第5話


「テントウ、遅いなぁ~」

 私達は夕食を終えると、オセロやトランプをしては、楽しい時を過ごしていた。

 現在テントウはお風呂で、その間に洗い物を済ませた私は、「退屈だなぁ」なんて口にしながら、ダイニングテーブルの上に顔をうつ伏せていた。

 戸板に当たる雫の音。一つのものから生まれる複数の音楽。


 とんとん。

 ぱらぱら。

 ざぁざぁ。


 ――ぽとん。


 しとしと。

 どんどん。

 ぽたぽた。


 ――ぴちょん。


 私はその音に導かれるように、窓の方に目を向けた。

「テントウの言ってた通りだったなぁ……外、凄い雨だ」

 雨が奏でるシンフォニーは、私の心を穏やかにし、優しい睡魔を運んでくる。

 私はゆっくり目を閉じると、色んな思想を頭の中に巡らせていた。

 今日も楽しかったなぁ。――幸せだった。

 テントウと初めて逢った夜も、雨が降っていたっけ。あの時はまだ、私は彼の事を最低な男だって思っていた。

 けれど……今は違う。テントウといると、今まで見てきた世界は、なんてちっぽけなものだったんだろうと思えるのだ。彼といる事で、私の世界は無限に広がり続けていく。

 ――ねぇ、テントウ?

 もしかして私、貴方に騙されているのかもしれないね。テントウの手の中で私は、上手く転がされているだけなのかもしれない。けれど、そんな事は別にどうだっていいの。たとえテントウに騙されていたとしても、私はそれ以上に彼に救われているのだから。

 テントウは、今の私の大切な家族だ。だから私も、彼が悩んでいるのなら……力になってあげたい。

 そんな事をぼんやり考えていると、無機質なコール音とバイブ音が、突然ダイニングルームに響き渡った。

 私はパチリと目を開く。

「あ……テントウの携帯が鳴ってる……」

 ――珍しい。ここに来てから、私は初めて、テントウの携帯が鳴っているの耳にした。

 誰からだろう? テントウに知らせた方がいいのかな? ずっと鳴り続けているし……もしかして大事な用があるのかもしれない。

 私はテーブルの端に置きっ放しにされていたテントウの携帯に手を伸ばした。

「えっ……」

 ……見るつもりなんてなかった。

 けれど私は、画面に表示されていた名前から目を離せずにいた。

「『律子』……?」

 私は即座に携帯から手を離した。モヤモヤとした感情が一瞬の内に、身体全体を駆け巡ったからだ。

 害虫が、身体の中を這いずり回っているかのような不快感。頭のてっぺんから足の爪の先まで、まるで墨汁でも垂らされたかのように黒くなっていく感覚。

 ……何なの、これ? 私、何だか変だ。

 室内はいつの間にか静寂を取り戻している。それなのに私の心は、嵐に飲まれた海原のように、今でも激しく荒れ続けていた。

「律子さんって、誰……?」

 別にテントウが何かしたというわけではないのに、電話の相手が誰かも知らないのに、私は苛々していた。

 目尻にじんわりと涙が浮かび始める。ただの友達や知り合いかもしれない。家族という可能性だってある。なのに……なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう?

 裏切られてなんかいないのに、裏切られたような気持ちになる。不安の波が、自分勝手な私を仄暗い水の底へと誘い、そのまま深く沈めていくのだ。

 たった今、私達だけしかいなかった世界に、大きな亀裂が入ってしまったような気がした。

「何なのよ、もう……私には何の関係もない話なのに、何でこんなに嫌な気持ちになるの」

 私とテントウは、別に好き合っている関係などではない。だから、その歪んだ気持ちをテントウにぶつけられる筈もないのだ。だって、私達は何の関係もない赤の他人。嫌われるとわかっていて、わざわざ重い言葉を口にする必要もないだろう。

 何より私はテントウに……こんな黒くて醜い自分を知られるのが嫌だった。惨めでみっともなくて、情けない程に自己中心的な想い。

 こんな感情に気付きたくなんてなかった。

 欲しくもなかった感情が、私の心を支配していく。

「……テントウが欲しい。彼を、私だけのものにしたい」

 私は既に、狂い始めていたのかもしれない。悪い子になり始めていたのかもしれない。テントウの事を、まだ本当に好きかどうかもわからないのに……それでも、彼の全てを手に入れたいと、心の底から願っていた。

 黒い嫉妬から生まれる独占欲。

 ……ねぇ、テントウ。

 電話の相手は……貴方の、大切な人?



