マクスウェルの悪魔⑴




「現代はまさに暴君の時代です。誰もが自分本位に言葉を投げ、自分だけの論理で他人の言葉を解釈する。言語はもはや、人類の共有財産などではありません。それはただの銃火であり、鉄火なのです」


 卒業が近くなると、先生は、生徒たちに一つのビデオを見せる。入学の日に見せられた阿鼻叫喚と惨状のビデオとは真逆で、静かな空間に、落ち着いた声が淡々と流れるだけの映像だ。


「もちろんあなた方は未だ、言語の支配者にして使役者だ……いくら私がここで恐ろしいことを語って脅かそうとも、現実には独裁者など何処にもいないし、あなたがネコの動画に何をコメントしようが、家族や恋人にどんな言葉を贈ろうが、それを取り締まるものはありません。しかし、あなたがいくら言葉を投げかけたところで、相手がそれをどう解釈するかを変えることは、永遠にできないでしょう」


 壇上の男の顔は、上半分が見切れていた。映像全体の手ぶれも激しく、隠し撮りしているのだな、というのが見てとれる。あとは講演会場の薄暗さもあって、語る男の泰然とした微笑みと、白人らしき明るい肌色くらいしかわからない。


「無論、心の弱い者や、他人の影響を受けやすい者にはマインドコントロールも出来るでしょう。だが、そこまで柔じゃない者もいる。というか、そうでない人が殆どだ。なぜならこの時代では、それこそが……自死しない為の最低条件なのですから。そうするとどうなるか? 戦争です。戦争が始まります。いや、もはや始まっている!」


 男の背後の壁に、プロジェクターの映像が映し出される。カメラからは半分しか見えないが、人がビルから飛び降りる映像だということがわかる。そこに付けられる大量のハッシュタグと、拡散のコメント。他にもたくさんの言語が映った。それはどれも断定的で語気荒く、隠しきれない承認欲求が溢れ出ているものばかりだった。


「既に世界は業火に包まれ、焼け果てるのを待つばかり。しかし地上に蔓延る無数の暴君たちは、そのことに気づきもしないでしょう。王国の領土を広げることしか頭にない。どうやって他国の防壁を崩し、どうやって民に自分の思想を植え付け、どうやって愛と賛美と富を得るかばかり考えている」


 そこでカメラが下を向き、撮影者の手元を映した。折り畳みナイフが暗闇に光る。興奮しているのか、その手元は微かに震えていた。


「シェークスピアはかつてこう語りました。『悪魔でも、身勝手な目的のために聖書を引くことができる』。全くその通りです。暴君の軍団の前には、本さえその意味をなくす。本来の価値など誰も重要としない。侵略に利用できそうなところだけを都合よく切り取っていくのです。さながら歴史ある仏像を鋳溶かし、武器に作り替える野蛮人のようにね……」


 そこでカメラが動いた。撮影者が突然立ち上がったのだ。胸元あたりの位置から、映像を収め続けながら、レンズと刃は壇上の男へと向かって行く。

 聴衆の悲鳴が響き渡った。


!」


 本来、殺意が込められているはずの単語。

 でも声には憎しみも怒りも、まるでなかった——むしろ透明な歓喜が溢れていた。まるで待ち侘びたおもちゃを前にした、クリスマスの朝の子供のように。

 彼は結局、目的を果たす前に射殺された。

 乾いた銃声が鳴り、呆気なくカメラが落ちる。逃げ惑う悲鳴の渦の中で、壇上の男の靴が、画面に向かってゆっくりと歩いてくる。そしてその白い手が、カメラを拾い上げた瞬間、映像は切れた。



 



 この壇上で語っていた男のことを、コミュニティの最年長の世代は、こぞってそう呼ぶ。ありったけの畏怖と侮蔑を込めて、吐き捨てるように。そしてそれ以上語ることはなかった。元々、老いのせいで口数は多くないのだが、この男については殊更に、頑なにその皺だらけの口を冷たく閉ざすのだった。




「あなたは、悪魔……なの?」




 だから自分が今、それと全く同じ単語を口に出していることに、私は恐れと共に不思議さを覚えていた。こんなところでその名を出すのは、別におかしくはないはずなのに、何か酷くちぐはぐな感じがした。

「わたしは、何? なに、なの?」

「マリー、あなたは自分が何者なのか、わからないの?」

「なに、もの」

 目の前の少女……いや、少女の形をした「何か」に対して、一体どんな感情を抱くのが正しいのか。無慈悲に撃ち殺すべきなのか。守るべき子として慈しみを向けるべきなのか。返答を待ちながら、じっと考える。


「それは、わからない」


 マリーの表情はくしゃくしゃに歪み、ついにはぽろぽろと、いじらしく泣き出した。痛みに耐えるように頭を抑え、その場にうずくまる。

「……」

 距離を保ったまま、私はなおも、少女を観察し続けた。こんな時きっとグレースなら、身の危険やその他のリスクなど省みず、幼い無垢な存在に近寄るのだろう。それがいわゆる「無償の愛」というものであり、孤独な子供にとってそれが何より必要なものであることを、彼女は魂で理解している。

 でも、私は。アリシアは違う。

 だってこんなところで犬死になど、この私は、絶対にごめんだ。目の前の少女の命を守ることに、心身の痛みを慮ることに、せめてそれ相応の価値があると確信できるまでは、無条件に命を投げ出すなどできるわけがない。「それでも助けなさい」と、テレジアのモットーは私をじりじりと苛むが、この言葉を定めた先人とて、悪魔も助けろとまでは流石に言うまい。


「わからないなら、わかることを教えてもらう。あなたは、この施設について、何を知ってるの?」

「う……うっ……」

「マリー、」

「うぅ、いたいよ……」

「早く答えて!」


 気づいた時にはライフルを構えていた。汗が額を伝って落ちる。子供は、時に平気で嘘をつく。何が悪で、何が罪なのかも知らない存在は、それに報う罰を知ったとき、初めて人になるのかもしれない。

 マリーは銃を見て、ぴたりと動きを止めた。その眼には絶望が映っているようにも見えた。だが、あくまで「そう見える」というだけだ。実際何を考えているのかなんて、結局は本人にしかわからない。


「ここ、は。わたしの、いえ」

「そう。ここで生まれたのね?」

「うん。でも、みんな、もういない」

「あなたを作った人はだれ?」


 少女が涙に濡れた顔で、「マクスウェルさん」と、ぽつりと言ったのを聞いたとき、私の中の嫌悪感と忌避感は、これまでになく膨れ上がっていた。

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