第一章 二度目の高校生活①

 真っ白だった視界が落ち着いて、ようやく自分の意思で身体を動かせるような気がした。

 ゆっくりと目を開けると、目の前には深緑色の制服に身を包んでいる人がたくさんいて、暖かな光に包まれたステージには、『祝 入学』の文字がぶら下げられている。

 ふと、自分へと視線を落とす。周りのみんなと同じ真新しいブレザーの制服に身を包んでいて、慣れないネクタイは不格好に曲がっていた。

 ステージに向かってきちんと整頓されたパイプ椅子に座りながら、僕は自分の手を握ったり開いたりした。確かめるように何度も同じようにして、最後にその手で自分の頬を思いっきりつねってみた。痛かった。

 夢じゃない。

 本当に生き返っている。

 本当に、過去に戻っている。

 心臓の音も、ちゃんと聞こえる。

 生き返って嬉しいけど、それだけじゃない。不思議な感覚だった。この状況があまりにも非現実的で、嬉しさを通り越していた。

 だけど、こうして生き返って過去にいるということは、自分が一度死んだことも、いわゆるあの世で変なオッサンに会ったことも事実だということになる。

『貴方が望むなら、一度だけ生き返らせることも可能です』

 ――僕は、ものすごい奇跡を経験したのかもしれない。

 しばらくの間、頭の中を整理するためにボーっとしていた。――だからだろう。入学許可宣言では自分の名前を呼ばれていることに気づかず、新入生の中でただ一人、二回名前を呼ばれてしまった。クスクスと笑われる中で、恥だと思ったと同時に、過去を変えてしまったと思った。

 校長の話が始まる。この人の話は長かった記憶があったので、寝に入ろうとした瞬間、

「ブェッッッックショ―――――――イ!」

 くしゃみとともに、キーンという耳に痛いマイクの音が体育館中に響き渡った。校長が鼻をすすりながら、「えー失礼しました」と何事もなかったように話を続けようとする。が、体育館中が校長の様子をうかがうようにざわついている。その理由は僕にもわかった。

 くしゃみの勢いで、パサッと落ちたのだ。

 校長のカツラが。

 過去が変わっている。って、今はそうじゃない。

 講義台の上に理事長のカツラが落ちている。体育館にいる全員がその光景にポカンとする中で、校長はそのカツラを何事もなかったかのように後ろに振り払った。

 シューンと勢いよくステージの上をすべるカツラ。その瞬間、無駄につやの良いカツラはお掃除モップと化した。実にシュールな光景だった。

「ブフッ……――もうだめっ」

 その声のあと、僕の隣に座る女子が大声を出して笑った。

 彼女は大垣おおがきはるという名前だった。

 大垣は、ヒーヒーと涙を流しながら笑い、ヘッドバンギングをするみたいに激しく頭を振る。そのせいで、彼女の色素の薄いショートボブの髪が揺れた。

 大垣の笑い方があまりにも独特で、思わずつられて僕も吹き出してしまう。

 声を出して笑ったのは、僕と大垣だけだった。

 だから悪目立ちしたのだろう。

 校長がゴホン、と咳払いしたあとで、

「三組のそこの二人、覚えていなさい」

 そう言って祝辞を終わらせた。

 完全に目をつけられた。

 完全に、過去が変わってしまった。


 入学式のあと、ロングホームルームのために教室に戻った。

 クラス分けや担任の名前を軽く確認したけど、そこは生き返る前と変わっていなかったと思う。

 僕は自分の席に座ってから、すぐに机に突っ伏した。

 ――やってしまった。

 生き返って新たな自分としてスタートするのはいいかもしれないけど、入学式であんな風に悪目立ちをする気はなかった。そもそも、校長が祝辞の最中にくしゃみをするなんて死ぬ前の記憶にはなかったし、カツラだったことも今日初めて知った。

 なんで記憶にないことが起きるんだ、と考えて、ふと止まる。

 そもそも過去が変わった、と思うことがおかしいのかもしれない。僕は今回で入学式を二度経験したことになるけど、周りの人はそうじゃない。みんなにとっては今日が初めての入学式だ。

 だから過去が変わってしまったのではなく、過去が新しくなったという表現の方が正しいんじゃないか?

