第11話

十一


 私達は今、夜宴の島から少し離れた海の上にいる。

 たとえ助かる可能性が低かったとしても、白兎を一人にはしたくない。今も、白兎は島の為に一人で抗い続けているのだ。そんな白兎の帰りを、遠くでじっと待ち続けるだなんて……そんな事、出来る筈がなかった。


 せめて白兎の傍で、夜宴の島の結末を見届けたい。


 神々達は、そんな私達の気持ちを考慮し、ここまで連れてきてくれたのだ。結界を張っているので、この位置からだと、恐らく被害も出ないだろうとの事だった。

 黒兎は、何度も何度も島に戻ろうとした。けれど……神々達がそれをさせない。

「儂らは何があっても、お前を島には戻らせんよ。白兎は、お前達を生かしたいが故……何も言わず、一人で島に残ったんじゃ。その想いを汲んでやらねば、あやつが報われんわい。――のう、黒兎。お前の気持ちはよくわかっておる。しかしお前のしている事は、白兎に対する冒涜行為とも言えよう。……辛いじゃろうが、堪えるんじゃ」

 仙人は、言い聞かせるようにそう告げた。

「そんな……! じゃあ、あたしは……弟が死ぬかもしれねぇって時に……こうして、じっとしてるしかねぇって事かよ?」

 黒兎の身体は、まるで魂の入っていない抜け殻のように、へなへなとその場に崩れ落ちた。

 私は……ただひたすら【奇跡】が起こる事を信じ、願い続けていた。

 白兎は死なない……死ぬ筈がない。きっと、何か作戦があって一人で残ったのだ。そうに決まっている。そうに……決まってるんだ。

 隣を見ると、両目を赤く腫らしたまま……じっと島を見つめる彼の姿があった。

 彼の目からは、【夜宴の島の最期をちゃんと見届ける】という……強い意思や信念を感じ取る事が出来る。

 だから私も、ちゃんと全てを見届けなければ……


「――来たぞ!」

 一人が大声を上げたと同時に、島に巨大な隕石が落下した。

 目も眩むような閃光に、皆が目を塞ぎ……激し過ぎる突風に、海が大きく暴れ出す。この周辺に船があったならば……間違いなく沈没してしまうだろう。

 夜宴の島に存在するあの大きな月よりも、遥かに大きなその塊は……ゲーデの言っていた通り、夜宴の島を容赦なく攻撃した。

 ……もう駄目だ。あんなものが落ちてしまっては、夜宴の島が無事である筈がない。そんな事は、誰が見ても一目瞭然だった。

 それなのに私達は……不思議で奇妙な現象を目の当たりにする事となる。

「何……あれ……? 綺麗――」

 巨大な隕石が、まるで何かの力に溶かされるかのように、少しずつ……ゆっくりと……サラサラとした砂のように姿を変え、風によって流されていく。

 島全体が頭から、青く光る【ラメ】のような灰を被ったかのように……キラキラと美しい輝きを放つ。それはまるで、大きなスノードームを見ているようだった。

 これは……スカーレットの時と同じ光だ。


「継承の……光……?」

「な、何と!」

「凄まじい力じゃ……」

「信じられん……」

 神々達は驚きのあまり、次々と声を漏らしていく。

 ――青く輝く、夜宴の島。

 何かが起きた事には違いない。しかしそれは、奇跡と呼んでも良いのだろうか? 

 それとも……

「ど、どういう事だ、これ……? なぁ、仙人! 一体どうなってんだよ⁉ 島は、島は助かったのか⁉」

「――うむ。それはまだわからんが……今のところ、嵐は去ったかのように見えるのう」

「それじゃあ……!」

「しかし、この力……とてもじゃないが、白兎が一人でやったものとは思えん。あやつ……一体何をしよったんじゃ? 隕石が落ちた瞬間、とんでもない力が放出されたのはわかったんじゃが……まさか、夜宴の島が力を貸したとでもいうのか? いや、或いは……」

