第三章 忘れたくない①

 あったのかもわからない梅雨が終わった。

 クーラーのない教室は地獄そのもので、この時期は皆、下敷きやらミニ扇風機やらで暑さをしのいでいた。

 でも、暑いものは暑い。

 下敷きもミニ扇風機もしょせんは気休めでしかなくて、ぎゅうぎゅう詰めの教室はイライラの空気をまとっていた。

 そしてその苛立ちを加速させるように、担任のマチコ先生が帰りのホームルームのときに言った。

「わかってると思うけど、もうすぐ期末テストだからね。夏休み前だからって気ぃ抜くんじゃないわよ!」

 教室のあちこちから「うぇー」とか「夏休み前にテストとかまじクソい~」とかそんな言葉が聞こえてくる。

 僕は下敷きで顔を扇ぎながら、ボーっと開け放たれた窓の外を見つめた。

 暑さのせいで中庭に植えられている大きな木がモヤモヤと揺れて見える。クラスメイトがいつまでもテストに対する文句を言っている中で、僕はひとり余裕だった。亡くなる前に、中間テストもギリギリ受けていたからだ。

 テスト範囲の部分を教科書で確認したら、大体どこが出たか思い出せる。今回も生き返りの恩恵を存分に受けようと思う。

 帰りのホームルームが終わり、さっさとクーラーのある自分の家へ帰ろうとした時だった。

 教室の扉のところで、健ちゃんが両手を広げてとおせんぼしてきた。

「わたるっち、折り入って頼みがある!」

「……なに?」

 健ちゃんが言わんとしていることは大体わかっていたけど、あえて聞いた。

 教室と廊下の境目のところで、健ちゃんが小さな身体を更に小さく曲げた。

「オレに勉強を教えてくれ!」

 ――ほら、予想通りの内容だった。


 僕の通っている高校は、わりと古い。だけど、近年は耐震やら何やらで、改修工事が進んでいて、学校の半分は真新しいものになっていた。図書室はその改修が終わった方にあたる。

 最初は僕の家で勉強をしようと思ったけど、事情が変わった。

「ごめん、航くん。もう一回ここ聞いてもいいかな」

「ああ、もちろん」

 ――まさか大垣にも教えることになるとは思わず、すぐにクーラーが設置してある図書室へと場所を変更した。

「オレに勉強を教えてくれ!」

 そう言って健ちゃんが頭を下げた時、気づいたらちゃっかり大垣も隣にいた。

 大垣が、健ちゃんと同じように頭を下げる。小さな二人が頭を下げると、なんか子供みたいに見えた。

「航くん一生のお願い! わたしにも勉強教えてくださいっ」

 ――一生のお願いって、絶対使うの初めてじゃないだろ、と心の中で言った。

 別に勉強を教えることはいいんだけど、問題は勉強場所だった。

 まさか大垣を家に呼ぶことはできないから、どうしようかと悩んでいたら、健ちゃんが「図書室に行こうぜ」と言ってくれた。――ナイス、健ちゃん。

 というわけで、今、僕ら三人は図書室にいる。

 テスト前だけど図書室には思ったより人はいなくて、僕らは窓際の離れ小島のようなテーブルを選んだ。教えられる側の健ちゃんと大垣は隣同士になって、教える側の僕は、二人の前に座る。勉強方法としては、まず僕が山はりと称して二人にテストに出るところを教え、その後でわからないところをさらに補てんする形だ。

 自分で自分のことを『中の中』と言っていた健ちゃんは、意外にも理解が早かった。僕が教えた限りだと、余裕で七割は超えそうだ。

 問題は、僕の目の前にいる大垣だ。

 自分で数学がカスだと評価していた彼女は、本当に数学が壊滅的だった。

 基礎を教えて、いざ練習問題に取り掛る。大垣は最初こそいいペースで解いていくけど、応用問題になると途端にペンが走らなくなる。その応用問題がテストにとってかなり重要で、数学の先生はこの応用をアレンジしたものをテストに出すのがパターンだった。

 ――これが解けないとなると話にならない。

 頭を抱える大垣の前で僕も頭を抱えそうになる。もとはと言えば、僕も中の中人間なわけで……解き方がわかっていても、誰かにわかりやすく教えられるかはまた別問題だった。

「あ、はるちゃん。ソコね、前のページの公式使うんだよ。ついでに言うと、もっと簡単に解ける方法があって――」

 健ちゃんが、僕が教えられない部分をサラリと大垣に教えていく。その様子がすごくスマートで、僕なんかいらないんじゃないかと思ってしまった。

「ほんとだ! こっちの方が簡単! 健ちゃんありがとう」

 大垣のその笑顔は、僕の知りうる限り今日いちばんのものだった。僕はそれがなんか嫌で、なんかその場にいたくなくて、思わず立ち上がる。

「どうした? わたるっち」

「……自販。飲み物買ってくる」

 そう言って、逃げるように図書室を後にした。


 ガコン、と自販機から何かが落ちてきた。目の前にあったボタンを押しただけだから、僕は自分がなにを選んだのかわからなかった。僕はそれをしばらく取り出さず、自販機に頭をくっつけた。