 そんな風に誰も答えをくれないことに思考を巡らせた。

 トントン、と机を叩かれたので、身体を起こす。

「さっきはごめんね」

 と、前の席の大垣が申し訳なさそうに頭を下げた。

 少し驚いた。というのも、一度目の高校生活でも、もちろん大垣とは前後の席だったけど、こんな風に話しかけられることはなかったからだ。せいぜいプリントを回すときに、「はい、これ」と笑いかけられるくらいで、会話らしい会話をした記憶は全くない。

 大垣は明るくて人懐っこい性格で、すぐにクラスの中心となった。小さな体でピョンピョン動く姿は小動物みたいで、みんなから愛されるマスコットみたいな人だな、と、僕はいつも遠巻きに見ていた。

 それに比べて僕はというと、昔から人と関わるのが得意じゃなかった。高校では誰も僕に話しかけようとはしなかったし、僕自身、誰とも話そうとはしなかった。

 友達が欲しくなかったわけじゃない。小学生のときも中学生のときも、それなりに頑張ったけど友達はできなかった。

 だから、高校では最初から人と関わることをあきらめた。その方が楽だと思った。友達ができるかもと期待して傷つくくらいなら、最初から一人でいた方がいいと思った。

 だから、友達をつくる代わりにゲームにのめり込んだ。ゲームをしている間だけは、孤独を感じることはなかった。

 そんな僕を、周りの人は〈ただの根暗なヤツ〉と認識していたと思う。

 とにかく――大垣と僕は、住む世界が違かった。

 だから今、そんな別世界の人に話しかけられているなんて、なんだか不思議な感じがした。

「えっと、なにに対して?」

「校長先生のカツラのとき。キミ、わたしの笑い方につられちゃったでしょう? だから申し訳なくて」

 昔からそうだったんだよね、と大垣が腕組みをしながら思い出すように言う。

「中学のときもね、授業中につい大笑いしちゃうと、休み時間に別のクラスの友達が、笑い声こっちにまで聞こえてたよーって。もう恥ずかしくて恥ずかしくて。しょっちゅう顔から火出してたよ」

 大垣が残念そうに「高校に入学したら、慎ましくおしとやかに、を目標にしてたのにな」と言う。僕は、「たとえあそこで笑わなくても、その目標が達成されることはないぞ」と心の中で言っておいた。

「とにかく、ほんとにごめんね」

「あ、いや、別に大垣につられたわけじゃないよ」

 世間話の仕方を思い出しながら、なんとか自分の伝えたいことをつむいでいく。僕の言葉に、大垣が大きな目をパチパチとさせた。

「そうなの?」

 彼女の言葉に頷く。

「必死に笑うの我慢してるときに、大垣の笑い声が僕の笑いの導火線に火をつけただけで」

「って、やっぱりわたしのせいじゃない!」

 僕の冗談に大垣が笑う。それっぽい会話ができたみたいで、ほっと胸をなで下ろした。

 大垣が、重ねるように「ごめん」と言う。

「名前、聞いてもいいかな?」

「大島航だよ」

「大島くんね。でもすごいね、大島くん」

 大垣の言葉の意味がわからず、首を傾げる。

「もう名前覚えてるなんて。わたし、人の名前覚えるの苦手だから、うらやましいな」

 大垣のその言葉に、サーっと頭の中が真っ白になった。

 まずい。ナチュラルに過去の記憶が飛び出していた。いくら人との関わりがなかったといっても、名前くらいは覚えている。だけど今は、あくまで入学初日。呼び慣れてる風に『大垣』なんて呼んでいたら、少し、いや、かなり不自然だ。

