第10話


 ――いい風だ。とても気持ちが良い。三人は無事、島の外に出られただろうか? 

 今頃、あの黒兎の事だ。仙人や神々達に泣き喚きながら懇願している事だろう。『白兎を助けてくれ』、『自分を再び島へと送り返してくれと』と……

 まだ未熟な彼女は、一人ではここに戻ってこられない。誰かに協力してもらうしか方法はないのだ。……しかし、きっと神々達はそれをしないだろうし、黒兎をここには戻さないだろう。

 その為に僕は、隕石が落ちるとされているギリギリの時間まで、ここに黒兎達を引き止めておく必要があった。――そう。助けに戻れる時間などないくらい、ギリギリまで……ね。

 この姿になり、黒兎よりも格段と能力が上がっていた僕には、もう島には誰も残っていない事はわかっていた。それを知りながら、わざと『夜宴の島に残っている者がいないか捜そう』という黒兎の案に賛成したんだ。時間を稼ぐ為だけに……

 一つだけ悔やまれたのは、スカーレットの死だった。

 けれどきっと、僕達が早々と島から退散していても……あの結末は回避する事が出来なかった。

 それならば……この島に看取られ、命を全う出来た事は、彼女にとっても【幸せ】だったんじゃないかと思うんだ。

 彼女は最後の最後にして最高の幸福を手に入れた。……僕はそう信じたい。

「……あぁ、さっき別れたばかりなのに、もう皆に会いたくなるだなんて……僕もまだまだ未熟だなぁ。また皆と楽しい日々を過ごす事が出来たなら、どれ程幸せな事だろう」

 ……そう。きっとこれは本心だ。

 けれど、それでも僕は……やはりこの島を見捨てる事が出来ない。夜宴の島の事を、とても愛しているから。

 だから、この島に隕石が落ちて滅ぶというのなら……僕も島と共に滅ぼう、最初からそう思っていたんだ。

 ……まぁ、簡単には諦めないけどね。


「ミズホ……」

 ――君に逢えて良かった。

 最初君は、結晶の中にいる僕達を見つけた。本来なら、ソウはともかく、【君】に僕達の姿は見える筈がなかったんだ。

 僕はね、その時点で気付いていた。早く君をこの世界に迎えないと……近い内に、君は命を落としてしまうかもしれないと。

 ……きっと、君自身ですら気付いていなかっただろう。

 君が心の奥底では、ずっと……【死】を望んでいた事を。

 それを知ってしまったからこそ、単なる気まぐれで、再びここに連れてこようとしていたあの老夫婦から、島での記憶を奪い取り……君を代わりに連れてくる事に決めたんだよ。

 いつも夢ばかりを見て生きてきた君は……周りから見れば滑稽で、誰にも理解されなかった事だろう。けど、僕はそんな人間を何人も見てきた。サヤだってそうさ。君はおかしくない。だから……卑下する必要なんてないんだよ。

 ……人間ってさ、本当に憐れなくらいに弱い生き物だよね? 決められた道の上でしか生きられない。そうしなければ、生きていく事すら出来ないんだ。そしてそれが出来ない者は、ただ惨めに死んでいくだけ。

 だから……僕が君をここに招こうが招かまいが、死ぬ奴は死ぬ。流石に僕等もそこまで面倒見切れないし、干渉は出来ない。いや……しようとも思わなかった。僕等はただ、きっかけを与えただけに過ぎない。

 けれど君は……僕と黒兎を庇い、守ろうとしてくれた。

 本来ならば、逆に守ってもらわないと生きていけないような君がだ。

 弱いと思っていた君は……ただ【弱い】だけではなかった。


「好きだよ」

「大好きだよ、ミズホ……」

「狂おしい程……君が恋しい」


 これ程までに誰かを愛したのは初めてだった。……男の癖に女々しいだろう? けれど、今でも本当に大好きなんだ。

 君の弱さも強さも、脆さも勇ましさも……何もかもが愛しくて堪らない。君は、僕が初めて命をかけてでも守りたいと思えた人だった。

 ――だけど、最初からわかっていたんだ。

 僕は、どう足掻いても【五十嵐想】には敵わない。

 彼はただの人間でありながら、ミズホの事をとても深く理解していた。

 時にはきつい言葉で彼女を傷付けたり、泣かせてきたりしたけれど……嫌われる事を恐れず、彼女の為ならどんな悪役でもかってみせる彼は……本当に優しい男だ。

 嫌われたくないが故……彼女を甘やかし、居心地の良い場所を提供し、ひたすら優しくする僕の愛情など……彼に比べると、たかがしれているのかもしれない。

「ソウ……ミズホの事、頼んだからね」

 僕はもう彼女に、何もしてあげる事が出来ないから……


 実は、一つだけ心配な事がある。けどそれは、ソウとミズホが決める事だ。僕にはどうする事も出来ない。……出来るなら、彼女がこれ以上傷付かずに済む未来を、心の底から願おう。

「――ミズホ、必ず幸せになってね? この物語の結末は……君にとって辛いものになるかもしれない。けれど、負けないで。心を強くもって。僕が好きになった【橘瑞歩】なら……きっと、どんな困難でも乗り越えられる筈だ」

 そして、いつか君が言っていた【夜宴の島の物語】を……必ず君の手で完成させてよね。

「ははっ、僕も読んでみたかったなぁ。君の描く、美しくも切ない……とびっきり優しい物語を」


 ――ああ、どうしてだろう? 死ぬかもしれないというのに妙に清々しい。あれだけ怖かった【死】も……今なら簡単に受け入れられそうだ。

 黄泉の世界には……赤兎もスカーレットも、狸神だっている。それに、記憶にない父様や母様だって……

「魔女の部屋からくすねておいて良かった」

 僕が持っているこの小瓶は、限界という言葉を知らない。本来持っている力を、何十倍にも、何百倍にも引き上げる事が出来る代物だ。

 ただ、限界がないとはいえども……それは、【肉体がある限り】の話となる。肉体が先に消滅してしまえば、威力は発揮されない。ようは、この身体が持つか持たないかで決まる。

 しかし、大人の身体を手に入れ、以前よりも遥かに力が上がっている状態でこれを飲むのだから……耐性は、子供の姿の時に比べればまだずっとマシだろう。

 ――この状態なら、いけるかもしれない。僕は急いで薬を飲み込んだ。

「夜宴の島は……僕が必ず守ってみせる。この島での夜を、絶対に終わらせはしない。それが……死に損ないの僕に出来る、最初で最後の恩返しだ」

 空を見上げると、今までに見た事がないくらいの大きな石の塊が、猛スピードでこちらに迫ってきていた。


 ……ゲーデ、君って本当に容赦ないよね。絶対に、友達にはなれそうもないや。


 僕は空に手を翳し、ありったけの力を込めた――



 ごめん、黒兎……


 後は……頼んだよ。

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