チューリングテスト⑶





「人間を人間足らしめているものこそが言語であり、言語なくして人らしい生はあり得ない。

 たとえ完全に話したり書いたりできないとしても、思考の中で何らかの言語を使っているのなら、その時点で、人間性の一端がその手には既に握られているのだ」。


 ……かつて私の学校の先生は、口癖のようにそう言った。もしそれが正しいのだとすれば、この少女にも存在しているはずなのだ。人間性というものが。自我というものが。

 しかし、このマリーと共に歩き始めて三十分以上経った今でも、私は未だその一片にさえ、お目にかかれていなかった。研究室はどれも全壊に近い有様で、有益な情報は何も残っていない。そしてグレースの言う通り、ガラスの破片や悪臭を放つ薬液がそこかしこに見られ、小さな少女を連れて歩くのには向いていない場所だった。


「もう調べることもないし、ここを出よう。地下のメンバーと合流するから」


 すべての部屋を調べ尽くした後、小声でそう言うと、マリーはやはりこくんと頷いた。その目には全く感情がないので、私はつい言葉を重ねた。

「あ、あの。あなたはさっき、研究室に行きたいって言っていたよね。その理由は何だったの?」

「……りゆ、う」

 まるでその言葉がパスワードか何かだったかのように、尋ねた瞬間、彼女はぱちぱちと瞬きを始めた。そして、きょろきょろと辺りを見回したかと思えば、てくてくと勝手に進み始めた。


「ちょ、ちょっと待って!」


 床を埋め尽くすガラスの破片。

 得体の知れない青黒い液体の水溜まり。


 その中を無言で進む少女を、私は慌てて追いかけた。全く、本当に意味がわからない。言葉が話せるのなら、少しは説明をしてほしい。少なくとも、考えを伝える努力くらいはするべきではないか? テレジアの者なら皆そうするし、そうするように教えられる。なぜなら、言葉の機能を最大限に重んじることは、言語の最後の守り手に与えられた大事な使命の一つだからだ。


 それなのに、目の前の少女はむしろ、言葉を粗末に扱っているように思えてならなかった——せっかく「言葉」という、他者と繋がったり自らを表現したりするための素晴らしい力を持っているのに、きちんと向き合おうとしないなんて。確かに人と人とは理解し合えないのかもしれない。でも、最初から会話を放棄してしまうのは、わずかな可能性さえ不意にしてしまうという意味では、怠慢でしかない。

 しかし、そうは言っても相手はまだ子供で。しかも世界は荒廃し、明るい未来さえ思い描けない状態なのだ。それを考えると、前のコミュニティがよっぽど酷いところだったのだろう、と私は追いかけながら結論付けた。深い絶望は、人から気力を奪う。この少女もきっと、それだけの絶望を受けたのだ。なら、私たちが助けてやらねばなるまい。


「……あれを」


 やがてマリーは歩みを止め、荒らされた研究室の片隅を指差した。そこには白いキャビネットがあり、隅に寄せられていたおかげか、埃が積もっているほかは傷一つついていなかった。

「あのキャビネット?」

「あれを、みて」

「……わかった」

 少女に懇願されるまま、私はキャビネットに近寄ると、グローブを嵌めた手で、そっと下の段から引き出しを開く。中には数冊のファイルと、古い電子端末が入っていた。端末の方は電源が切れている。だが、持って帰れば貴重な資源にはなる。そしてファイルは端の方から劣化が大分進行しているが、それでも半分くらいは読めるまま保存されていた。

 私は胸の鼓動が高まるのを感じながら、ファイルにつけられた標題を読み上げた。


……」


 どういう意味、なのだろう。

 私はその言葉を知らなかった。今まで一度も聞いたことすらない。テスト、というからには、何かの実験の工程の一部なのだろう。でも何の? 

 破かないように注意しながら、紙を一枚めくると、次のページには少女のプロファイル資料のようなものが載っていた。顔写真がマリーに似ていたのでドキッとしたが、よく見れば別人だ。ブロンドヘアという点以外は、目の色も顔の輪郭も違う。他にはバーコードマークが押された腕の写真と、ランダムな文字列の記載がある。

「この、女の子を……知ってる?」

「えりざ」

「エリザ、か。それがこの子の名前なのね」

 マリーは頷く。そして恐ろしいことを言った。

 

 マリーの指差す先に、私は向かい、探し始めた。この収まらない胸の動悸と異様な発汗の原因が、果たして恐怖なのか希望なのか、わからなかった。でも、研究室の奥の方に巧みに隠されていた長方形の箱——棺というものに似ていた——の中に、冷たくなったセルロイドの人形のような彼女を見つけた時には、とうとう膝から崩れ落ちた。人間じゃない。腐敗していない。だったら……そうであるならば、マリーは一体何なのだ? 


「えりざ」


 背後から聞こえた声に、思わずびくっと肩が跳ねる。恐る恐る振り向くと、マリーが立っていた。その目にはやはり感情がない。一体それは何の呼びかけなのか。衝撃の呟きでも、悲しみの嘆きでも、それはない。単なる言葉。でもそれは、果たして言葉と言えるのか? 


「あなたは、一体何なの」


 問いかけると、マリーは無言で私の持つファイルを指差した。捲ると、次のページには彼女の写真があった。成功。合格。そんな誇らしげな赤文字が、虚しく紙の上に並んでいた。

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