チューリングテスト⑵





 来た道を辿って、廊下に戻る。


 マリーは先頭を歩くグレースと手をつなぎ、物珍しそうに周りを見ている。しきりに首を回して、きょろきょろと——まるで一度も外に出たことがないかのような彼女の様子に、私は少し困惑していた。


 どこかから逃げてここへ来た……というわけでもなさそう、ではある。


 でも、だとしたら、どうやってここで生き延びてきたのだろう……あの部屋には、何も食べ物の痕跡がなかった。それなのにマリーは健康そのものだし、空腹に苦しむような素振りもない。


「どうやら、ラボのようね」


 グレースがこちらを半分振り返って、片手の動きと唇の動きだけでそう言った。読唇術もうちの必修科目の一つだ。もっとも、私たちが教わるべきことはそう多くないが。サバイバル術、簡素な世界史、アメリカ史、初等数学、そして主キリストの教え。

「ええ。どうする?」

 廊下の付きあたりは、左と右に道が分かれている。劣化して読みにくいが、案内プレートにはハッキリと英語が掘られてある。



[左・資料室A-C][右・研究室201-212]



 グレースが手を素早く動かして言う。

「じゃあ、私はマリーと資料室へ行くわ。研究室に劇薬や実験器具があったら、子供には危険だと思うから。アリシア、あなたに研究室をお願いしても?」

「OK」

 しかし私たちが二手に分かれようとすると、マリーは突然その場にうずくまり、小さな声で呻き始めた。グレースが慌てて彼女のそばに跪く。

「大変。大丈夫? どこか痛む?」

 するとマリーは、真っ白な顔を上げて言った。

「私、こっちがいい」


 彼女が指差していたのは、右側の道。

 研究室に向かう方向だった。


「えっ……なぜ?」

 思わず聞いてしまったが、答えはない。少女は縋るような目で、ただこちらを見つめてくる。その透明な視線に、違和感よりも先に畏怖のようなものを感じたのは、単に私の精神が、この極限状況に適応しきれず破綻をきたしかけている兆候なのだろうか。だってこんな幼く無力な少女に、神か天使を見るかのような視線を投げ返すなんて。

 普通ではありえない。普通の私なら。


「——わかった」


 不自然に思われないように唾を飲み込み、私はマリーに手を差し伸べた。

「私がこの子と研究室へ行く」

「え? でも……」

「大丈夫。何かあったら、端末で知らせるから」

 マリーが私の手を取って立ち上がる間も、グレースは少し物言いたげな顔をしていた。彼女は……彼女には、昔からこういうところがある。普段は温和なのだが、「自分のほうが他者より優れている」と認識した分野においては、非常に頑なになる。今で言うと「子供の扱い」がそれで、彼女は母性が強くて子供の対応もうまく、私はどちらかというと常に内向的で、人付き合いもドライな方だった。


 確かに、より有能な者が他の者を動かした方が、集団の生存率は格段に上がる。


 それはやはり明白な事実であり、ましてこの状況では、生存は何より優先される。でも、私に言わせれば、それも程度の問題だ。いくら一要素のパラメーターが優れていても、全体的なバランスを欠いては何にもならない。とすれば、よほど適性を欠いた者でない限りは、誰が何の役割を担当してもあまり変わらないということだ。


「ねえ、信じて。大丈夫だから」


 グレースは私の親友だ。

 でも「親友」という言葉は、たぶんこの世界で、かつてほどの意味は成さなくなっている。唯一無二の家族や恋人ならともかく、親友の代わりに死ねる人間が一体いくらいるだろう? それとも、これはただ単純に、私の魂がひどく冷えているというだけなのか。


「いくら私でも、子供を囮に使ったり、置いてけぼりにして逃げたりはしないから」


 冗談めかして肩をすくめてみせながら、そんなサインを送ると、ようやくグレースの顔から翳りが少し晴れる。

「……わかった。でも本当に、危ないときはすぐ連絡してね」

「了解」

 マリーが私の手を引っ張り、ぐいぐいと先に進もうとしていた。無感情な顔とは裏腹に、アグレッシブなその力の強さに、また違和感が頭をもたげる。でも思えば子供と相対すると、いつも私は奇妙な気持ちに襲われた。子供というのは、何を考えているのかわからない。同じ人間であるはずなのに。かつては自分もそうであったはずなのに。

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