 軽い自己嫌悪だ。――自分がこんなにも小さい人間だとは思わなかった。

 健ちゃんに笑いかける大垣を見て、僕はたしかに『ここにいたくない』と思ったんだ。

 正直、僕は生き返る前までこんな気持ちとは無縁だった。

 恋愛感情とか面倒だし、誰かに好意を抱いたところで僕にはどうすることもできない。話しかけることもできなければ、進展なんて望めるわけもなかったから、そういう気持ちを感じそうになっても自らシャットアウトしていた。

 だけど今、僕は自分でわかるほど嫉妬している。

 ゴン、ゴン、と何度も自販機に頭をぶつけた。

 大垣を幸せにしたい――まさかこの気持ちが別の意味を持ってしまうとは思わなかった。

「あの~飲み物買いたいんですけど」

「あ、すいません」

 そう言って、そそくさと飲み物を取ってその場を立ち去る。

 僕の手に握られているのは真っ赤な缶ジュースだった。どうやら僕は、コーラを選んだみたいだ。

 図書室は飲食禁止だったから、僕はそのまま風通しの良い渡り廊下へ向かった。自分を落ち着かせるためにも、ここで少し休んでいこうと思った。

 目の前のグラウンドでは、暑い中野球部が夏の太陽と同じ色をしたボールを追いかけている。運動部の掛け声をBGMに、僕はコーラを口にした。

 開けたてのコーラは炭酸が強くて、喉がビリビリとしびれた。

 さっさと戻らなきゃと思うけど、なかなか気が進まない。それどころか、炭酸の強さを理由に少しでもゆっくり飲もうとしている自分がいた。

 そんな自分が嫌で、健ちゃんに嫉妬した自分も嫌で、僕は残りのコーラを一気に飲もうとした。

 そして、むせた。

「ゴボッ! ゲホッゲホ……うぇっ」

 ――それもけっこう盛大に。

 鼻も喉も痛いし最悪だ。でも、一番痛い部分がどこにあるのかわからなかった。

「航くん大丈夫!?」

 声の方を見ると、図書室にいるはずの大垣がいた。むせている僕を見て、血相を変えて走ってくる。そしてそのまま彼女が僕の背中をさすった。

「大垣、僕汗かいてるから」

「大丈夫。わたしそういうの気にしないから」

 ――僕が気にするんだけど。

 そう言いたかったけど、喉が痛むからやめた。

「ごめん。勉強会、急に抜けて」

「いやいや、全然問題ないよ! むしろごめん……わたし要領悪いから、教えるの疲れちゃったよね」

 背中をさする大垣の手が、少しゆっくりになったような気がした。呼吸がだいぶ落ち着き、僕は「もう大丈夫だよ」と大垣に伝えた。

「疲れは全然ないんだけど……ただ、僕、教えるのあまり得意じゃないなって、今日気づいた。わかりづらくてごめん」

「そんなことないよ! 航くんが教えてくれたから理解できたことたくさんあったし、範囲絞ってくれたからすごく効率的に勉強できてるよ」

 ありがとー、と間延びした声で大垣が言う。

 大垣は、僕の隣に立って同じようにグラウンドを見つめていた。

「ねぇ、航くん。ひとつ、お願い聞いてくれるかな」

「なに?」

 僕がそう答えてから、大垣が次の言葉を言うまで少し時間がかかった。

「テストが終わったら、また一緒に映画行きたいなって」

「いいけど」

「ほんと!? やったー」

 視線がぶつかる。大垣の目が、嬉しさからか随分細くなっていた。大垣がこんなに嬉しそうに誘ってくるなんて、と少し期待しそうになったけど、

「もうすぐ新作のアクション映画が公開されるからさ」

 そういうことか、と思考のブレーキがかかった。

「勉強、もっと頑張るね。映画楽しめるように」

 なんかこそばゆくて、僕はなにも答えられなかった。

 そのあと、なにを話すわけでもなく二人でボーっとしていた。そのうち雨粒の線がひとつふたつ見えたと思ったら、バケツをひっくり返したような大雨になった。ザーっとけたたましい音をたてて、土砂降りの雨が目の前の景色を汚していく。外で部活動をしていた生徒が、急いで校舎内へと走って行く。

