第三章 忘れたくない③

 テスト最終日、最後の科目が数学だった。そのせいか、大垣は朝からずっと暗い表情で、僕はあいさつを交わすことしかできなかった。

 数学のテストが始まる。

 僕は知っている問題ばかり並んだテストを解き、どんどん解答用紙を埋めていった。見かけでは他の人と同じように問題を解いていたけど、心は完全にテストから離れていた。

 数学のテストだけじゃない。その前の二つのテストの最中も、僕はずっと集中できていなかった。

 放課後の映画が楽しみで、決心した告白が上手くできるか心配で、上の空のまま問題を解き続けた。

 今日も相変わらず蒸し暑い教室だったけど、僕は窓から吹き込む生暖かい風を楽しめるくらい浮かれていた。

 窓の外に広がる青空には、綿あめみたいな分厚い雲が張り付いている。うまそうだなと思っているうちに、テスト終了のチャイムが鳴った。


 帰りのホームルームが終わると、大垣はすぐに後ろを振り返った。

「航くん、航くん! 映画! 早く行こ」

 リュックを背負ってそう言った彼女は、まるで飼い主に向かってシッポを振る犬みたいで、思わず目をこする。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 一瞬、耳とシッポが見えたのは、当たり前だけど気のせいだった。

 映画館は、最寄りの駅の近くにあった。夏の太陽の下、ふたり徒歩で映画館を目指す。

「大垣、数学どうだった?」

「わたし比だと、いつもより問題がわかる気がしたよ」

 大垣がリュックの紐を大事そうに握りながら言う。

「お、やったじゃん」

「いや~それでも航くんに比べたらきっとカスだし、問題がわかっても解けるかっていうのはまた別問題だよ」

 ヘニャと眉を下げて、大垣が困ったように笑う。

 いつもみたいに笑ってほしくて僕は、

「大丈夫だよ。大垣は努力してたし。赤点はないと思うよ。僕が保証する」

 と、かなり真剣な表情で言った。

 数秒目が合った後、大垣が目を逸らした。

「ありがとー……」

 なんでか口を尖らせていたけど、それが照れからだとわかったのは、彼女の髪の隙間から覗く耳がほんのり赤く染まっていたからだ。

 それを見て、僕も思わず視界から大垣を外した。

 頭を掻きながら思う。今日は絶対、気温以上に暑い。

 隣を歩く大垣が「あ、そーだ」と、手で顔を扇ぎながら僕の方を見上げる。

「ちなみに大島くんは甘いもの食べられる人?」

 どこかでした会話だと思った。

「人並みには」

 短く答えると、大垣が「そっか、よかったー!」と、何事もなかったかのように前を向く。

 たしか、入学式の次の日の朝、こんな会話をしてドーナツ屋に行った。

 どうして前にも聞いたことがあることを、もう一度聞いたのだろう。

 どうして今、初めて聞いたみたいに笑うのだろう。

「それにしても暑いね~」

「そうだな」

 きっと、暑さで頭がやられているんだろう。

 何より大垣は少しだけ抜けているから。

 そんな会話はド忘れしているんだと思った。――そう思って、少し悲しかった。

 天を仰いだら、自然とため息が出た。

 教室から見た綿あめみたいな雲が、どんどん大きくなっていた。


 大好きなアクション映画だったのに、僕はまったくと言っていいほど集中できなかった。

 映画が終わったら告白しようと思っていたから、その事を考えていたら目の前のスクリーンに集中できるわけがなかった。いつもならはっきりと覚えているはずの内容も、今日は少しも覚えていない。