 そのまま大垣の言葉を曖昧に流せばよかったのに、焦った僕は、アホな言い訳をしてしまった。

「呼ばれたじゃん、名前。入学式のとき。それで覚えた。僕、記憶力いいから」

 そんな事実はない。実際は、英単語も日本史の偉人も何十回と書いて初めて覚えられる程度の、ごくフツーの記憶力だ。

 そんなカタコトで苦しい言い訳だったのに、大垣は「えー、すごーい」と簡単に信じて驚いてくれた。

 ――思い出した。

 そういえば大垣は少しアホだった。

 入学して一週間が過ぎた頃だっただろうか。彼女はリュックを持たず、手ぶらで学校に来たことがあった。学校が楽しみで、急いでいたら忘れちゃった、と友達に話しているのを聞いた。

 あとは数学の授業中、大垣は爆睡して「お母さん!」と言って、飛び起きたこともあった。

 数学の先生に「そんなにお母さんが好きなら帰れ~」と言われ、教室中が爆笑に包まれた。

 こんな感じで、大垣には少し抜けているところがあった。

 でも、そのアホさがまた、みんなに愛される一因でもある。

 そんな大垣が「じゃあさ、」と、その大きな目をキラキラと光らせる。

「クラス全員の名前、言えちゃったりする?」

「え、うん、まぁ」

 ここまできたら、もうどうにでもなれと思った。

 でも、やっぱり嘘はつくもんじゃない。そのあと、この人は? じゃあこの人は? と次々とクラスメイトの名前を言わされた。

 すごーい、と盛り上がる大垣を見て、他のクラスメイトが「なんだなんだ?」と僕の机の周りに集まってくる。大垣の人を惹きつける力は本当にすごいなと感心すると同時に、ものすごく緊張した。生まれてこの方、こんなに多くのクラスメイトに注目されたことはなかったからだ。

 次々と名前を言い当てる僕は、今日だけで〈記憶力の大島〉と認知された。それが良いことなのかはわからないけど、少なくとも〈ただの根暗なヤツ〉とラベリングされることはないだろうと思う。

 クラス四十人の名前を言い終わったと思ったその時だった。誰かに肩をガシッと掴まれて振り向いた。

「じゃあ、オレの名前は!?」

 坊主頭の男が、自分を指さしながらニカッと笑う。口元から真っ白な八重歯がこぼれたのを見て、それだけで、この人はすごく明るい人なんだろうなと思った。

「いや…………キミ、誰?」

 知ってて当然! と言わんばかりに笑う男に困惑する。僕は本当にその男のことを知らなかった。

 そのやり取りを見て、周りにいたクラスメイトが一斉に笑い出す。

「お前だけ覚えられてないってよ」

「健ちゃん、いじられキャラ決定だな」

 おそらく中学からの友達なのだろう。健ちゃんと呼ばれる男がバシバシと叩かれる。周りのクラスメイトと比べると、健ちゃんはずいぶんと背が小さかった。

「まじかよー! てか、オレだけ誰? って結構ショックなんだけど。なかなか特徴的な名前だと思うんだけどなー」

「ごめん」

 とりあえず謝ってみるけど、やっぱり思い出せない。僕が謝ると、坊主頭の健ちゃんがまたニカッと笑った。

「冗談冗談。でも、今度はちゃんと覚えてくれよ」

 坊主頭が右手を出して言う。僕は最初、その手がなにを意味しているのかわからなかった。

仙道せんどう健一郎けんいちろう。みんなには健ちゃんって呼ばれてるから、そう呼んでくれ」

 ようやくその手の意味を理解して、僕は健ちゃんの手を握った。

「よろしく。えっと……健ちゃん」

 ニックネーム呼びというものが初めてで、少し照れくさい。八重歯を出した健ちゃんが、嬉しそうに僕の手をブンブンと振った。健ちゃんの手はとてもあったかくて、その手のひらからじんわりと人の良さが伝わってくるみたいだった。

