第三章 忘れたくない②

 生き返って思い出した。そういえば、今年の夏は異常なほど暑かった。

 七月初めから三十度を超えるのは当たり前で、気温は休むことなく日に日に上昇する。

 気温もさることながら、日本の夏は湿度も高い。気温も湿度も高いとなると、教室内は無料のサウナ状態だった。

 そんなお世辞にも良いとは言えない環境で、僕らは四日間のテストのうち三日間を消化した。

 テストがあと一日残っているのは嫌だったけど、僕はそれ以上に明日がくるのを楽しみにしていた。

 明日、テスト終わりに大垣と映画に行く約束をしているのだ。

 大垣は数学のテストが残っているから憂鬱そうだったけど、映画のために頑張ると言っていた。

 その何気ないひとことが嬉しくて、僕も全力でテストを頑張ろうと、気合いを入れてワークに取りかかる。

 勉強するには自分の部屋が一番集中できた。クーラーがきいているし、周りの目を気にせず集中できる。特に無心が大切な数学を勉強するには、うってつけだった。

 家のインターフォンが鳴ったのは、ワークを一周した頃だった。まだ母さんが仕事から帰ってきてなかったから、僕は急いで玄関へと向かう。

 のぞき窓から外を確認すると、制服姿の健ちゃんが立っていた。

「あ、わたるっち」

 ドアを開けると、健ちゃんが疲れたように八重歯を見せて笑う。

「健ちゃんどうしたの」

「お願いが、あって」

 相当急いでここに来たのか、健ちゃんは肩で息をしていて、頬を流れる汗の量も尋常じゃない。

「とりあえず中入りなよ。今、麦茶用意するから」

 そう言って、僕は健ちゃんをリビングにあげた。

「わたるっちの家のリビングに入んの初めて」

 ソファに座りながら、健ちゃんが無駄にキョロキョロする。別に僕の家のリビングは特別なものはなく、ソファにテレビ、窓際に観葉植物がある、ごく普通の感じだ。

「はいこれ、麦茶」

「サンキュー!」

 健ちゃんは大事そうにコップを両手で持ち、「いっただきまーす」と、ものの数秒でそれを飲み干した。僕は空になったコップに再び麦茶を注ぎながら、健ちゃんに聞いた。

「それで、お願いってなに?」

「あ、そーだそーだ!」

 そう言って、健ちゃんがなにやら自分のリュックをガサゴソと漁る。――まだテスト期間なのに、勉強より優先するほど重要なお願いなのかと身構えた。

「コレ、明日はるちゃんに返してほしくてさ」

 と、健ちゃんが取り出したのは、大垣がいつも持ち歩いている幸楽日記だった。

「どうして健ちゃんがこれ……」

「放課後、廊下ではるちゃんにぶつかってさ。はるちゃん急いでたみたいで、そんとき落としたこのノート渡せなくて」

「それで、なんで僕が大垣に返さなきゃいけないの? 健ちゃんが渡せばいいじゃない」

 僕がそういうと、隣に座る健ちゃんが、まるで水浴びした後の犬みたいに何度も首を横に振る。

「やだよ! こんなの、なんか人のヒミツを持ち歩くみたいでさ。たった一晩でも持っとくの耐えらんねーよ」

「だからわたるっちが明日返しといて」と半ば強引にノートを押し付けられる。面倒だと思ったけど、嫌だと言ってわざわざ僕の家にまで来た健ちゃんに突き返すのは可哀想だから、ノートを受け取った。

「なあ……これちょっと読んでみねぇ?」

「はあ!?」

 健ちゃんがテーブルの上に置いた幸楽日記に手をかける。その手がページをめくるかめくらないかのところで健ちゃんの手を掴んだ。

「ちょっとストップ! 健ちゃんプライバシー!」

「とかなんとか言っちゃって~ほんとはわたるっちも気になるんだろ?」

「こ・れ・の・な・か・み」と片目をつぶる健ちゃんに、僕は首を横に振る。

「僕、一度大垣に見せてもらったことあるし!」

「ふーん、ぜんぶ?」

 そう聞かれて、思わず動きが止まる。

 ――全部じゃない。僕が大垣に見せてもらったのは、何十ページもある中のほんの一ページだけだ。

「気にならない? 好きな子が毎日なに書いてるか」

 気にならない…………わけがない。

 それまで掴んでいた健ちゃんの手を離す。大垣に悪いと思いながらも、僕は健ちゃんの誘惑にも自分の欲望にも負けてしまった。

 解放された健ちゃんの手が、大垣の幸楽日記をパラパラとめくる。ごくりと生唾を飲んで、僕らは日付の新しい方から読み進めていった。

「お、これ昨日のだ。わたるっちのこと書いてあるよ、ほら」

 言われて見ると、日記にはこのように書いてあった。


『今日のテストも航くんに教えてもらったところがばっちり出た!

 感謝しなくちゃ。

 テストが終わったらちゃんとお礼しよーっと!

