第6話


 ――夜明け。雨はいつの間にか止んでいたけれど、屋根に溜まった大きな雫が、ぽとん、ぽとん……と、名残惜しそうに悲しい音を鳴らしていた。

 私はテントウの身体にひっついたまま、離れようとはしなかった。彼はそんな私を優しく包み込みながら、消え入りそうな小さな声で鼻歌を口ずさんでいた。

 ずっと昔、音楽の時間に習った事がある曲。ベートベンの喜びの歌。テントウはゆっくりと弱々しく、そして不器用に、そのメロディを奏でていく……

 それはまるで子守唄のように穏やかで、心地良くて、私には聖歌のように思えたんだ。


「テントウ……私ね、ずっとこんな風に甘えてみたかったんだ。だから今、すごく幸せな気持ちなの」

「ははっ! お前、何だかガキみてぇ」

「そう。子供なんだよ。だから、本当は誰かに甘えたくて、優しくされたくて、我儘言いたくて、それに……溺れてしまうくらいに、誰かに愛されてみたかった」

「……今日は、えらく素直だな」

「テントウの前だからだよ」

 私はテントウの手を取ると、そっとそれを自分の頭の上に置いた。

「……こんな風に、『よしよし』してもらったり、『良い子、良い子』って言ってもらいたかったの。決して良い子じゃない私の事を、良い子だと言って褒めて欲しかった……子供扱いされたかったの。それって、おかしい事かな?」

「いや、いーんじゃねぇの? きっと心が成長に追いついていってねぇんだよ。本当のハナは甘えん坊なんだな。……やる時は乱れまくるくせに」

「……テントウにだけだよ、そうなるのは」

「やっぱ変態」

「いいよ、テントウの前だけだから」

 私がそう言うと、彼は何も言わずに私の頭を撫でてくれた。

「……ハナは良い子だよ。すっげぇ良い子だ。だから、あんま自分を責めんな」

 そうやって……いつもテントウは、キラキラした優しい笑顔を私に見せてくれる。この短期間の間、その笑顔にどれだけ私が救われてきたか、彼はきっと知らないだろう。

「ほ~ら、また泣いてる」

「……あ。ふふっ、本当だね。けど、いいの。この涙は、前までのものとは全然違うような気がするから」

 テントウの事を想い、溢れ出る涙は……私の頑なで情けなく、みっともない心を溶かしていくようだった。


 私……好きなんだ。きっと、彼の事が。


 身体が交わってしまったせいで、私の中のテントウの存在が、より深く心に刻み込まれてしまった。

 けれど、彼に好きだと伝える事がどうしても出来ない。

 だって、本気で人を好きになると……その内きっとうまくいかなくなると思う。相手に嫌われたくないあまりに我慢してしまう事が増えるし、酷く臆病になる。そのくせ独占欲ばかりが膨れ上がり、身動きが取れなくなってしまう事は目に見えているのだ。……現に私は、律子という女性の事を何一つ聞けずにいるのだから。

 しかもテントウは、私を誘拐してここに連れてきた張本人で、その真意も未だにわかってはいない。

 時折悲しそうな顔をしたり、意味深な事を口走ったり、我を忘れてしまうくらいに取り乱してしまうその理由を……私は何一つとして知らないのだ。


「……ねぇ、テントウ。キスして?」

 私がそう言うと、テントウはすかさず私の唇にキスをした。一瞬触れるだけの軽いキス……何だか物足りなくて、更におねだりしてみる。

「違う、もっと深いのを頂戴」

「ったく、我儘なお子様だなぁ。……ほら、舌出せ。気ぃ失ってもしらねぇからな」

 貪るように噛み合うように……このまま、息が止まってしまってもいいと思った。

 私の中にある幸せは、テントウの傍にいる事なのかもしれない。飼い主に首輪と鎖で繋がれたような関係かもしれないけれど、それでいいの。

 私の事をもっともっと甘やかして。その分、貴方から離れられなくなるから。甘い蜜を落として、私の全てを支配して欲しいの。

 私の中で、唐突にショパンの幻想即興曲が流れ出し始めた。先程テントウが口ずさんでいた喜びの歌とは違い、どこか不安を感じさせる哀しい曲だ。

 不安で苦しくて、切ない。こんな気持ちになったのは、何年振りだろう?


『――ハナは良い子だよ。すっげぇ良い子だ。だから、あんま自分を責めんな』


 テントウのその言葉だけが、涙の海に沈んだ私を、力強く引っ張りあげてくれるのだ。その手を離してしまうと、その手を離されてしまうと……私は深い海の底に沈み、瞬く間に溺死してしまうだろう。

 だからね、絶対にこの手を離したくはないんだ。

 私は、初めて私の全てを理解し、受け止めてくれる人に出逢った。けれど、それはきっと不幸の前兆で……この先の二人がどうなってしまうのかは、誰にもわからない。


 あの後すぐに、テントウが眠ってしまったので、私は服を着て外に飛び出した。

 草は露をため、花は瑞々しさを増す。私は伸び切った草の間を駆け抜けて、昨夜テントウがいた場所へと向かった。

「あ……あった!」

 水溜りの中に半身を沈める、テントウの携帯電話。液晶部分は割れ、本体も原形をとどめてはいなかった。

 けれど、私が探しにきたのはこれではない。

 私は近くに落ちていたてんとう虫のストラップをそっと拾い上げる。上に乗っていた小さなバッタはぴょんぴょん跳ねると、やがて見えなくなった。

 私はこれを拾いにきたのだ。勿論、これはただの小さな飾り物に過ぎない。けれど、こんな所で独りぼっちにはしたくなかった。

 これは、彼に【テントウ】という名を与えるきっかけとなった大切なものだから。

「汚れ、落ちるといいけど……」

 私は汚れたままのてんとう虫を、構う事なくポケットの中に眠らせた。

 携帯電話からほんの少し離れた場所に、黒い携帯ケースを見つけた。手帳型ケース等ではなく、柔らかい素材のTPUケースで出来ていたそれは、薄汚れ以外のダメージは見当たらない。

 その内部には、一枚のプリクラが貼られていた。

 その中に写っていたのは、スーツを着た数人の男女の姿。私の視線は、その中の一人だけに注がれていた。

「この、髪が黒いの……テントウだ」

 私は、プリクラに写るテントウを見た時……気付いてしまったかもしれない。

 髪の色一つで、人はここまで印象が変わるのか。金髪のテントウには見覚えはなかったけれど……目の前の真面目そうな黒髪眼鏡の青年には、ほんの少しだけ見覚えがあった。

「もしかして、テントウって……」

 プリクラには、それぞれの名前が書かれてある。そして、彼の身体に重なる部分に……青色の縁取りペンで書かれてた名前。

「これが……テントウの本当の名前……?」

 思わぬところで、私は彼の下の名前を知ってしまった。そして、私の記憶が正しければ……きっと、彼の苗字は――

 私は目を瞑り、首を左右に振ると、その携帯ケースを茶色い水溜りの中に放り込んだ。

 ――これで大丈夫。テントウがこのプリクラの存在を思い出し、急いでここに来たとしても……汚れた水をふんだんに含んだプリクラは、すぐに顔も名前も確認出来なくなるだろう。そうして、テントウは安心する筈だ。ハナに、自分の正体を知られずに済んだと。

「これでいい。私は何も知らないまま……ハナとして、テントウの傍にいられたらいいの」

 私は雨上がりの空を見上げた。昨日の土砂降りが、まるで嘘かのように……青く澄み渡っていた。

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誘拐犯 前編 夢空詩 @mukuushi

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