 その後すぐに担任の先生が来て、みんな自分の席へと帰っていく。初めてのロングホームルームが始まり、僕はボーっと考え込んだ。

 特徴的な名前に坊主頭、笑うとこぼれる八重歯に、周りの人と比べると小さな背――こんな人を忘れるわけがないだろうに、どうしても僕は彼を思い出せない。

 その事実に、もしかしたら忘れていることもあるのかもしれないと不安になった。でも、そんなことは誰にも確かめようがないから、僕は考えないことにした。

 ホームルームなどをすべて終え、母さんと家路についた。途中、母さんが思い出したように「そういえば、受験頑張ったらゲーム買うって約束してたわよね。今から行く?」と言ってきた。そういえば一度目のとき、僕はそのままゲームを買ってもらったことを思い出した。

 でも今は、

「いや、今日はいいや」

 そう言って断った。

 母さんは不思議そうな顔をしたけど、そのあとなぜか嬉しそうに笑った。

 夕食のとき、母さんは笑いながら入学式の話を父さんにした。僕がボーっとしていて名前を二回呼ばれたこと、校長のカツラが取れたこと、それを見て笑った僕が目をつけられたこと。母さんはそれらのことを本当に楽しそうには話していた。それを聞く父さんも「アホだなぁ」と笑っている。僕はこういう暖かな雰囲気がずいぶん久しぶりのような気がした。そういえば、以前までの僕は、常にゲームを片手に食事をしていたから、両親との会話は皆無だった。

 会話の中心に僕がいて、父さんも母さんも笑っている。――僕はこういうのも悪くないなと思った。

 ご飯を食べたあと、自分の部屋に戻って、改めて生き返ったことを実感した。前に買ったはずの漫画の新刊が本棚からなくなっていたから、本当に過去をやり直しているのだ。ベッドに寝転びながら、僕は自分が経験した奇跡を思い返した。



 あの日、僕は家路を急いでいた。

 高校生になって初めての夏休み。これからゲーム三昧の日々が送れるということに、僕は心を躍らせていた。

 校門を出てから、思いっきり駆けだした。運動なんてきらいなのに、無駄に腕を大きく振ったりなんかして、汗で肌にまとわりつくワイシャツなんて気にもならなかった。

 はやく、はやく帰りたい。そう思いながら、短い横断歩道を渡ろうとした。

 その瞬間、何か大きなかたまりが目の端に入り込む。グシャという音のあと、恐怖や痛みを感じる前に意識が遠のいた。――歩行者用の信号は青だったはずなのに。

「夏休み中はくれぐれも、事件事故に気をつけること! 浮かれんじゃないわよ」

 ふと、帰りのホームルームでの担任のマチコ先生の言葉を思い出した。たしかに、僕は浮かれていたのかもしれない。

 それからは、なにも見えなかったしなにも聞こえなかった。

 次に目を覚ました時、目の前には真っ白いひげをこしらえたオッサンがいた。ゆっくり身体を起こすと、辺りはなにもなかった。

 白しか色がないそこは、どこまで続いているのかもわからない。

 それはなんだか、ものすごく寂しい光景だった。

「貴方はほぼ、死にました」

 オッサンは、あくまで真面目なトーンで言う。

「ほぼってなんですか」

 笑いたくもないのに、なぜか笑えた。

 自分は妙に落ち着いていた。そうか、僕はほぼ死んだのか、と簡単に受け入れられたのは、僕自身、現世に未練というものがなかったからなのかもしれない。あるいは、いつもならドクドクとうるさい心臓の音が、全く聞こえなかったからなのかもしれない。

 血が通っていない身体はとても軽く、ひんやりと冷たかった。

「申し遅れました。わたくし天の使いのセンドと申します」

 オッサンがそう名乗って、深々と頭を下げる。優しいテノールボイスが耳に心地いい。

「あ、大島航です。どうも」

 僕も同じようにお辞儀した。

「これから貴方を天国へとつづく扉の前まで案内しますので、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ……」