「新作、なかなか面白かったねー」

 目をキラキラとさせる大垣に、まさか覚えてないとは言えなくて、

「そうだなー」

 と合わせて言った。幸い、それ以上は会話が膨らまなくてホッと胸をなで下ろす。

 こんな感じで、告白できるのだろうか僕は。

 時間が過ぎれば過ぎるほど自信がなくなっていくけど、とりあえずセッティングはしっかりしようと、大垣をカフェに誘おうとした。

 だけど、それは大垣によって阻まれる。

「ねぇ、航くん、このあと時間ある?」

「あるけど」

「じゃあさ、付き合ってほしいところがあるんだ」

 そう言って大垣が迷いなく歩き出す。どこに行くのかもわからないまま、僕は大垣の小さな背中を追いかけた。

 目の前の空がオレンジ色に染まっている。綿あめみたいに真っ白だった雲は消え、その代わりに、少し汚い灰色の雲が薄く空を覆っていた。

 小さな背中が向かったのは、駅前のあのレトロなドーナツ屋さんだった。店内に入って、大垣がカラフルなドーナツを目の前に言う。

「テスト勉強、手伝ってもらったから、そのお礼がしたくって。ここ、わたしがおごるから。遠慮しないで、好きなのなんでも頼んでね」

「なんか、前とおんなじだな」

 僕の小さなつぶやきは大垣には届かなかったみたいで、彼女はじーっとガラスケースの中のドーナツたちとにらめっこしている。

 そうだ。あのとき、僕はこう言われて、真剣に何を頼もうか迷ったのに、結局ブラックコーヒーだけを頼んだんだっけ。

「ここからここまでぜーんぶ下さい! 一個ずつ」

 そうそう。

 まさに、今と同じように大垣がガラスケースの端から端まで移動してこう言って――


 ――……って、え?


 大垣のその言葉に、目の前の店員さんが目をパチパチとさせる。僕も店員さんとは別の意味で目を瞬かせた。

 店員さんは、一度こそ「本当に全部ですか?」と確認したけど、大垣の態度は変わらない。親切な店員さんは、大量のドーナツを二つのトレーに分けて手渡してくれた。

「航くんはどうする?」

 二つのトレーを抱えた大垣が笑う。

「ブラックコーヒー……アイスで、お願いします」

 僕は、自然と前と同じものを頼んだ。

 なにかの冗談かと思った。そう、思いたかった。

 この日も、駅前のドーナツ屋はそれなりに繁盛していた。テーブル席はほとんど埋まっていて、お持ち帰りのためにレジに並んでいる人もたくさんいた。

 唯一空いていた、窓際にある四人がけのテーブルについて、大垣が「いただきまーす」と元気よく両手を合わせる。そのなんでもない様子に違和感を覚えながら、僕はブラックコーヒーを口にした。

