第12話

十二


 私はゆっくりノートを閉じた。

「……これでお終い。それにしても、我ながらよくここまで頑張って書いたなぁ。まだまだ【夜科蛍】の小説には足元にも及ばないけどね……ふふっ」

 私の書いた【この物語の続き】はこうだ。



***


 夜宴の島はきっと……黒兎、島に訪れる客人達、そして五十嵐想の力で、本来の姿を取り戻していく。

 そしてまた、誰かを島へと誘い……あの、恐ろしくも美しい宴が再び行われる事だろう。

 きっと、賑やかで騒がしくて、皆が幸せそうに笑っている……そんな素敵な夜が、再びやってくる。

 ――これでいい。これで、良かったのだ。

 白兎の事を想い、何日も泣き続けた。今も、思い出すだけで涙が込み上げてくる。

 白兎は、幸せだったのかな? ……けれど、白兎の決意がなければ、夜宴の島は滅んでしまっていた。今なら白兎がとった行動は、本当に勇敢だったと思う。

 彼は島の英雄なのだ。死してなおも輝き続け、皆の心の中で永遠に生き続けるだろう。

 ……あれから、黒兎は立ち直れただろうか? そう簡単には、哀しみも傷も癒えないと思う。

 けれど、願わくば……あのいつものとびっきりの笑顔で、黒兎が笑えていますように。

 仙人達に、ちゃんと挨拶も出来ないまま帰ってきてしまった事に対し、少しばかり悔いが残っている。よくよく考えてみたら私……兎狩りの時に助けてもらった事、きちんと全員にお礼を言えてない。……本当に、失礼極まりない話だ。

 ――そして、五十嵐想。

 私をつまらない現実の世界から連れ出してくれた張本人。私の憧れの小説家【夜科蛍】。

 彼は……本当に自由な人だった。とても素直な人だった。そして私が、今でも世界で一番大好きな人だ。

 彼と私の道はすれ違ってしまい、二度と交わる事はないけれど……きっと、この気持ちは永遠に変わらないだろう。

 ……この世界には、私達の知らない世界がまだまだ沢山ある。その存在に気付く事もないまま、人は短い生涯を終えていく。その人生の中で、私は間違いなく幸せだった。

 いつか私の中で、夜宴の島は想い出となり、風化していく事だろう。

 夢のような出来事だった。だからこそ、いずれ……『あの出来事は本当に起きた事だったのか?』、『夢のような出来事などではなく、本当に夢だったのかもしれない』と……記憶の片隅に追いやられ、消え去っていくのかもしれない。

 それでも、私はきっと……あの夜の事を忘れない。……絶対に忘れたりしないから。

 サヤや店長夫妻から得た情報によると、帰還した後には……夜宴の島で起きた事や、重要な部分の記憶等は失われる筈だった。けれど……生憎、私は全てを覚えている。だからこそ、この物語を完成させる事が出来たのだ。

 夜宴の島は幻想? と、疑う日がくれば……何度でもこの物語を読み直そう。ここには、真実だけが眠っているのだから。

 ――ありがとう、夜宴の島。ずっとずっと、私の心はあの地に囚われたままだけれど……それでも、この世界で生きていこうと思います。

 闇の中に灯される明かりや、空に打ち上げられた色鮮やかな煙の線が、宴の合図。

 陽気な声や音楽が、楽器の音や歌声が……耳を澄ませると、今でも聞こえてくる。

 ――さぁさ、今夜もおいでなさいませ。皆で十七の夜を存分に楽しみましょう。

 奇妙な仮面を付けた者達が今夜も盛大に盛り上がりを見せる、この美しくも恐ろしい夜宴の島で――



***


「……ははっ! 小説の中の私は、随分前向きだなぁ。実際は、まだ立ち直れてなんかいないし……一人で戻ってきてしまった事を後悔している自分だって、確かに存在しているのに。……ソウくん、やっぱり私には【ハッピーエンド】は書けなかったよ。嘘でも書けない……虚しくなるだけだから」

 私はゆっくりと空を見上げた。小さな三日月が、時折雲にその姿を隠されてしまうが……また、ひょっこりと顔を覗かせる。明日はきっと、雨だろう。

 私は空から目を離し、膝に置かれたノートを見つめると、小さく呟いた。

「……ううん。これもハッピーエンドなのかもしれないね。二人が、選ぶべき道を選んだ事には違いないのだから。けどね、どうしてだろう……? 胸に穴が空いたみたいに、酷く苦しいんだ」