 目を瞑り、真剣に考え込む仙人の横をそっとすり抜けた黒兎は、突然私と彼の腕を強く掴んだ。

「――ミズホ! ――ソウ! 来い!」

 私と彼は、互いに顔を見合わせ頷くと、急いで黒兎の身体に触れる。

「……あ。ああっ! お前達! 待つんじゃ、おい!」

 仙人は大きな声で叫んだが、時既に遅しだ。黒兎は私達を連れ、急いで島へと【飛んだ】。



***


 黒兎の力で、私達は一瞬の内に……先程白兎が別れを告げた【あの場所】に辿り着いた。

「……シロくんを捜そう! クロちゃん! 場所わかる⁉」

「さっきから気を探ってるつぅの! けど、見つかんねぇんだよ……あいつ、どこにいやがる」

「……海岸だ。海岸なら隕石が島に向かってくる様子を一望する事が出来る。だから、シロはきっとそこにいる! 二人共、急ごう!」

 彼の言葉に、黒兎と私は大きく頷いた。海岸はこの場所からそう遠くはない。私達は無我夢中で走った。

 白兎が……どうか無事でありますように! 

 私は、何度も何度も強く願い続けた。


 海岸では空中に青い光が散らばり、砂浜や海の上を浮遊する。そのあまりの美しさに、私は思わず感嘆の息を漏らした。

 ……何も聞こえない。まるで、聴覚を失ってしまったかのように静かだ。いや……視覚だけに集中し、聞こえている事にすら気付いていないだけかもしれない。

 だって、ほら! そこに横たわる白兎の姿が見える。仰向けで寝転んで、空を見てる。これだけ綺麗なんだもの、白兎だって……この美しい空を眺めていたいよね? 

 そう思い、走って近付いてみると……白兎の目はしっかりと閉じられていた。

 ……けれど、微かに弱々しい呼吸音が聞こえてくる。

 黒兎は大きな声で叫んだ。

「――白兎! しっかりしろ!」

 ソウくんだって――

「シロ! 目を開けろ!」

 そして勿論、私も――

「シロくん……! お願い、目を覚まして!」

 私達が何度も何度も必死に呼びかけ続けると、白兎はそっと目を開けて……聞き取るのが困難なくらい、小さな声で私達に言った。

「み……んな……戻ってきてくれたんだ……あ……れ……? 赤兎……と、スカーレットは……?」

 黒兎は安心したように、『ふぅ~』と大きく息を吐くと……眉毛を下げたまま、少し笑って白兎に尋ねた。

「赤兎? スカーレット? なんだよ、お前……夢でも見てたのかよ?」

 その言葉を聞いた白兎は、フッと優しく笑った。その顔は、とても穏やかに見えた。

「……あぁ……そうか……もう逝っちゃったんだね」

 白兎はそう言うと、震える手を空に翳す。

「ありがとう……お陰で、島を守る事が出来たよ……けど、僕もそろそ……ろ、時間……かな……?」

 伸ばされた手は力無く地面に落ちて、砂粒をふわりと舞わせた。

 そして白兎は、再びゆっくりと瞳を閉じる。

「……おい、ちょっと待てよ! お前、目ぇ開けたじゃん⁉ 助かったんだろ⁉ なぁ!」

 白兎は小さく息を吐く。その姿はとても苦しそうに見えた。

 青年の姿なのに……いつもより小さく見えたんだ。


「……嫌だ、やだよ……やだぁああ! シロくん、お願い死なないでよ」

 私は白兎の後頭部を膝の上に乗せて、必死に声をかける。……けれど、返事は返ってこない。

 乱れた呼吸音だけが、静かなこの島で、哀しくも響き渡った。

「嫌だよ、嫌……これが最後なんて絶対に嫌。どうして? どうしてよ……? ずっと守ってくれるんじゃなかったの? ずっと傍にいるって言ってたじゃない!」

「……ミズホ、落ち着くんだ」

 彼は私の肩に手を置いたが、その手は……まるで彼の悲しみを物語っているかのように震えていた。黒兎は白兎を見下ろしながら、呆然とその場に立ち尽くす。……きっと、受け入れる事が出来ないのだろう。

 今の……この現状を。

 皆が悲しんでいる。皆の胸が……引き裂かれそうなくらいに痛んでいる。皆が、白兎の【死】を拒絶している。

 なのに……嫌だ、嫌だよ……こんなの嫌だ! 