 あさっての映画、楽しみだな』


 ――おおう、こそばゆい。

 まだ途中だったけど、それ以上は読み続けられなかった。

 たしかにこんな内容を書いていたら、人に見せられないのも頷ける。

 健ちゃんは、その後も意気揚々とページをめくり続けた。

「あ、はるちゃんとわたるっちの初デート日の記述発見!」

 僕はもう、そう言われても覗く気にはなれなかった。書いているのは僕じゃないのに、なんかもうすごく恥ずかしくなるから目にしたくなかった。

「忘れたくないな、だってよ。わたるっち」

「うるっさいなー! やっぱりやめようよ! こんなの」

「いやーだねー!」

 そう言って、健ちゃんがノートの最初の方までページをめくる。

 そして、その手が突然、止まった。

「――あれ?」

 健ちゃんが首を傾げながら、何かを確かめるように、ゆっくりとページを新しい方へとめくる。心なしか表情がどんどん険しくなっているような気がした。

「どうしたの?」

 僕の呼びかけに、健ちゃんの手が止まる。

「見てくれよ、これ」

 健ちゃんが示したページは、両方ともなぜか日記の文字の上から対角線が二本引かれていた。日記の内容を否定するように、ノートのページ全体に大きなバツ印が書かれているのだ。

「この次のページも、ここからここまで全部」

 健ちゃんがめくるページページ、全てにバツ印が付いている。

 それはまるで、その思い出を消したいためのように見えた。あるいは、この思い出たちはいらない、と言っているようにも見えた。

 健ちゃんと二人、一ページ一ページ丁寧に確認してみると、バツ印が付いているのは、日記の最初のページから高校の入学式までの部分だった。その次のページ――僕と大垣がドーナツを食べた日からは綺麗な日記のままで、少し安心する。

 バツ印が付いているページを開いたまま、健ちゃんが僕の顔を覗きこんでくる。

「なあ、わたるっちはこのバツの意味なんだと思う?」

「……さあ?」

 別に投げやりとかじゃない。ただ、本当にわからなかったからそう答えた。

 日記は中学三年の秋頃からはじまっていた。じゃあ、そのときの内容が大垣にバツをつけさせるほど暗いものなのかというと、そうではない。

 バツが付いている日の内容ももちろん幸せと楽しさに溢れていて、さっき考えたみたいに、このバツ印が思い出たちはいらないという意味だとは考えにくい。

 だからといって、じゃあ他にどんな理由が考えられるかと言われたらなにも思いつかない。

 それまで神妙な面持ちをしていた健ちゃんが、力が抜けたように笑う。いつものように八重歯を見せて、ソファの背もたれに身体をあずけた。

「だよなー! てか、そもそもこんなの書いてる本人にしかわかんねーよな」

「どーでもいっか!」と健ちゃんが幸楽日記を閉じる。そして、それを再びテーブルの上に置いた。

 健ちゃんは残りの麦茶を綺麗に飲み干して、「ごちそうさま」と、空になったコップを流しへ持って行った。それを見て、失礼かもしれないけど、細やかな人なんだなと少し意外に思った。

 健ちゃんが帰った後、僕は部屋に戻って再び勉強机に向かった。

 だけど、机の上に乗っているのは勉強のためのノートではなく、大垣の幸楽日記だ。

 大垣に申し訳ないと思いつつ、僕は再びノートを開く。そして、バツ印の付いた中学三年の頃の記述を読んだ。


『今日はえっちゃんとマリちゃんと、勉強の息抜きにカラオケに行った!

 友達と行くのは初めてだったけど、すっごく楽しかった。


 マリちゃんがひとりでドリンクバーに行ってジュースを入れてきてくれたんだけど、飲んだら激マズだった!

 話によると、緑茶とコーラとオレンジジュースと紅茶を混ぜたらしい。

 わたしは絶対絶対ぜーったい、コーヒーも入ってると思うんだ。だって、ブラックコーヒー特有の苦さがあったもん。

 もう! マリちゃんのうそつき!


 あと、ロシアンルーレットたこ焼きを食べた。

 わさび入りに当たったのは、わたしだった。

 もう尋常じゃないほど辛くって、泣きながらジュースをがぶ飲みしたら、激マズジュースなの忘れててさらに涙が出た。

 ほんと最悪。


 でも、みんなで同じ歌を熱唱したのは楽しかったなぁ。

 すごくストレス発散になった。

 誘ってくれたえっちゃんに感謝しなきゃ。

 また絶対行く!


 そして、また明日から勉強頑張らなくっちゃ』


 日記を読んでいて思わず笑ってしまった。

 わさび入りのたこ焼きを食べて「からーい!」と騒いでいる大垣も、そのあと慌ててジュースを口にして「まずーい!」と涙目になっている大垣も目に浮かぶ。中学時代から、今と変わらず友達が多くて明るい大垣だったんだなと思う。

 日記の文字から友達との仲の良さや、関係の良さがにじみ出ているようだった。

 ノートのページをめくる。その日の日記はとても短かった。


『今年から自主的にはじめた朝のあいさつ運動。

 すっごく寒かったけど、今日も立ってたら小柳先生に褒められて、チロルチョコもらっちゃった!