 真っ白い布をまとったセンドさんは、しっかりと目を凝らしていないと周りの景色に溶け込んで見失ってしまいそうだった。センドさんとともに、天国への扉へと向かう。

「どうでしたか、人生は」

 つと、隣を歩くセンドさんが言う。優しく微笑んだ口元から、真っ白で綺麗な並びの歯がこぼれて、シワシワの見た目に似合わずチグハグに見えた。

「どうって、特にどうもないですけど」

 僕はそれだけ言った。だって本当にそうだったからだ。

 友達もいない。家族と関わる以外ひとりぼっちだった僕の人生は、他人に語れるほどのものじゃない。

 恥ずかしかった。これ以上あれこれ詮索されて、中身のない人生だったと思われるのが嫌だった。

 だから僕は、これからを考えることにした。

 天国って、どんなところなんだろう。きっと天国には、先月亡くなったおじいちゃんがいるだろうから、二人で将棋をするのもいいかもしれない。

 学校はないといいな。そしたら毎日なにをして過ごそうか。そう思って、聞いた。

「あっちの世界ではゲーム、できるんですかね」

 現世に未練のない僕は、ただただ天国での未来を見据えていた。死んでいるのに未来を考えるなんて、おかしな話だなと思ったけど。

 僕の言葉を聞いて、隣を歩いていたセンドさんの足が止まる。もちろん僕も、その場で立ち止まった。

 うつむいたセンドさんが、静かに口を開いた。

「貴方は不憫だ」

 センドさんの声は、もう優しさを帯びていない。

 その言葉に、僕は少しイラついた。僕のなにを見てそう言ったのかわからなかったからだ。

 お前に僕のなにがわかるんだ。

 そう思ったら、もう面倒になった。

「別に不憫でも何でもいいですから。さっさと天国に連れて行ってくださいよ」

 立ち止まっているセンドさんの両手が、なぜか震えている。彼はまた、静かに言った。

「貴方を天国に案内することは、できません」

「え?」

 意味がわからなかった。

 それじゃあこれから僕はどうなるのだろう。

 そのとき死んでから初めて不安を抱いた。

「貴方が望むなら、一度だけ生き返らせることも可能です」

「えっ」

 生き返る――そんな奇跡のようなことがあるのだろうか。そう疑問に思ったけど、目の前のセンドさんの真剣な眼差しを見ると、どうやら可能らしい。

「ただし条件があります」

「条件?」

 聞き返した時にはもう、僕は目を開けていられなくなった。まるで金縛りにあったみたいに、身体が動かなくなった。

 トン、と額になにか、指のようなものが押し付けられた。

「一つ目、ゲームは控えること。もし今までどおりゲームにのめり込んでいたら、貴方は今日と同じように死ぬでしょう」

 淡々とセンドさんは続ける。

「二つ目、これが一番大切なことです」

 センドさんの真剣な声色に、思わず唾を飲み込んだ。

「貴方の周りにいる人を幸せにしてください」

 ――は?