「……ミズホ、泣かないで。――いいんだ。これでいいんだよ」

 白兎の身体がキラキラと星屑のように輝き、まるで白いヴェールに包まれたかのように儚い光を放つ。その中で白兎は、まるで天使のように美しい笑顔で笑った。

「ミズホ、僕ね……君の事が……とても、とても……大好きだったよ」

「私も、私もシロくんの事が大好きだよ! だから、お願い。死なないで……消えないで……!」

「……『おやすみ』って言って、ミズホ。僕はただ……少しだけ眠るだけなんだよ」

 白兎はそう言うと、私の頬に優しく触れた。とめどなく溢れ出す涙が、白兎の手を濡らしていく。

 胸が、苦しい。

「馬鹿野郎が……! かっこつけてんじゃねぇぞ⁉ あたしは……あたしはこれからどうすりゃいいんだよ⁉ 一人でどうやって生きていきゃいいんだよ⁉ ……なぁ、おい。いなくなるなよ。頼むから……」

 黒兎は大粒の涙をポロポロと流しながら、白兎の身体を揺らした。

「はは……っ、僕の事で泣くだなんて、黒兎らしくない。いつもみたいに……強気でふんぞり返っている君の方が……僕、好きだな……」

「うるせぇよ……馬鹿兎……!」

「……ソウ。さっきも言ったけど……僕が逝った後、黒兎とミズホの事、頼んだからね。僕はもう、何もしてあげられないから……さ……」

「あぁ……任しとけ。けど、シロ……お前も消えるなよ? まだ早いだろ? もっと、もっと生きてくれよ……! 俺はお前に……死んで欲しくないんだよ……」

「あは、悪いけど……時間のようだ」

「! シロくん⁉」

 白兎は元の姿に戻る。久しぶりに見た、幼く小さなその身体は……まるで生まれたばかりの赤子のように背中を丸めていた。

 嗚咽が込み上げた。以前、白兎が言っていた言葉を思い出したから……


『あ、でも……【永遠に戻れない】って事はないんだよ? まぁ、それなりに条件はあるけどね』


 ……元の姿に戻る条件。それはきっと、死ぬ時なんだね。


「もう、駄目……僕、何だか凄く眠くなってきたよ……」

「シロくん……!」

「ミズ……――【お姉ちゃん】。僕ね……凄く眠い」

「うん、うん……!」

「お姉ちゃん、大好き……宴の一日目の夜、守ってくれてありがとうね。僕、凄く嬉しかったんだ……」

「私の方が……いつもシロくんに守ってもらってきたよ……いつもいつも、シロくんが私の傍にいてくれた」

 私の言葉を聞いた白兎は、『へへっ』と柔らかく笑った。

「僕ね、お姉ちゃんを僕のお嫁さんにしたかったなぁ……」

「うん……うん……」

「……お姉ちゃん。お願い、言って……? じゃないと僕……眠れないよ……」

 白兎は私に小さな手を伸ばした。私は、その小さくて冷たい手を……ギュッと強く握った。

「おやすみ……! おやすみ、シロくん……おやすみなさい……!」

 白兎は安心したように、にっこりと微笑む。

「うん……おやす……み……」

 白兎の身体は力が抜けたように重みを増し、ゆっくりと……眠るように瞳を閉じる。その目尻から流れた一筋の涙が地面に辿り着いた瞬間……

 白兎は……消えた。


「し、ろうさぎ……? 白兎ぃいいい!」

 ――駄目だ。

「シロ……お前は本当に……馬鹿だ……」

 ――もう無理だ。


 ここにいたくない。

 ここにはいられない。

 ここには、優しい想い出が多すぎる。

 ここには、悲しい想い出が多すぎる。


 ――帰りたい。

 ――帰りたい。

 ――帰りたい。

 帰りたい……帰りたい……帰りたい……! 