 鈍い痛みを伝えてくる左胸を、ぐっと強く押さえつけてみたが、一向に痛みが治まる気配はなかった。

 ……夢の中で、私が私に『何故、島に残らなかったの』と責めたてる。

『どうして、彼と共に生きる道を選ばなかったのだ』、と。……『夜宴の島から離れてしまったのだ』、と。

「ほんと、嫌になる。あまりにも同じ夢ばかり見てしまうから、ずっと寝不足だよ。……けどね、眠るのが怖いの。どうしようもなく」

 正解のない選択肢は、いつだって不安にさせるものだ。『本当に、これで良かったのだろうか?』と。

 誰もその答えを知る事はないし、答える事は出来ない。そして、それは……誰かに教えてもらう事ではない。自分自身で決めなくてはいけない事なんだ。

 あの時の私は帰りたかった。白兎の死が……私にはどうしても耐えられなかったの。

 じゃあ、白兎が生きていてくれてたら……私は島に残ったのだろうか? 

 ――答えはきっと、『NO』だ。

 人として生まれた私に、人としての人生を全て捨て、生きていく事など……やはり出来そうもない。

 臆病で弱虫で、後悔のない人生を歩む為の行動を取る事の出来ない私は……はたして、生きていると言えるのだろうか? 

「私だけ……独りぼっちになっちゃったね」

 私は鞄の中から、白兎に貰った夜宴の島の結晶を取り出した。

「店長のところにあった結晶には、二人の姿が現れたのに……こっちの結晶には誰も現れてくれない。ほんと、冷たいんだから」

 私は一人、そんな事を呟きながら笑う。

 ……本音を言うとね、会いたいよ。会いたい。

 今すぐ皆に会いたい。

 私は自分の意思でこの世界に戻ってきた。全てを覚悟しての事だった。けれど……簡単には心が受け入れてくれないの。幸せ過ぎたから。悲し過ぎるから。

 このまま、私は一人……この世界で生きていけるのだろうか? 

 大粒の涙が結晶を伝い……まるで、雨でも降りだしたかのように私の手を濡らしていく。

「ねぇ……お願いだから、誰か教えて……? 私は、間違えていたのかな?」


『相変わらず泣き虫だね、君は』


 私は突然聞こえてきた声に驚き、即座に顔を上げた。

「嘘……でしょう?」

『……久しぶりだね、ミズホ。君とこうして、再び話せる日がくるなんて……思いもしなかったよ』

 そこには、顔に白い兎面を付けた小さな少年の姿があった。

 私は……夢でもみているのだろうか? 

「シ、ロくん……? どうして……?」

 視界に光が入り込んでくる。私の手の中にある結晶が、いつの間にかキラキラと光り輝いているのがわかった。そして白兎の身体も結晶と同じように、青く美しく煌めいていた。

 ……そうか、これは実体ではない。きっと、結晶に込められた【白兎の想い】から生まれたものだ。

 いつになっても情けなく、ずっと泣き続けている私の為に現れてくれた……優しすぎる亡霊。

 神様からの、プレゼントなのだ。

 ポロポロと涙をこぼし、何も言えないでいると……白兎は、優しく穏やかな声で私に語りかけてきた。

『大丈夫だよ、ミズホ。泣かないで? 君の選択は間違っていない。君の世界はこちら側なんだ。だから、こっちの世界で生きていかなければならない。……まったく、僕が傍にいてあげられていたら、君をこんなに泣かせたりはしないのに。哀しいし、悔しいけど……きっと僕は、既に死んでいるだろうから……もう君に何もしてあげる事が出来ない。それがとても辛いよ』

 白兎は……全て、わかっていたんだ。

 私が、元の世界に戻る事。

 彼が……あっちの世界に残る事。

 そしてその時……自分が既に、この世に存在していないという事まで――

 白兎が私に結晶をくれたのは……私と白兎が船に囚われている時だった。

 白兎は……その時から自分の死を予感していたという事になる。ティターニアとゲーデの存在がそう思わせたのもあるかもしれないが……きっと、それ以前から……病状が進行していて、永くは生きれないと覚悟していたのだろう。