 その疑問は声にならなかった。

 一つ目はわかるけど、二つ目はなんて抽象的なんだと思った。だいたい幸せなんて目に見えないのに、どうやって確かめるのだろう。

 そう聞きたいのに、やっぱり声は出ない。

 「以上です」とセンドさんは言った。

「その条件をクリアできたら、あの日貴方が死ぬ未来はなくなるでしょう」

 その瞬間、止まっているはずの心臓が、ドクンと動き出したような気がした。

「三つ数えます。次に目が覚めた時、貴方は過去にいるでしょう。ワン、ツー……」

 おでこにグッと力が入る。その力が強すぎて、おでこに穴が開きそうだった。

「スリー」

 言葉とともに、目の中が真っ白に輝いた。

 その後で、センドさんの声がはっきりと聞こえた。

「わたくしは、いつでも近くで貴方を監視していますからね」

 意味はわからなかった。

 次に目を開けたとき、そこは体育館で入学式の真っ最中だった。気づいたら僕は本当に生き返っていたのだ。



 奇跡を思い返しながら、枕元のポータブルゲーム機に手を伸ばしたのは、ほぼ無意識だった。

 カチッと電源を入れた瞬間、画面いっぱいに白いひげをこしらえた口元が広がった。

「ゲームをしていたら、また死にますよ」

「うっわぁあああああっ」

 思わずゲーム機をぶん投げた。ガチャンと音をたててフローリングの床に落ちたゲーム機。その画面から、まるで蛇玉のようにムクムクとセンドさんが出てきた。

「もうなにしてんですか、センドさん!」

 泣きそうな声で言った。だって、ゲームの電源を入れて人の顔面が浮き出てきたらホラーでしかない。

 センドさんが疲れた様子でコキコキと肩を鳴らす。

「どうでしたか、生き返り一日目は」

 僕の質問は華麗にスルーされたみたいだ。

「どうって……特になにも」

 そう言って今日の出来事を思い出す。ゆっくりと思い出しながら、気になったことをセンドさんに聞くことにした。

「あの、ひとつ、聞きたいことがあるんですけど」

 僕の呼びかけに、センドさんはフローリングの床に座りながら「なんです?」と言う。

「今日起こった出来事が、僕の頭の中にある記憶と少し……いや、かなり違うんですけど、どういうことなんですか?」

 校長のくしゃみに、ふき出す大垣、それにつられて笑った僕――入学式だけで記憶にないことがたくさん起きたし、起こしてしまった。過去を変えてしまっても問題ないのかは気がかりだ。センドさんが真っ白い髭を触りながらフッと笑う。

「貴方にとっては、今、この瞬間は過去に感じられるかもしれないですけど、周りの人にとっては、今、この瞬間が現在です。ですから、貴方がこの瞬間を過去と捉えると色々と記憶違いなことも出てくるかと思います。考え方としては、貴方は生き返った瞬間から、過去とは別の毎日を歩んでいると捉えるのが無難かと思われます」

 センドさんの言い方は少し回りくどい気がしたけど、おおかた僕が学校で考えついた答えで良いらしい。

「それじゃあ記憶違いでもなんら支障はないと?」

「新たな日常ですから。貴方の記憶と異なることが起きてもなにも問題ありません。安心してください」

 センドさんの言葉にほっとする。

 どうやら僕は、なにも気にせず新たな日常を歩んでいいらしい。記憶と異なることが起きても問題ないということは、例えば、記憶にない健ちゃんがクラスにいてもおかしなことではないということだろう。生き返った代償に、なにか忘れていることがあったらどうしようと不安だったから、それが解消されて安心した。

