を見ていて気になったらしい橘の要望を叶えるために、俺はスピーカーホンに設定を変える。橘からすれば俺の行為は純粋な善意に見えるであろうが、内心では俺以外の人には見えないし声も聞こえない橘が、もしかしたら機械の耳なら聞き取れるかも知れないと言う実験も兼ねていた。そうこうしている内に矢矧が復帰して痛がりながら会話を再開する。


「あったたたたぁ…。全く、ウチの姉は冗談というものを理解してないしすぐに手を出すの良くないと思うのですよ、もぅ…今の完全に眠気醒めちゃいましたし。それで?何用ですか?まだ例の件は調べ終わってないですよ?」


「あぁ、そっちは適当に調べてくれ。今日は別件だ、どうせお前は暇しているだろうと見込んでの頼み事だ」


「うぉー、スゲェ、相手の声聞こえるよ咲良!凄いねこれ!」


「うーわっ、暇してるとか言われましたよ、悲しいなぁ。…まぁ実際暇なので言い返す事は無いですけど。それで?何をしろと?あんまり面倒臭い事は勘弁ですよ?」


 矢矧の声が聞こえる事に感動を覚えている橘だが、コイツの生前から機能的にはあったはずだが気のせいだっただろうか。そして、今の橘の叫び声ならマイクが拾ってもおかしくは無かったが矢矧の方は反応ナシ。どうやら機械も橘の声は拾えないらしい。音声さえ残せたらそれはそれで色々出来ると思ったのだがと少しだけ残念がりながら俺は矢矧にとある事を頼む。


「…今日の九時から十五時過ぎくらいまで、俺の家に自治会が来たら連絡を入れて欲しい」


「……はい?自治会?なんでさ」


 何も話していない能代と違い、矢矧は俺の隠している事情を少なからず知っている。その為この『なんでさ』は何をやらかしたかというのではなく俺の家に自治会が来る事自体が不思議と言う事であろう。大元は話せない内容なので、俺はかいつまんで事情を説明した。


「実は家でやらかしてとある人達に通報されかねない状況でな。俺が今学園に居る理由と関係があるのだが、なるべく大事にしたくないから何かあったらとんぼ返りする予定なんだ。その為の見張りとして適任だったのがお前というわけだ」


「あー……、まぁ確かに見張りというならば確かに適任だと自分でも思いますが…。あの辺使ってもいいんですか?」


「今日だけな。使えば窓から見張ってる必要ないだろ?」


 俺が許可を出すと、矢矧は気合が入ったような声を出した。そんなに自分が作った玩具を使えるのが嬉しいのか。だが俺もまさか、前にイタズラされた時に壊さなかった事がここに来て生きるとは思っておらず、何があるかは分からないものだと頷くしなかった。


「アレさえ使って良いなら片手間でいいですからね。余裕ですよ余裕。それで?報酬は何がもらえるんです?」


「ソルティアのモンブラン二個でどうだ?」


 乗った!と威勢よく喋る矢矧。ちなみに、このソルティアというのは伊勢原モールという所で大人気のスイーツ店の事。一個800円のモンブラン二個は痛い出費ではあるが、これで四谷さんに連絡が行く可能性が減らせると思えば安い物だ。こんなしょうも無い事であの人の手を煩わせるのは余りにも申し訳が無い。


「いやぁ、こんなチョロQな任務でモンブランとは!やはりお義兄さんは話が分かる人で助かりますよ!やっぱ切符が良い人の下に擦り寄りたくなるのが人間ですなぁ。ハッハッハ」


「楽な任務だが手は抜くなよ?」


「わかってますって、こんなしょうも無い事でアレ使って良いって言うくらい真面目にやれってんだから何か事情があるんでしょ?その辺は理解あるんで大丈夫ですよ。黒船に乗った気持ちで構えててくださいって」


