マクスウェルの悪魔⑵



 あの卒業間際に見せられる忌まわしいデータも、今回の探索のきっかけになった資料も、件のサンチェスの調査隊が見つけ出したものだ。当時のアメリカでは、食糧を巡って長く続いた小さなコミュニティ同士の争いが、ようやく沈静化しつつあった。そして勝ち残った少数の大規模のコミュニティが、言語的な正気を保った人間たちの、唯一のオアシスとなった。

 とはいえ、そこにも安寧がある保証はない。


「マクスウェルって……まさかラザフォード・マクスウェルのことを言っているの?」 


 コミュニティには、特定の名称がつけられる。

 その風習の由来は、グループ間のやりとりの際、「リーダーの名前」を言うのが一番わかりやすかったからと言われている。あるいは伝達の助けとするために本拠地に由来する名前や、皆が信条とする事柄にちなんだ言葉などでも成り立つかもしれない。ただきっと、マクスウェルという男の名前は、単なるランドマークや教義の語を遥かに凌ぐ重々しさで語られていたことだろう。


 他のコミュニティの調べで分かったことだが。


 彼は、スピーカーがまだいなかった時代、ある科学者グループに所属していた。そのグループこそがDTLを開発した研究機関であり、講演会のビデオに映っていた白人の男も、その一員だったそうだ。

 だが、他にも大勢いたとされる研究員の中で、ラザフォード・マクスウェルの名だけがこれほど憎悪と畏怖をもって語られる原因は、他にある。彼は生前、ある実験に心酔していたとされている。それは「スタンフォード監獄実験」と呼ばれるもので、そこから彼は思い付いたのだ——自分だけの理想の監獄しろの創設を。人為的なパンデミックによって、世界中をアルファベットブロックの玩具箱みたいにひっくり返した後で。


「……?」


 私の質問に、少女はよくわからないという顔をして、困ったように首を傾げるだけだった。もしこれがだったら。そんな思いが脳裏をよぎる。彼女の一挙手一投足が、私を騙すための嘘だったとしたら。


「答えなさい。ラザフォードを知ってるのか、知らないのか」

「知ら、ない。あんまり」


 苛立ちに噛み締めた唇から血の味がした。このままでは埒があかない。いっそ、無理矢理にでも吐かせるか——

 そんな野蛮な考えが脳を掠めた時だった。ポケットの端末が規則的に震え、応答を求めた。私はライフルを少女に向けたまま、片手で端末を取り出した。少女と画面の両方が視界に入るようにして、メッセージを確認する。

 内容を読むと、どうやら地下に降りたグループが、巨大な装置のようなものを発見したらしい。他のフロアの各組も、探索を終え次第合流するようにと、リーダーからの指令が下っていた。


「……仕方ないわね」


 私はライフルから折り畳み式の短剣に持ち替えて、少女に近づいた。不本意だが、この子を連れてグレースのところに行かねばならない。私一人の独断で殺してしまうことは流石に憚られた……テレジアの人々は、私の知る限り、どのコミュニティよりモットーに忠実だった。いつであろうと、どこであろうと、「助け合う」ことを何より尊び、それは特に子供たちに対して発揮された。幼子が一人熱を出せば、大人たちは自分の分の薬をすすんで差し出し、飢えた時には雑草や木の根を食べてまで、年少者の食い扶持を確保する。

 だからここでマリーを殺したりしたら、最悪、コミュニティから追放されることもありえる。そもそも、二人一組行動の規則を破っている時点で、あまり褒められた行為ではないのだ。ここは一刻も早くグレースと合流して、地下へ行くしかない。

 でも、もし、この少女が危険人物だったら? みんなに会わせて大丈夫なのか? 


「……早く行かなきゃ」


 いや、考えていても仕方がない。

 私はナイフの先をマリーの背中に当てて、「歩いて」と指示をした。彼女はすんなりと歩き出したが、背後の私はといえば、今しがた口から出た自分の声の冷たさに、今にも打ちひしがれそうだった。私は……やはりどこか、のだろうか? 人として大切な何かが、自分には生まれつき欠落しているのではないかと、そう思う瞬間が過去に幾度となくあったことを、こんな時になって思い出す。


 そうだ。私は子供の時分から、周りの子に比べて、やや冷めた目で物事を見るきらいがあった。


 母はそんな私をことさらに叱ったし、教室でも、ふとした発言で毎回周囲の不興を買った。特に母などは、絶望した顔で「そんな冷たい考えができるのは悪魔だけだわ」と言って、部屋に閉じ籠り、口を聞いてくれないこともしょっちゅうだった。でも、どれだけ非難されようと、私は怖かったのだ。だって、もし自分が助けようとした人が、こちらに悪意を持っていたら? 助けようとして伸ばした手を、突然ぐいと掴まれ、あべこべに脳病の沼に引き摺り込まれたら? そうなったら、「自分」という存在は、一体どうなってしまうのだろう——自分が自分でなくなって、何もかもがぐちゃぐちゃになって、恥と害悪を撒き散らして歩く何かに成り果てるということは、死よりも恐ろしいことに思えた。


 だからこそ、射撃や武術を学んだ。


 ただ無闇に逃げ続けていても、心の中の恐怖というのは膨らむばかりなのだと、一人本を読むうちに気づいてからは、ひたすら鍛錬を積む日々だった。それが結果的に、「集団への勇気ある貢献」と評価されて、娘の身を案じる言葉をかけてくれるものの、母も結局安堵したのだと思う。もう叱られることはなくなって、代わりに労いと感謝、そして愛の言葉が、その口から溢れ出てくるようになった。私の危機は、過ぎ去ったのだ。いや、本当はただ、過ぎ去ったはずだと思い込むことで、忘れたかっただけ。考えないようにしていただけだった。


 グレースは、資料室の中にいた。


 こちらも研究室の方と同じくらい荒れ放題で、大量のファイルと跳び出たキャビネットが散乱し、床が見えないほどだった。

 こちらから声をかける前に、彼女は私たちに気づき、駆け寄ってきた。私はそれとなくナイフを後ろ手に隠して、ハンドサインで彼女に告げた。

「地下組から連絡があった。探索を終えたらすぐ合流しろって」

「OK」

「何か収穫はあった?」

「いいえ。ここの資料はほとんどが……日記というか。学術的なレポートとはとても言えない、手記とカウンセリングの記録が混ざったようなものだったわ。科学者ではない、普通の人々のプロフィールよ。好きなものとか、怖かった思い出とか、他愛もないことが、何百人ぶんと保管されてあるだけ。まるで昔の図書館みたいにね」


 あとこれも、と彼女が手渡したのは、充電器に繋がったタブレット端末だった。


「これって……」

「そう。ここ、電気が来てるのよ」


 グレースは言いながら眉を寄せた。自然的なものを愛し、温かい慈しみの中で育った彼女には、この場所の不気味さがよほど堪えるのだろう。私以上に。

「あたりを少し調べてみたんだけど、太陽光発電システムが、元々は全館に配備されていたようなのね。でも、大部分は壊れてしまった。今動いているのも、かろうじて……って感じなんだと思うわ」

 となると、廊下の掃除が行き届いていたのも、まだ生きている発電機からの電気供給によるものだったのだろう。

「じゃあ、ここで見るべきなのは、このタブレットだけなのね」

「ええ。まだ充電し始めたばかりだから、見るにはもう少しかかりそうだけど。アリシアの方は?」

「あ、えっと……」


 どう伝えたものか迷ったその時、私たちは、私たちにしか感知できないほど微かな気配を察して、とっさにドアの向こうを見た。

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