「本当にそれだけでいいの?」

 ブラックコーヒーだけの僕に、大垣が言う。会話の一言一句でさえあのときと同じだったから、とりあえず僕は大垣の冗談に乗っかることにした。

「そのうち嫌でも食べることになりそうだから」

 ――あの日と同じように返して、さっさと大垣が笑ってくれることを願った。

『あはは、あの日とおんなじだね』

 って、そんなんでいいから笑ってくれて、

『航くんはやっぱり優しいよね』とか、

『わたしの冗談に付き合ってくれてありがとう』とか、そう言ってくれたらよかったのに。

 ドーナツの山にかぶりつく大垣は、あの日と同じように意味がわからない、という感じで首を傾げるだけだった。

 いつまでも大垣がネタばらしをしようとしないから、彼女から映画の話でも聞こうと思った時だった。

 目の前でアップルパイの食べカスをつけた口が、モゴモゴと動きだす。

「夢だったんだよね。お店で『ここからここまでぜーんぶ下さい』っていうの」

 飲もうとして持ったコーヒーのグラスをトレーの上に置く。

 意味がわからなかった。

 いや、言っていることはわかるけど、大垣がどうして初めてみたいな口調で言うのかがわからなかった。

 目の前の彼女は、まだ笑ったままだ。

「ずっとやってみたくてさ。でも一人じゃ恥ずかしいから、航くんがいてくれてよかった」

 ありがとね、と大垣が笑う。

 屈託のない笑顔が、なんでもない口調が、いよいよ冗談とかドッキリにしては笑えないくらいになってきたから、たまらず僕は大垣に言う。

「もういいよ」

「え?」

 何を言ってるのと言いたげな大垣に、僕はもう我慢できなかった。

「さすがにもういいよ、ほんと。大垣も十分楽しんだでしょ。ふつうに会話しようよ」

「ふつうにって、今だってふつうに会話してるじゃない」

 大垣が「航くん変なの」と言いながら、ひとくち大になったアップルパイを口の中に放り入れる。笑っている彼女が、僕はすごく怖かった。

「変なのは、大垣の方だろ」

 僕がそう言うと、大垣は悲しそうな顔をした。

「どうしたの、航くん。なんか怖いよ」

「怖いのも大垣だよ! 僕たち前に、ここに来たじゃないか」

「え?」

「ここに来て、同じように大垣がドーナツ全種類頼んだんじゃないか。僕は絶対に大垣が残すと思ったからコーヒーだけを頼んで……あの日も同じように『ずっとやってみたかった』って、『ありがとう』って僕に言っただろ?」

 大垣の顔を見るのが怖くて、テーブルの上のコーヒーに目を落とした。グラスの中の氷がカランと寂しく音をたてる。

 大垣が何も言わないから、僕は続けて言った。

「……もうやめようよ。冗談ならもういいから、僕も楽しんだから。だからもう、そんなの知らないみたいな感じで言わないでよ」

 ――苦しいから。

 今なら許せるから……冗談ならさっさとそう言ってほしい。

 でも、彼女の口から出てきた言葉は、僕が求めていたものじゃなかった。

「えっと、ごめん……それって、いつの話かな」

「入学式の次の日。大垣が入学式の日につられ笑いさせちゃったから、そのお詫びにって」

 そこまで言っても、大垣はわからないみたいだった。それどころかまるで他人の話を聞かされているかのような顔をしていて、たまらず僕は、リュックの中から昨日健ちゃんに預けられた幸楽日記を取り出した。

「どうして航くんがそれ――」

「昨日、大垣が健ちゃんとぶつかった時に落としたんだって。僕から返してって健ちゃんに頼まれた。ほら、ここ」

 入学式の次の日のページを開いて、大垣に見せた。


『今日は、大島くんと駅前のドーナツ屋さんに行った!

 昨日、入学式でわたしが大笑いしちゃって、大島くんを巻きこんじゃったからそのお詫び。


 そこでわたしは、念願の『ここからここまでください』ができた。幸せだった。

 わたしのおごりなのに、大島くんはブラックコーヒーだけを頼んだ。

 でもそれは、わたしが大量のドーナツを残すだろうって見越してのことだった。


 大島くんは、本当に優しい人。

 今朝も重そうな荷物を抱えているおばあちゃんに手を貸していて、ほんといい人だなーって思う。


 実際、わたしは大量のドーナツを半分食べたところでギブしちゃって、大島くんに手伝ってもらっちゃった。

 嫌な顔一つせずに手伝ってくれて、嬉しかった。


 もっともっと、仲良くなりたいな』


「ほんとだ」

 ノートを見つめながら、大垣が何度も瞬きをする。そしてそのまま、

「そっか……今日はこれだったんだ」

 と、悟ったように小さく呟いた。

 なにかがわかったような彼女だけど、僕には何もわからない。開いたままのノートをテーブルに置いて、大垣が真剣な顔を僕に向けた。

「航くんごめんなさい。わたしは、この日のことを覚えていません」

「……は?」

 大垣の言葉の意味がわからなくて、眉をひそめる。

「覚えてないって、どういうこと?」

 僕が聞いた後、大垣はしばらく口をつぐんでいた。

 意味がわからなかった。

 だって、たしかに幸楽日記にはこの日のことが記されているのに、覚えていないわけがない。

 大垣が紙ナプキンで手を綺麗に拭く。彼女が頼んだ大量のドーナツは、半分以上残っていた。

 僕のアイスコーヒーは、氷がほとんどけてしまっていて、きっともうすごく薄い。

 大垣が顔を上げる。彼女の薄い唇がゆっくりと動いた。

「信じてもらえないかもしれないけど……わたし、楽しい記憶とか幸せな記憶が毎日一つずつ消えちゃうの」

 さっき以上に意味がわからなかった。

「――冗談?」

 そうじゃないとわかっているけど、お決まりのように聞く。当然、大垣は首を横に振った。

「冗談じゃないよ。毎日起きたら記憶が消えてて、それで今日消えてたのが、その日の記憶みたい。人の名前とか、そういうのは大丈夫なんだけど、自分が楽しいと思ったこととか、幸せだなって感じたこととか、そういうポジティブな記憶は根こそぎ消えちゃうんだ」