「……何かお調子者の臭いがするけど、こんな子に任せて大丈夫なの?」


 頭の緩そうな発言ばかりで気になったのか橘が口を挟んでくる。だがこんな事暇人にしか頼めないような事だし、何よりこう見えて意外と頼りになるのが矢矧である。機械類の使用も許可したしミスる事は無いだろう。俺は橘に軽く頷いて問題ないと伝える。


「んじゃ任せたぞ。何も無かったらそれはそれで構わんから」


「りょーかいでっす。……ちなみに、一体何したんですか?」


 興味本位で訪ねてきた矢矧。見張りをしてもらう以上ある程度内容は話しておく必要があるかと少しだけ考えながら口にした。


「窃盗」


「あちゃー、それは厳しい。被害者は?」


「ウチの両親」


「なるほどー。両親の良心に訴えて事無きを得たい所ですなぁ」


「………おかしいな、夏真っ盛りな筈だが今はとても涼しい」


 何かしら俺に対して非難でもしてくると思ったが、矢矧の口から出たのはまさかの駄洒落。奴なりに気を使ったつもりなのだろうが、橘ですらクスリとも笑わないこの状況で一体どんな反応を返せば俺には分からず精一杯の返しを口にする。


「にゃははー、夏場だからこその寒い駄洒落ですよ。どうせお義兄さんの事ですから気を回しすぎた結果保険を掛けたつもりなんでしょうけど、そんなに気にしなくていいと思いますよ?お義兄さんが思いつきで動く人じゃないの知ってますからそこまでヤバい事にはならないでしょう。そんなあなたの緊張を駄洒落一つでほぐす出来る義妹!んー、マンダム」


「自分で出来る義妹言ってりゃ世話無いな…」


「いや、実際やらせれば何でも出来ますよ、私!やらないだけで!…まぁいいです。とりあえず私は今からセッティングとか準備始めようと思うんですけど、お姉ちゃんに話すこととかあります?なけりゃこのまま切りますよ?」


「……いや、特には無い。能代には妹を勝手にこき使って悪いなとでも言っといてくれ」


「それ、私から言ったら明らかに言わせた感パないんですけど、まぁいいでしょう。それじゃ、サラダバー!」


 最後に矢矧は前回同様に良く分からない捨て台詞を吐いて通話を切った。もしかしたらサラダバーは俺が知らないだけで挨拶として通用するのではないかと一瞬思ってしまったが、アイツの事だからゲームの用語か何かだろうと結論付ける。これからはあの言葉をさらばだに脳内変換しようと決めて俺は大きく伸びをした。これでこの後の予定と保険の両方を手に入れた。後は能代が来るまで時間を潰すだけだ。


「あと一時間半ってところか……。なにすっかな」


「そんくらいだったら持ってきた本で時間潰せるんじゃない?唐詩選なんて現代語訳とかにケチ付けてれば時間の一時間や二時間あっという間に過ぎるじゃん」


「専門家でもねぇのにケチなんて付けられるか…。まぁ普通に読んでも飽き無いだろうがな」


 この女が普段からどれだけ捻くれた本の読み方をしていたのか、その一端を垣間見たような気がしたが本の読み方たなんて人それぞれであろうと自分を納得させる。そんな風に橘の事を考えていると、ふと俺は最適な時間の潰し方を思いついた。


「お前は何かやりたい事は無いのか?」


「…ふぇ?私?」


 よほど意外だったのか反応は遅れた上に随分と気の抜けた声で橘は聞き返してきた。


「結局、お前の成仏できない理由―――――未練の内容は分からずじまいだから新たに探すしかないだろう。だが未練の内容なんて闇雲に探したって見つかるわけが無い、猫がシェイクスピア書くようなもので無謀が過ぎる。そこで俺は本人のやりたい事を指標として、それを虱潰しにするのが一番手っ取り早いと考えた」