 私は、ゆっくりと口を開いた。

「間違えて……いない? けど、私の選択で、もう二度と皆に逢えなくなったんだよ……? クロちゃんにも……ソウくんにも……!」

『……君は間違えていないよ。そして、ソウの選択もまた間違えてはいない。彼は人に理解されにくい特殊な思考の持ち主だから……こっちの世界では生き辛いだろう。もしもソウが君と共に、この世界に戻ってきていたとしたら……彼もまた、サヤと同じように……自ら命を絶っていたかもしれないしね』

「……うん、私もそう思うよ。彼が生きるには、この世界は狭すぎる。だから……一緒に帰ろうだなんて言えなかった。彼の邪魔をしたくなかった。彼の足枷には、なりたくなかったの」

 そして彼自身も、私に夜宴の島で暮らそうとは言わなかった。

 きっと彼も、こうする事が私達にとって一番良いのだと思った筈だ。彼が、私の生活を犠牲にしてまで夜宴の島に残ろうだなんて……言う筈がないものね。

『けど……ミズホはソウに逢いたい?』

 白兎の質問に、私は何度も首を縦に振った。

「逢いたい……逢いたいよ……ソウくんに逢いたい……でも、彼の人生を私の感情なんかで振り回したくなかった、潰してしまいたくなかった……! だって、私と一緒に元の世界に帰って欲しいだなんて……私、自分の事しか考えてないよね。最低だよね……? けど、本当は彼と一緒にいたかった。離れたくなんてなかった。もし彼から、『一緒に夜宴の島に残ろう』と言われたとしても、きっと残れないくせに……虫が良すぎるよね、自分勝手だよね。何だかもう、疲れてきちゃったよ。私、本当にどうすれば良かったのかなぁ? ……はは、何言ってるんだろう。なんか、頭がこんがらがってきて……ごめん、わけわかんないよね。言いたい事がうまくまとまんない……本当にごめんなさ――」

 小さな小さな影が、私に重なり映り込む。白兎は、ベンチに座っている私の身体を……優しく包み込むように、そっと抱きしめた。

「……シロくん」

『奇跡を――』

「えっ……?」

『奇跡を信じて、ミズホ』

「奇跡を……信じる……?」

『奇跡の神はとても寛大なんだ。だから、信じる者を決して裏切ったりはしない。それに、君は今まで数々の奇跡を起こしてきたよね? その奇跡が、どれだけ君や僕達……島を救ってきたことか。――大丈夫だよ。奇跡は必ず起きる。だって君は、奇跡の神の【お気に入り】なんだから」

 白兎はクスクスと笑いながら私の身体から離れると、結晶を指さして言った。

『ミズホに良い事を教えてあげる。その結晶を使えば、ソウに逢えるかもしれないよ?』

「えっ……?」

『その結晶。それを君に渡した時……僕、言ったよね? 何かあったら、この結晶を握りしめ強く願うんだ。きっと奇跡が起こる、って』

「あ……っ」

『君はあの時、それを使わないって言ったけど……僕はね、ちゃんとミズホに使って欲しいんだよ。だって、それが……僕が君にしてあげられる【最後のプレゼント】なんだから。とは言っても、その石の力じゃ……きっと大した事は出来ない。けど――』

 白兎は顔の面を額に移すと、愛らしい無邪気な笑顔を見せて言った。

『――【五十嵐想と再び出逢えますように】。それくらいなら、簡単に出来る筈だよ』

「シロくん……」

『さぁ、ミズホ。それを握りしめ、強く念じるんだ! 君の想いが強ければ強い程、その結晶は力を増していく。きっと、ソウにも逢えるよ!』

 ……ソウくんに、逢える? 

 でもそれって、即ち……

『ミズホ? ……どうかした?』

「……ううん。でも、もう少しだけ考えてみてもいいかな?」

『……うん、わかったよ。けど、なるべく早くね? 僕のこの身体は夜明けと共に消えてしまう。だから、せめて……ちゃんと見届けてから逝きたいんだ』

 夜明け? ……もうすぐじゃないか。夜が明けてしまえば、今度こそ私は白兎と……本当のお別れをしなければならない。

 そしたら白兎の魂は、どこにいってしまうのだろう? 

 白兎の存在は……その身体と共に、消えて無くなってしまうのだろうか? 

 そして、いつか皆……白兎の事を忘れてしまうのかな? 