 今すぐここから逃げ出したい。

 でなきゃ……壊れてしまいそうだ。


 狸のお爺さんはもういない。

 スカーレットはもういない。

 シロくんが、シロくんが……


 シロくんがいない。


「ミズホ……大丈夫か……?」

 心配し、伸ばされたその手を……私は思わず振り払う。彼は、驚いたように私の顔を見つめた。

「クロちゃん、私……帰りたい。元の世界に帰りたい。ここにいると……苦しくて、辛くて、どうにかなってしまいそうなの」

「ミズホ……お前……」

「お願い、クロちゃん。私には、この結末は耐えられない。ごめんなさい、弱くて……本当にごめ……っ……なさい……」

「……わかった」

 黒兎は私に向かって、手を翳した。

「ソウ、お前もミズホの横に並べ。元の世界に送ってやるよ。……今からあたしが扉を開く。閉じるヤツはもういねぇが、あとから仙人達がなんとかしてくれんだろ! ……世話んなったな、お前ら。この島の事は忘れ、達者で暮らしてくれよな」

 黒兎はそう言うと、真っ赤な目でニカッと笑った。

「……嫌だ」

「…………は?」

「ミズホ……ごめん。俺はここに残る。クロを一人にはしておけない」

「ばっ、てめぇ、何言ってやがる⁉」

 彼の言葉に、私は深く頷いた。

「……わかってる。最初からわかっていたよ。ソウくんはもう、元の世界では生きられない。……クロちゃん、ソウくんの事……お願いね」

「ふざけんじゃねぇ! お前ら、白兎の最後の言葉を忘れたのかよ⁉ あいつはソウに、ミズホの事を頼むって……そう言ってたじゃねぇか⁉」

「――うん。確かにシロくんはそう言った。……けどね? シロ君は、【クロちゃん】と私の事を頼んだよって言ったんだよ。だから……ソウくんは間違えてない。それにきっと……シロくんは全部わかっていたと思う。私は元の世界に戻り、ソウくんはここに残ると。わかっていて、それでもそれを口にした。……私ね、そう思うんだ」

「……俺もそう思う、あいつはとても賢かったから。きっと、クロとミズホ……二人の名前を挙げる事により、俺に二つの道を示してくれたんだ。だから俺は――」

 彼は何かを言いかけたが、突然口を{噤}(つぐ)んだ。

「……いや、なんでもない。とにかく俺はここに残るよ。もう決めたんだ。この考えは……絶対に曲げない」

「で、でもよ! お前達は……!」

「……私が元の世界に戻り、ここに残ったソウくんがクロちゃんを支える。それは結果的に、ソウくんがシロくんの言いつけ通り……二人の事を守った事になるんだよ」

 黒兎は泣きそうな目で私を見つめた。

 これで、いいの。

 これで……いいんだ。


「本当に……それでいいんだな……?」

「ああ」

「うん、クロちゃん。……お願い」

「……わかったよ」

「ありがとう」

 黒兎は再び私に手のひらを翳し、まじないの言葉を唱え始めた。私の身体がボゥっと儚い光を放つ。

「クロちゃん、ごめんね。そして……ありがとう。貴女達に逢えて、夜宴の島に来られて……私、本当に幸せだった」

「……ば~か! あたしも楽しかったよ。弟が最後まで愛し抜いた女がお前で、本当に良かったぜ。元の世界で……精一杯生きろよ」

 私は何度も頷いてみせた。視界が涙で霞んで、黒兎の顔がよく見えない。

「ミズホ、――さようなら」

「ソウくん。……さようなら」

「君と出逢えた事は、俺にとって……間違いなく奇跡だった。ずっと、忘れない――」

 徐々に……ソウくんの声が遠くなっていく。目を開けていられない。この感覚……何だか、とても懐かしいや。


 シロくん……ありがとう。

 クロちゃん……ありがとう。


 そして、ソウくん……


 さようなら――

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