 床に座っていたセンドさんがスッと立ちあがる。

「それでは、わたくしはここで失礼します。普通に毎日を楽しんでもいいですが、条件を忘れないでくださいね」

 そう言われて気がついた。二つ目の条件のことだ。あの抽象的な条件を、もっと具体的に教えてほしかった。

「あの、もう一つ聞きたいこと――」

 言いかけたのに、そのあとの言葉が出なかった。

 センドさんが人差し指を立てて「シッ」と言う。その瞬間、まるで魔法にかかったみたいに声が出せなくなった。生き返る直前と同じ感覚だ。

「聞きたいことはひとつ。そう言ったのは貴方ですよ」

 センドさんが優しく笑う。

「また来ますから」

 ――そう言って、センドさんは光に包まれて消えてしまった。

 センドさんが消えてから、確かめるように「あー、あー」と声を出した。ちゃんと出た。やっぱりあれは、なにかの魔法だったのかもしれない。

 まぁでも、こうして生き返らせている時点で、彼は十分魔法使いだ。いっそのこと、天の使いから魔法使いにジョブチェンジすればいいのに。

 そんなことを考えつつ、フローリングの床に落ちたゲーム機を拾い上げる。画面にはヒビが入っていて、当然のごとく電源は入らなくなっていた。

 泣きたくなった。

『一つ目、ゲームは控えること』

 一つ目の条件は、ちゃんと達成できそうだ。


「ぬあーっ消しゴム忘れたー!」

 朝のホームルームが始まる前、健ちゃんの悲痛な叫びが三組の教室に響き渡った。この世の終わりみたいな声を聞いて、僕はすぐに立ち上がる。

「僕、消しゴム二個持ってるから。よかったら使って」

「まじでー! わたるっち神かよ」

 入学二日目、健ちゃんは無許可で僕のことを『わたるっち』と呼ぶようになっていた。

 自分の席に戻ろうとする僕の背中に、健ちゃんが「ありがとなー」と大声で言う。きっと健ちゃんはあの八重歯を見せて笑っているのだろう。

 僕は自分の席についてうなだれた。

『貴方の周りにいる人を幸せにしてください』

 たぶん違うよなー、こういうことじゃないよなー、と頭を前後に揺らしながら考える。

 今朝はめずらしく皿を洗ったり(ゲリラ雷雨でもくる? と母さんに怯えられた)、学校に来る途中でも、重そうな荷物を持っているおばあちゃんに手を貸したりした。だけど、たぶん、絶対、幸せってそういうことじゃないんだと思う。健ちゃんに消しゴムを貸すことだって、もちろん違う。僕のやっていることは単なる人助けだ。

 それじゃあ、他人ひとにとっての幸せってなんなのだろう。

 いや、そもそも幸せってなんだ?

 昨日センドさんがいなくなったあと、辞書で『幸せ』を調べてみたけど、もちろん具体的にこれ、というものは記されていなかった。

 そりゃそうだろうな、と思う。幸せなんて人それぞれだし、僕だって「君にとっての幸せはなに?」と聞かれたら、うまく答えられない。

 でも僕は、その曖昧な『幸せ』を理解しなければならない。死なないためには、それを理解して、周りの人を幸せにしなきゃいけない。

「難しいなあ……」

「なにがー?」

「うわっびっくりしたー」

 口から心臓が飛び出るかと思った。天を仰いでいたら、急に視界に大垣が入ってきたのだ。

「おはよう」と笑う大垣に、僕も同じように「おはよう」と返す。前の席に座った大垣が、身体を僕の方に向けた。

「なにか悩み事?」

「あ、いや、そういうわけじゃないよ」

 そう答えるしかない。

 だって、知り合って二日の人間に、いきなり「君にとっての幸せってなに?」なんて聞かれたら、こいつ頭大丈夫か? と思うのが普通だろう。頭の切れる親切な人間なら、腕のいい医者を紹介してくれるかもしれない。

 せっかく生き返って〈ただの根暗なヤツ〉から脱却したのに、新たに〈ただの変なヤツ〉とラベリングされたら意味がない。それだったら僕は、〈記憶力の大島〉のままでいたい。

 幸い、大垣は「そっか」と流すだけだった。

「ところでさ、大島くん。今日の放課後、空いてたりする?」

 大垣が僕の様子を窺うように聞く。突然の質問に、その内容を理解するまでに時間がかかった。

「空いてる、けど」

「あ、ほんと? よかったー」

 何がいいのか僕にはわからないけど、続けて大垣が言う。

「もしよかったら、今日の放課後、わたしに付き合ってくれないかな? 昨日のお詫びがしたくて」

「昨日って――校長のカツラのこと? それなら本当に大垣のせいじゃないよ」

 僕の言葉に、大垣が首を横に振る。頭と共に揺れる短い髪からほんのりシャンプーの匂いがした。

「わたしの気が休まらないの。わたしを助けると思ってさ、お詫びさせてよ」

 なかなかカワイイ女の子に「お願い」と懇願されて断れるやつがいるなら、今すぐ目の前に現れてほしい。

「わかった」

 ――当然、僕にはそんなことはできない。

 僕の言葉に「よかった」と安心する大垣を見て、心底、断らなくてよかったなと思った。

「ちなみに大島くんは甘いもの食べられる人?」

「人並みには」

「そっか、よかった。じゃあまた放課後にね」

 大垣が席を立って、もうできたであろう友人のもとへと向かう。

 変な会話だった。

 どうやら僕は、今日の放課後、生まれて初めて女の子とどこかへ行くらしい。

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