 空は少し曇っている程度で、太陽もまだ出ているのに、こんなに雨が降るのは不思議だった。

「虹が出るかも!」

 ワクワクを帯びた声のあとで、大垣が嬉しそうにキョロキョロしだす。

「虹は太陽の真向かいに出るからー」と、目の前の太陽を指さした大垣が、パッと後ろを向いた。

「ほら見て、航くん。虹!」

 振り向いたそこに、綺麗な七色のアーチが広がっている。ちょうどその真下に大垣の笑顔があって、すごく眩しかった。

 虹とか雨とか太陽とか、そういうきれいなものに囲まれている彼女が光って見えた。その光景が大垣にピッタリだった。

「きれいだな」

 僕のそれは、なにに向けた言葉だったんだろう。

「そうだね~」

 大垣は虹を見て答えた。

 それから雨が止むまでの少しの時間、僕らは虹を見ていた。

 図書室に戻ると、健ちゃんが「おせーよぉ」とあくびをしながら言う。それからまた勉強をして、そのうち大垣は、いつものノートを取り出した。――幸楽日記だ。

「はるちゃん、なにそれ」

「これはねー幸楽日記っていうんだよ」

「コウラク日記?」

 健ちゃんが帰り支度をしながら頭に?を浮かべる。

「その日にあった幸せなこととか楽しいこととか書きとめておくの」

「へー……ちょっと見せてよ!」

「だめー! 中身はヒミツです」

 そう言って大垣は、健ちゃんに見えないように日記にペンを走らせた。

 僕には見せてくれたよ、と少しだけ優越感に浸ったのは、誰にも言えない秘密だ。


 テスト前日の夜、僕は自分の部屋で明日の科目の最終確認をしていた。

 ひと休みしようと椅子に座りながら伸びをする。その後でワークをもう一周しようとしたときだった。

「意外と熱心なんですね」

「うっわぁ――――っ!」

 センドさんが今日はワークから登場した。センドさんはルーティンワークである肩の関節鳴らしをし、いつもと同じようにフローリングの床に座る。僕はついさっきセンドさんが飛び出してきたワークを続けながら言った。

「もういい加減にしてくださいよ! 普通に出て来らんないんですか? このままじゃ僕の心臓もたないんですけど」

 僕がそう言うと、背後から「ハッハッハ」と、のんきな笑い声が聞こえた。

「一応ウケ狙いで毎回どのように登場しようか考えているんですけどね。貴方には不評でしたか」

「不評というか、心臓に悪いんですよ、本当に。センドさんにはわからないでしょうけど。死にかける感覚とか」

 びっくりして心臓が止まりそうになる感覚とか、驚いたときの動悸の速まりとか、天の使いのセンドさんにはわからないだろうなと思う。

 そんな何気ないひとことだったのに、僕の背後から反応はない。

 不思議に思って振り向くと、センドさんが静かに微笑んでいた。――でも、その目は悲しみを帯びているように見えた。

「わかりますよ、その感覚」

「え?」

「わたくし自身も一度死んでいますから。死にかける感覚もよく知っています」

 センドさんの突然の告白に、頭がついていかなかった。

 僕の想像では、あっちの世界の住人はなんとなく最初からあっちにいるものだと思っていたから、センドさんの言葉は予想外だった。

「わたくしも元々は貴方と同じくこの世で生活する人間でした。でも生まれつき身体が弱く、十五の時に病気で亡くなりました。そして、あの世に行ったのです」

 淡々と、だけど物悲しそうにセンドさんが続ける。言葉と言葉の間で、部屋にあるエアコンのゴーという音がはっきりと聞こえた。

「天の使いは、神様が亡くなった人の中から気まぐれで選ぶんですよ。わたくしはその気まぐれに当たり、もう四十年以上、天の使いとして生活しています。わたくしは特別でも何でもなく、元々は皆さまと同じなんです。ですから自分が死ぬ瞬間も、苦しんで死にかける感覚も、ちゃんと鮮明に覚えていますよ」

 ずっと下を向いていたセンドさんと、やっと目が合う。そして、センドさんが目尻にしわを寄せて言った。

「でも、すみません。そう考えると、わたくしの毎回の登場はそれだけ貴方にとって負担だったということですよね。死にかける感覚を何度も味わうのは……わたくしも嫌です」

 苦しそうに笑うセンドさんは、まるで自分の死んだ瞬間を回顧しているようだった。

「すみません。今までのような登場は、金輪際やめますね」

「……やめなくていいです」

「はい?」

 センドさんが目を瞬かせる。

 自分でも驚いたけど、自然とそんな言葉が出ていた。

「別に、やめなくていいです。なんだかんだ言って毎回の驚きはクセになっているし、これからはどこからセンドさんが登場するか予想しながら待てば楽しいかなって思うから……だから、やめなくていいです。今のままでいいです」

 僕の変な言い訳に、センドさんが「フッ」と笑う。

「貴方…………ドMだったんですね」

「ちっげーよ! そして勝手にドン引かないでください!」

 大声を出す僕に、「冗談ですよ」とセンドさん言ったけど、全然冗談には聞こえなかった。

「それでは今日はこれで失礼します。テスト頑張ってくださいね」

 そう言ってセンドさんが消えたあと、僕はもう勉強に手がつかなくなってしまった。いつものようにベッドに寝転んで、センドさんのことを考える。

 天の使いも、元は普通の人間だった。

 センドさんは病気で亡くなったって言ってたけど、いったい何の病気だったんだろう。

 十五の時に亡くなったということは、恐らく高校生まで生きられなかったんだと思う。

 そんなに若い時から、あの何もない真っ白な空間で死者を迎え続けているなんて……なんだか胸が痛くなった。

 ――寂しくは、ないのだろうか。

 そう考えても、センドさんのことはよくわからなかった。僕ひとりで考えても、わかるわけがなかった。

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