「おー成る程。つまり私がやりたい放題やってスッキリしたら成仏できるかもしれないって事だね!咲良も賢いな~。私そんなこと考えもつかなかったよ!」


「…俺の平穏な夏休みが賭かっているからな。多少は真面目に考えざるを得ないだろう」


 寧ろ、この幽霊は何故こんなにも悠長に物事を考えているのだろうかと疑問が沸いてしまう橘の態度。仮にも自分の事なのだからもっと自分で考えてほしいものなのだが、それをコイツに言った所で変わる事は無さそうなのが若干腹立たしい。馬の耳でさえもう少しは聞いてくれると言うものだ。俺は呆れながら橘を半目で見て、俺の気持ちを察してくれたりしないかと思っていたが橘はこの後の時間で何をしようかを考える事で頭が一杯らしく視線にすら気づかずあれでも無いこれでも無いと立ち上がってくるくる回りながら独り言を呟きながら考えている。


「どうしよっかな~何しよっかな~聞かれるまでは何も考えてなかったけどいざなに言っても良いって言われると悩んじゃうね~」


「……あくまで実現可能なもので頼むぞ。無理なもの言われてもバッサリ斬り捨てるからな」


「大丈夫大丈夫、そんな変なこと言わないって~。うーん…そうだなぁ………あ!そうだ!あれやりたい!学校探検!」


「…探検?お前この学園に通ってたんじゃねぇのかよ」


 随分悩んでいたのでもっと無理難題を口にしてくるかと覚悟していたのだが、橘の要望は予想に反して随分と慎ましいものだった。しかもそんな事、生前の頃にいくらでもしただろうと思って返答すると橘は目を輝かせながら喋り倒してきた。


「だってだって、私が通ってた頃と全然違うんだもん!まず正門入って左の方にあんな建物なかったし、校舎の高さは何か一階層増えてるし、教室も滅茶苦茶変わってると思えばツッコミできなかったけどさりげなく図書室の位置変わってるし!屋上から出たら三割くらい異世界だったんですけど⁉」


「…毎年湧いて出てきてたんだから少なくとも武道館の存在くらいは知ってた筈だろ」


「中身があんなになってるなんて知らなかったって話!元々の体育館と同じ場所だけど何で三階建てになってんのさ!しかも上から観戦する為用の細い足場しかない二階じゃなくて立派な道場になってたし!魔改造されすぎだよこの学校!」


 そこまで興奮することなのだろうか、と自分は思ってしまうがそれはあくまで毎日通っているからであり、社会環境レベルで変化があったこの学園でビフォーアフターをしている橘からすれば確かに魔改造と言われても仕方が無いのかも知れない。なんにせよ、橘本人がそれで良いと言うのなら付き合ってやればいいだけだ。


「一応確認だが、八時までの時間潰しはマジで学内探索でいいんだな?」


「勿論!…あ、でも宿直さんとかに見つかったらマズいよね?そしたらここから出ない事で考えた方が良い?」


 俺の最終確認に橘は即答したが、その後宿直や警備員の存在を思い出したのか別の案にした方がと逆に聞いてきた。存外気が回る方なのはこの一週間で何となく分かっていたが、余計な心配だと立ち上がって尻や膝に付いた汚れを払う。


「生憎と、警備程度に見つかるような鍛え方はしていないつもりだ。最近はサボり気味だがそこまで落ちぶれていない筈だから安心しろ」


「……現状一番の疑問なんだけど、咲良って何者なの?実は秘密結社とかのエージェントとかそう言うのじゃないよね?」


「色々仕込まれただけの一般学生だっての。アホな妄想してると置いてくぞ」


「あー!待って待って!今頭に乗るからちょっと止まってってばー!」


 騒々しい幽霊に辟易しながら屋上から出ようとした足を止める。橘はベストポジションと言わんばかりに髪の毛を掴み、元気よく出発を宣言する。照り出してきた太陽や遠くから聞こえてくる蝉の声と相まって非常に暑苦しさを感じるが、これもまた一週間である程度慣れてしまった。そんな自分に自嘲するように鼻を鳴らして、俺は屋上のドアを静かに開ける。





 ――――――こうして、誰にも姿が見えず成仏できない幽霊との、いつもとは違う夏休みが幕を開けた。

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陽炎の少女 夢ノ仲人 @yumenonakoudo

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