 淡々と、でも不本意そうに大垣が話す。その様子がすごく痛々しかった。

「初めてこのことに気づいたのは、小学生の時」

 そう言って、大垣がゆっくりと回顧した。

 小学一年生の頃、彼女は母親に連れられて、おばあちゃんの家に遊びに行ったそうだ。その日、大垣はおばあちゃんに水族館とか色々な場所に連れて行ってもらって、本当に楽しい一日を過ごしたらしい。

「しばらくして、お母さんがおばあちゃんちに行った話をしていたことがあって、それでわたしが言ったの」

『お母さんだけおばあちゃんちに行ったのずるい!』

「あの時のお母さんの驚いた顔、今でも覚えてるんだ。最初はお母さんも冗談だと思ってたらしいんだけど、あまりにもわたしがしつこいから『あのとき、おばあちゃんにお小遣いもらったでしょう?』って言われて……部屋の机を確認したら本当にポチ袋があるの。中身もちゃんと入ってて、でももらった覚えはなくて」

 それが自分の記憶が消えると気づいた瞬間だったという。

「病院に行って、頭もちゃんと検査してもらったの。でも異常はなくて……原因もわからないまま、毎日泡みたいに消えていく記憶に怯えてた」

 でもね、と目の前の大垣が笑う。

「そんな時に、お母さんが幸楽日記の案をくれたの。その日あったことを日記に記したらいいんじゃないかって。そして、次の日の朝に日記を全部確認して、なにを覚えていないか確認すればいいんじゃないかって……そして、覚えていないものに、バツ印を付けるようにしたの。そうすれば、覚えている記憶と忘れてしまった記憶を区別できるから」

 あのバツ印はそういう意味だったのか。

 消したいわけでも、いらないわけでもない。それは、消したくないのに消えてしまったことを示す、なんとも悲しい印だった。

 ちら、と大垣を見て、思わず目を見開く。彼女の茶色の瞳がキラキラと光っていて、次の瞬間、涙が零れ落ちた。

「でも……やっぱりダメだったね。わたしはその日記がないと、なにがあったのかも、なにを忘れてしまったのかもわからない。知らぬ間に忘れて、知らぬ間に誰かを傷つけていることにも気づかない……ごめんね、航くん」

 そう言われても、僕は何も言葉が出なかった。

 大垣が手の甲で涙を拭いて笑う。疲れたようなその笑顔に、胸がキリキリと痛んだ。

「やっぱりわたしは、幸せとか楽しさとか、そういうのを求めちゃいけなかったんだ。こうなっちゃうなら……やっぱり一人でおとなしく毎日を過ごすようにしてればよかった」

 大垣が席を立つ。そのあとすぐにカランというドアベルの音が聞こえたから、彼女は店を出て行ったんだと思う。

 僕は彼女を追いかけることができなかった。追いかけたところで、なんと声をかけたらいいのかわからなかったからだ。頭の整理ができていない今は、気の利いた言葉を並べる余裕もない。

 ふと、窓の外を見る。外を歩く人たちが、色とりどりの傘をさしていて、まるで花が咲いているみたいだった。薄く広がった灰色の雲から雨が落ちていることに、そのとき初めて気がついた。

 大垣は傘を持っているだろうか。――そう思っても、重い腰は上がらない。

 窓際の席には僕と、大垣が注文した大量のドーナツが残された。残されたドーナツも、僕の気持ちも、どうしたらいいのかわからない。

 ドーナツの山を見つめながら、喉をさする。大垣の涙を思い出すと、喉のあたりが締め付けられて、僕も泣きたくなった。そのまま机に突っ伏すと、店内の音がよく聞こえてくる。こういうときに限って、店内に流れるクラシックは、腹が立つほど明るい曲調だったりするんだよな。

 告白なんて、もうできるわけがなかった。

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