 そう考えただけで、胸が苦しくて堪らなかった。


「……シロくんは、いつも私の幸せを願ってくれているんだね」

『君の幸せが、僕の幸せでもあるからね』

「ありがとう、シロくん……私ね、シロくんに出逢えて……本当に良かった!」

 私は白兎を見て、にこりと笑った。そんな私を見た白兎も、同じように優しく笑い返す。

 それだけで、私は充分幸せを感じられた。私の幸せが白兎の幸せだというのなら……きっと今、白兎自身も幸せを感じてくれている筈だ。

 ……けど、白兎はわかっていない。私だって、貴方が幸せだととても嬉しい。だから、貴方の幸せを……誰よりも願っているんだよ? 

 ――忘れないでね? 


「目を閉じて……強く願えばいいんだよね?」

『そう。そうすれば、必ず奇跡は起こる』

「……わかった。やってみる!」

 私はゆっくり目を瞑ると、【あの日】の事を思い返していた。

 あの日とは……私が白兎から、この夜宴の島の結晶を受け取った日の事だ。

 一生、忘れる事のない……大切な思い出――



***


『これは僕がこの島で初めて作った結晶なんだ。きっと、君の力になると思う。あげるよ』

『これ、店長が持ってたものと同じだ……! ソウくんがレッドナイトムーンを飲んだ時、彼を救って砕け散ったものと同じだよね?』

『うん。これには微量だけど、魔力が込められてるからね。いざとなったら君を守ってくれるかもしれない。大した役には立たないと思うけど、ミズホに持っていてもらいたいんだよ。何かあったらこの結晶を握りしめ、強く願うんだ。きっと奇跡が起きるから』


『ミズホ?』

『……使わない。使ったらそれも粉々になっちゃうんでしょ? そんな大切な物、使えないし……使いたくない。シロくんが初めて作った、想い出深いものなんだから』

『……まったく、強情なんだから! じゃあせめて、御守り代りに持っていて。何があっても、僕はずっと君の傍にいる。これは、僕と君との絆の証だ。僕がきっとミズホを守ってみせるから』



***


 ――うん。決めた。

 決めたよ、シロくん。

 強く願えば……奇跡は起こるんだよね? 

 なら、願う。心の底から……何度も何度も強く願うよ。

 だからどうか……私の願いを叶えて下さい。

 私の願いは――


 夜宴の島の結晶は、私の手から離れ、宙に浮く。そして、パリンと音を立てた。

『……あはは、やられちゃったなぁ』

 白兎の身体は爪先から順に、黄金色の光に包まれていく。その光は、やがてキラキラ輝く星屑となり……空に向かって拡散されていった。

 その美しさときたら、まるで夜空を流れる天の川のようだった。

 白兎の小さな身体は、幾千の星屑に導かれるようにして空に浮かび上がる。少年は、半ば呆れたような声でこう言った。

『君は馬鹿だ。本当に大馬鹿ものだよ。……けど、実に君らしい』

「ふふっ、でしょ? シロくんがくれた【絆】の結晶なんだから……どうしてもシロくんの為に使いたかったの。それに、ソウくんに逢いたいだなんて願ってしまったら……彼を無理矢理この世界に戻してしまう事になるかもしれない。私、そんなの嫌だもの」

『だから、僕の【幸せ】を願ったと』

「うん! シロくんが次に生まれ変わった時は、きっと誰よりも幸せになれますように……ってね! それと、お互いに何度転生を繰り返したとしても……いつかまた、再び巡り逢えますようにって、強く強く願った。だから……いつか必ずまた逢える」

 少年はお腹を抱えながら、ケラケラと大きな声を上げて笑った。その姿が、とても愛おしい。

『……きっと、きっと逢えるよ。僕が必ず、君を捜し出してみせるから』

「うん、待ってる! 私、ずっと……ずっと、待ってるからね!」

 私は白兎の言葉に、とびっきりの笑顔で答えた。

『……あ、一つ言い忘れていたよ』

 白兎は優しく私を見つめながら、そっと口を開く。

『君の奇跡は叶ったけれど……奇跡というものは、何も君一人だけが起こせるものじゃない。この世界には沢山の者達がいる……そして奇跡は、皆平等に起こすチャンスを与えられているんだ。だから、誰かの強い想いによって……もしかして君に、再び奇跡が起こるかもしれないね?』