 勉強は自信がないから少しでも内申が良くなるといいな。

 明日も早起きがんばろー!』


 たしかに、大垣の学力はなかなか厳しいものがあるから、内申目的に頑張るのもわかる。

 大垣は友達だけじゃなくて、先生にも愛される人物だった。

 そのあともいくつかの内容を読んだけど、やっぱりどれも楽しそうなものばかりだった。僕が読むかぎりだと、消したいとか、いらないとかいう理由でバツが付くような内容ではない気がする。

 じゃあこの対角線は、どんな意味を持っているのだろう。

 考えてもわからなかったから。どうしても気になるなら明日、映画の時にでも聞いてみようと思った。

 そう考えた後、僕は、実はずっと気になっていたページを見た。僕と大垣が初めて映画を観た時の日記だ。もちろんバツ印は付いていない。


『今日は航くんと初めて映画に行った。

 誘われた時からすっごく楽しみで、待ち合わせは午後なのに、お昼前には準備が終わっちゃって……スニーカーに重りでも付けようかと思うくらい浮かれてた。

 結局、待ち合わせの三十分前には駅前に着いちゃって、何回も前髪直したりして航くんを待ってた。


 今日はすごく天気が良くて、太陽がキラキラ光っていて綺麗だなって思った。

 航くんを待ってる間は緊張しちゃって、早く来てほしいような、ほしくないような……そんな感じで、なんかすごく不思議な感覚だった。

 駅前は人が多かったのに、航くんを見つけたら、そこだけ光って見えて……ドキドキした。

 えへへ、恥ずかしい。


 そこから二人で映画館に向かったんだけど、その途中、すれ違った女の人に「カップル」とか「ペアルックっぽい」みたいなことを言われちゃった。

 それが嬉しくて、航くんはどう思っているのか気になって、「わたしたちカップルに見えるのかな」って聞いたら、「さあ?」ってなんでもないように流されちゃった。

 気にしてたのはわたしだけなんだなって実感したら、少しさみしかった。

 ただの友達だから、当然だけど。


 航くんはすごく優しかった。

 映画を決める時も「何が観たい?」ってわたしに決定権をくれた。だから映画はわたしが好きなアクション映画を観た。

 航くんもアクション映画が好きらしくて、大げさかもしれないけど、生まれて初めてアクション好きでよかったーって思ったかも。今までは誰も一緒に楽しんでくれなかったから。


 映画のあとは、カフェに行った。

 まだ帰りたくないなって思ってたから、すごく嬉しかったな。

 航くんと映画の話をしていたら、あっという間に外は暗くなっててびっくりした。

 時間止まれーとか思ったけど、止まるわけもなく……当たり前に太陽はいなくなっちゃった。


 いつもみたいに、忘れないうちにこの日記に今日あったことを軽くメモしていた時、航くんが変なことを聞いてきた。

 今日幸せだったか、って。

 航くんはなんでもないように聞いてきたけど、わたしはすっごく緊張した。

 緊張したけど、伝わってほしいから、正直に答えたの。

 「幸せだったよ」って。

 「ありがとう」って。


 わたし、あのときちゃんと笑えてたかな?

 顔が赤くなっていたのバレちゃってなかったかな?

 絶対、バレちゃダメだ。

 今の距離がちょうどいいもん。これ以上、なにかを望んじゃダメ。

 ほんと、肝に銘じないと。


 とにかく、本当に幸せな一日で……忘れたくないって思った。

 ほんと、忘れたくないな。


 ずっと鮮明に覚えていられますように』


 全て読み終えて、口元を手で覆った。

 いくら友達がいなかったと言っても、いくら色恋感情を排除してきたといっても、ここまでストレートな想いをくみ取れないほど、僕は鈍感じゃない。

「大垣は……僕のことが、好き?」

 ――なのかもしれない。

 そして、どうやらそのことを僕にバレないようにしているらしい。

 慌てて幸楽日記を閉じた。本当に読んではいけないものを読んでしまった気がして、申し訳ない気持ちになった。

 でも、それ以上に僕はうれしくて、思わずベッドに飛び込んだ。

 勉強とかテストとか、そんなものは忘れて完全に浮かれた。

 もしかしたら、僕と大垣は両想いなのかもしれない。同じ想いを抱えていて、大垣はそれがバレてしまわないように必死になって隠しているのかもしれない。

 それって結構苦しいよな。――そんな風に思って、僕はひとつ決心した。

 明日、大垣に告白しよう。

 大垣は日記に、今の距離がちょうどいいって書いていたけど、そんなの嘘だ。僕にはその言葉が、大垣の精一杯の強がりのように思えた。

 きっと僕も同じ気持ちだとわかったら、その考えも変わるだろう。近くにいるほうがもっとちょうどいいって思うことだろう。

 映画が終わったら、前みたいにどこかお店に入ってそこで僕の気持ちを話そう。

 そのあと僕はずっとどんなふうに想いを伝えようか考えていた。

 僕はもう、幸楽日記のバツ印のことは忘れていた。

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