第一章 二度目の高校生活②

 放課後、僕は〈大垣はる〉という人物のアホさを再確認していた。

 学校にいる間、僕は放課後のことを考えてそわそわしていたけど、そんな緊張はすぐにどこかへ飛んで行ってしまった。それくらい大垣の行動がぶっ飛んでいたわけだ。

 大垣に連れられてきたのは、駅前にあるごく普通のドーナツ屋だった。

 レンガ造りのちょっとレトロな外観で、入り口のドアを開けると、カランと昔ながらのドアベルが鳴る。

 そんなごく普通のドーナツ屋で、普通に二人でドーナツを注文して、普通に二人で談笑しながらそれを食べる――……そんなの展開にはならなかった。

「わたしのおごりだから。遠慮しないで、好きなのなんでも頼んでね」

 大垣の言葉に、なにを頼もうか真剣に悩んでいた時だった。隣にいた大垣が、ドーナツが並べられたガラスケースの前を隅から隅まで移動して言った。

「ここからここまでぜーんぶ下さい! 一個ずつ」

 人差し指を立てて笑顔を見せる大垣を目の前に、店員さんの顔が思いっきり引きつる。

 当然だと思う。ガラスケースの隅から隅まで、その数、約三十個。

 店員さんは一度こそ「本当に全部ですか?」と確認したけど、大垣の態度は変わらない。親切な店員さんは、大量のドーナツを二つのトレーに分けて手渡してくれた。

 僕は結局、おかわり自由のホットのブラックコーヒーだけを注文した。

「本当にそれだけでいいの?」

 店内の四人がけのテーブルについて、大垣が僕に言う。

 逆に僕は大垣に問いたい。――『本当にそんなに食べられるの?』って。

 でも、嬉しそうに大盛りドーナツにかぶりつく彼女にそんなことは言えないから、僕は普通に答えることにした。

「そのうち嫌でも食べることになりそうだから」

 そんな風にあきれて言った言葉の真意は伝わらず、ぶっ飛んでいる大垣は首を傾げるだけだった。

 駅前のドーナツ屋はそれなりに繁盛していた。テーブル席はどこも埋まっているし、ドーナツを食べる人だけじゃなく、勉強をしている学生なんかもいる。

 雰囲気がいいというのもあるんだろうな。

 外観と同じように、レトロな内装は照明が少し暗めで雰囲気がある。店内に流れる音楽も誰もが聴いたことのあるクラシックで、耳に心地いい。

 この感じなら、たしかに勉強もはかどりそうだ。

 そんな落ち着いた雰囲気を壊すような大垣の山盛りドーナツのせいで、たまにすごく視線を感じるけど、当の本人はお構いなしにアップルパイをほおばっている。

「夢だったんだよね」

 と、アップルパイの食べカスをつけた口が言う。

「なにが?」

「お店で『ここからここまでぜーんぶ下さい』って言うの。ずっとやってみたくてさ。でも一人じゃ恥ずかしいから、大島くんがいてくれてよかった」

 ありがとね、と大垣に言われて、少し照れくさい。家族以外の人にこんな風に感謝されることは今までなかった。そしてなにより、クラスのマスコットキャラの百点スマイルは僕にはまぶしすぎた。

 フードファイター大垣は、最初こそなかなか良いペースで食べていたけど、そのうちドーナツへ伸ばした手がピタリと止まる。いちおうトレーひとつ分は食べた頃だった。

 大垣が様子を窺うように、僕に向かってゆっくりと右手を挙げた。

「大島くん…………至急、応援願いたい」

「ラジャー」

 ――僕はブラックコーヒーだけにして正解だったみたいだ。

 大垣が食べきれなかったドーナツを食べていたら、妙に前から視線を感じた。ちらっと見ると、目の前の大垣がなにやらニコニコとこちらを見つめている。

「なに?」

「んー、大島くんって優しいよなーと思って」

 大垣が口直しの紅茶を飲みながら言う。その口調がまるで前から知っているような感じだったから、僕はとても不思議だった。

「こうして食べるの手伝ってくれてるし、わたし今朝、見ちゃったんだよね」

「なにを?」

「大島くんが重そうな荷物抱えてるおばあちゃんを助けてるとこ。優しいなー、素敵だなーって。わたしはなにもしてないのに、勝手に嬉しい気持ちになっちゃった」

 「なかなかできることじゃないよ」と、大垣が比較的小さなドーナツに手を伸ばす。あくまで応援を願っただけの彼女だから、ギリギリまでドーナツと格闘するらしい。

 大垣の言葉に、僕は一瞬照れくさく感じたけど、今朝の自分の行動が純粋な優しさから来たものではなかったから少し複雑だった。

 そのあと、僕たちは他愛もない会話をしながらドーナツを消化した。

 大垣を手伝うことを見越してブラックコーヒーを頼んだのは間違いじゃなかったけど、その代わりに普段はあまり行かないトイレに行く羽目になった。三度目のトイレを終えて席に戻ると、大垣が空になったトレーをテーブルの端に避けて一冊のノートを広げていた。

 勉強でもしているのかと思ったけど、そうではないらしい。大垣はただ夢中になってノートに文字を並べていた。

「なにそれ」

 僕が声をかけて、ようやく大垣が気づいた。大垣はノートを隠すわけでもなく、笑いながら僕に話してくれた。

「えへへ、幸楽日記こうらくにっきっていうの」

「幸楽日記?」

「そう。幸せに楽しいって書いて、幸楽日記」

 大垣が「ここだけ、特別にね」と、さっきまで書いていたと思われるページを僕に見せてくれた。そこには、今日の日付と〈念願の『ここからここまで下さい』ができた。幸せだった〉とそんな内容が記されていた。

「わたし、その日にあった幸せなこととか、楽しかったことをこの日記に書くようにしてるんだ。こうやって文字にして残しておいたら、読み返したときにその日の気持ちとか、雰囲気とかはっきりと思い出せそうでしょ?」

 得意げに言う大垣に、失礼ながら僕は首を傾げる。

「言うなれば、思い出の真空パックだよ。その日の出来事を、できるだけ新鮮な形で残しておきたいんだ」

「記憶は生ものだからね。すぐに保存しないと」と大垣は変な言い方をした。

 そんな彼女を見て、純粋にすごいな、と思う。僕は生まれてこの方、日記は夏休みの宿題でしか書いたことがない。というか、僕みたいに代わり映えのない毎日を過ごすやつが、わざわざ自主的にそれを文字にして残そうと思う方がおかしいと思う。

 そんな僕とは違って、彼女はたいそう代わり映えがする毎日を送っているのだろう。そう考えると、つくづく大垣と僕は住む世界が違う。

 その瞬間、目の前にいるはずの大垣が、ものすごく遠く感じた。

「大島くんと来たってこともちゃんと書いたよ」

 僕の考えなんて伝わるはずもなく、遠い存在の大垣はなんでもないようにそう言う。

「あとね、」と大垣がふわりと優しい笑顔を見せた。

「わたしがドーナツ残すの見越して、大島くんがコーヒーだけ頼んでくれたことも、ちゃんと書くね」

「ありがとう」と言って、大垣がまた幸楽日記にペンを走らせる。遠い存在なはずの大垣は、なんでもないように僕の目の前まで近づいた。自分で言うのもアレだけど、僕の気遣いはちゃんと彼女に伝わっていたらしい。

 アホだけどそれだけじゃない――新たに知った大垣の一面に、少しだけ心があたたかくなった。

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