 少年はクスリと小さく笑うと、再び白い兎面を顔に被せて言った。

『――ミズホ、元気で』

「シロくんもね」

『ありがとう』

「私の方こそ……本当にありがとう!」

 白兎は最後に大きく手を振ると……今度こそ、この世界から消えた。

 涙はもう……出なかった。


 東の空に、黎明の光が射し始め……夜の闇を追いやり、消し去っていく。

 夜明けだ。空はもう青みがかっていて、新鮮な空気が鼻腔をくすぐる。――とても気持ちが良い。

 夢のような……素敵な夜だった。

 ……けれど、そろそろ家に帰らなければ。私はノートを鞄にしまうと、ゆっくりベンチから腰を上げた。

 私は公園の出口に向かって歩き始める。家に帰ったら、少し眠ろう。

 この場所に来て、夜宴の島を思い出して……再びまた、白兎に逢う事が出来た。もうあの子は逝ってしまったし、彼や黒兎達にも……もう二度と逢う事はないだろう。寂しい事には変わりない。悲しい事にも変わりない。けれど、先程までの……本来なら起きる筈のない【奇跡】を目の当たりにして、ようやく少しだけ踏ん切りがついたみたいだ。

 私も、そろそろ受け入れなくてはならない。立ち止まらず……前に進まなければいけないんだ。

 ――この世界で生きていくと決めたのだから。


 そんな事を考えながら歩いていると、足元にあった大きめの石に気付かず、躓き、派手にすっ転んでしまった。

「いったぁ……」

 恥ずかしすぎて、とにかく辺りを見渡してみたが……まだ早い時間というのもあり、周りには人っ子一人見当たらない。ホッと安堵の溜息を吐く。

「完全に目が覚めちゃったよ……恥ずかしい。早く帰ろう……」

 私は立ち上がり、膝についた土を払うと……再び歩き始めた。


「――お姉さん、これ落としましたよ?」


 突然背後から聞こえてきた声に、私を動かしている全てのものが活動を止める。……周りには、確かに誰もいなかった筈だ。

 けれど私は……この声の主をよく知っている。

「ほら鞄、開いてるよ。転んだ拍子に飛び出してきたんだね。……これ、頑張って書いたんじゃないの? 誰にも読んでもらえないまま、こんな所に置き去りにされたら……【夜宴の島】も、さぞ無念な事だろうね」

 まず最初に、心臓が急スピードで活動を再開し、ドクンドクンと大きな音を鳴らした。私は振り返る事も出来ないまま、辛うじて声の主に言葉をかける。

「どうして……?」

「さて、どうしてでしょう?」

 その返答に多少の怒りを覚えた私は、急いで後ろに振り返る。全ての機能は完全に回復したようだ。

 そこには……意地悪な顔をし、茶化すようにそう言った【彼】の姿があった。


「やぁ。元気だった?」

「……『元気だった?』じゃないでしょ? 真面目に答えてよ……どうしてソウくんがここにいるの……?」

 私の小さく震えた声を耳にした彼は、眉をハの字にしながら、ゆっくりと答えた。

「……最初に言っておきたいのは、俺は【約束は必ず守る】って事。あの時、シロは俺に……クロとミズホの事を頼むと言った。それを聞いた俺は、クロを支える為……島に残る事を決めた。命を賭けてまで、夜宴の島を救ったシロの為にも……一刻も早く島を元通りにしたかったんだ。その為には、クロに立ち直ってもらわなきゃならない。そしたら、それが全部終わったら……俺は、俺を待ってくれている人の元に、最初から帰るつもりだった。それを敢えて口にしなかったのは、期待を持たせたくなかったからだ。いつこの世界に帰ってこられるかもわからないのに、『待ってろ』だなんて……そんな無責任な事、俺には言えなくてさ。それが結果的に、ミズホを苦しめてしまう事には気付いていたけれど……あの時は、どうすることも出来なかったんだ。ごめん。けど、俺が思っていたより……クロはずっと強かったよ。あいつはもう大丈夫だ。それに、あっちには俺なんかより頼りになる連中達がわんさかいる」

 静かな公園内に、彼の声と私の鼻をすする音だけがこだまする。そんな私を見て、彼は困ったように笑った。

「次に……俺は絶対に嘘は吐かない。俺が口にした事は、何がなんでも絶対に果たす。――約束しただろう? 俺がミズホに、ハッピーエンドを教えてあげるって」

 彼がそう言い終えたのと同時に、私はその胸に飛び込んだ。彼はそんな私を強く抱きしめると、私の頭に顎を乗せて言った。


「ただいま」

「お、かえり……!」


 彼は私の両肩に手を置き、じっと私の顔を見つめると……ぷはっと、大きな声を出して笑った。

「すっごい顔」

「う、うるさいなぁ! なんでそんな事しか言えないのよ!」

 普通なら【感動の再会】の筈なのに……至っていつも通りの彼の姿に、何だか拍子抜けしてしまった。……まぁ、彼に普通を求める事自体が、はなから間違いなのだ。そうして、いつものように彼のペースに持っていかれる。毎度の事ではないか。

「もうそんなに泣くなって。俺、ミズホの泣き顔には弱いんだよ」

 私の頭を、『よしよし』と優しく撫でる彼の手。その感触がとても懐かしく、愛おしすぎて……私の涙腺はずっと緩みっぱなしだ。

「夢じゃ……ないんだよね……?」

「うん、夢じゃない。……夢であってたまるもんか。俺だって、ずっとミズホに会いたかったんだから」

 そう言うと、彼は再び私を自分の胸の中に引き寄せた。

「……ねぇ、ミズホ。俺やっぱり、ミズホの事が好きだ」

 彼の言葉は、毎回どこまでが本気なのかよくわからない。けれど……この時だけは信じられると思った。その証拠に彼の心臓は、今もずっと騒がしい音を鳴らし続けている。……それが、とても心地良い。

「ずっとずっと考えてた。魅力的な世界を前にしていても……四六時中、君の事を想ってた。あまりにボケ~っと毎日を過ごしていたものだから、クロに『気持ち悪りぃんだよ、さっさと帰れ! この馬鹿野郎が!』って……何度も後ろから蹴られた」

「何、それ……!」

 私はポロポロと大粒の涙を流しながら、クスクス笑う。その顔を見て、彼は照れ臭そうにはにかんだ。

「あんなに恋い焦がれていた不思議な世界にいても、ミズホが傍にいてくれないと駄目な事に気付いた。いつの間にか俺は、夜宴の島よりも……【橘瑞歩】に恋い焦がれてしまっていたらしい。――まったく、恋とは不思議なものだ」

「……よくそんな事、恥ずかしげもなくペラペラと言えるよね。本当に凄いよ、ソウくんは」

「言わせてよ。今まで溜め込んでいた分、口にしないと気が済まない。それに、君はどうにも思い込みが激しい。ストレートに伝えないと、君には正しく伝わらなさそうだ」

 彼はゴホンと咳払いをすると、真面目な顔をして言った。

「――俺は、橘瑞歩が大好きだ」

 私は、強く彼の身体抱きしめると……溢れ出す涙を懸命に堪えながら口を開いた。

「わ……たしも……ソウくんの事が好きだよ。ずっと前から好きだった。大好きだった」

「ん、知ってる」

「……何それ、ほんっと自信過剰!」

「でも、本当の事でしょ?」

 そう言って、悪戯が成功した後の子供のように笑う彼に、やはり私は勝てそうもない。……多分、一生。


 ――こうして、夜宴の島の物語は終わる。


 それからの私達……そして、夜宴の島の皆がどうなったかは誰も知らない。ここから先は……私の書いた、この【夜宴の島の物語】を読んでくれた皆の想像にお任せしたいと思う。

 しかし、私自身が思う事。……やはり、物語の終わりは嫌いだ。

 どんな物語にもいつかは終わりが来る。わかってはいるのだけど……やはり悲しい。


 ――夜宴の島。それは人であらざる者達が、奇妙な面を被り集まる不思議な島。その美しさに、誰もが目を奪われる事であろう。……しかし、この世界にはまだまだ隠された秘密が沢山眠っている筈だ。それはきっと、恐ろしくもあり、切なくもある。宴に参加している者の数だけ、物語は存在しているのだ。

 ……きっと、これを読んでくれている皆の中にも。


 とにかく、夜宴の島のお話はこれにてお終い。けれど、私達の物語はまだまだ終わらない。彼、五十嵐想が傍にいる限り……きっと新たな物語が芽を出す事だろう。

 そしていつか、再び夜宴の島に招かれる事があれば……その時は、皆で最高の宴を楽しみたいと思う。


 夜宴の島は、私にとって……


 第二の故郷なのだから。



 橘 瑞歩 …………【夜宴の島】

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