***


「おー。悪りぃ悪りぃ! 洗面所にな、虫がいたんだよ、虫。お前虫駄目だろ? だから、取っ捕まえんのに苦労してさ」

「いっその事、そのまま置いといても良かったけどな~」と、悪戯っ子のように笑うテントウは、タオルで髪を拭きながら、私の顔をそっと覗き込んだ。

「あれ……? お前、また泣いてんの?」

 テントウの髪から落ちた雫が、そのまま私の頬を流れ落ちる。冷たい雫が温かな雫と混ざり合い、私の口角の上を、一直線に通過した。

「髪くらい……ちゃんと乾かしてきなさいよ」

「……あらら? ハナさん、何だかご立腹ですねぇ。何だよ、何怒ってんだよ? 俺が先に風呂に入ったから? それ、お前がジャンケンに負けたからじゃん」

「違うし! 何でそんな事で怒らなきゃなんないのよ?」

「じゃあ、何で怒ってんだよ」

「怒ってなんかない」

 そう、別に怒っているわけではない。不安なんだよ、悲しいんだよ。それなのに……やっぱりテントウは何もわかってくれない。

 実際、何も口にしていないのだから、わかる筈なんてないのに……それでもわかって欲しいなどと思ってしまう自分に、ほとほと嫌気がさしてくる。

 我儘で自己中で、本当に救えない女だ。

 私は止まらない涙を懸命に拭い取った。

「お前……マジで何かあった? いつもと様子が違うんだけど」

 そう言うと、彼は隣の椅子に腰を下ろす。

 それと同時に、私は椅子から腰を上げた。

「別に何でもないよ。ごめん。昔の事とか色々考えてたらさ、何だかちょっと悲しくなっただけ。……もう平気だから」

「……ったく。今までの事は、全部忘れろって言っただろーが?」

「ん。そうだね。悩むだけ無駄だって事はちゃんとわかってるよ。けど、何でかな? さっきからずっと、涙が止まってくれなくてさ」

「……いつかきっと、俺がお前の涙を止めてやるよ。辛い事や悲しい事は、全部忘れちまえばいーんだ。俺がずっと、お前の傍にいてやるから」

 何も知らないテントウは、何も知らないからこそ、無神経な言葉を口にする。今、私を悩ませているのはテントウ自身だというのに。

 この涙は、貴方にはきっと止められない。

「……お風呂に行ってくるね」

 そう言うと、私は静かに部屋から出た。


 湯船に浸かりながら、私はぼんやりと天井を眺めていた。私の心と比例するかのように、雨音は激しさを増していく。浴室まで響いてくるこの音は、まるで私の気持ちに同調してくれているかのように思えた。

「今頃テントウは、律子さんに電話でもしてるのかな……嫌だな。すごく嫌だ」

 急に悲しくなって、苦しくなって……それを紛らわせる為に熱いお湯の中に顔を沈めると、途端に雨は音を失った。

 お湯の中から見た世界は、不安定な私の心と同じように、中途半端に揺らめいて見えた。

 私は「ぷはっ!」と顔を出すと、火照った顔に冷たいシャワーをぶっかける。そんな無駄な事を数回繰り返しては、小さく溜息を吐いた。

「何だか三日目にして、ここにも居辛くなっちゃった……」

 ――嘘だよ。嘘。

 ずっとここにいたいよ、帰りたくないよ……けれど、私とテントウだけの世界に、他の誰かが加わるのは嫌なの。

 テントウには今でも、こことは違う自分の世界がある。その時点でやはり、独りぼっちなのは私だけなのだ。

 今頃、私のもう一つの世界はどうなっているのだろうか? 私の事を、今でも必死に探してる? それとも、もう既に忘れちゃってるのかな?

 後者であって欲しい。あの世界はきっと、いつの日か私を殺してしまっていた。そんなところに戻りたいとは思わない。

 びっくりしてしまうくらいに、私はこの状況を受け入れていた。あの日テントウは、私が頑なに閉じ切っていた心の扉を、暴言を吐きながら暴力で無理やりこじ開けた。それなのに……今度は私を傷つけないように靴を脱いで、そっと中に上がる。ゆっくり、ゆっくりと長い廊下を抜けて、その先で蹲って泣いている小さな子供のような私に、甘い飴と、心地良い安らぎを与えてくれるのだ。

 テントウは優しい。口は悪いし、馬鹿だし、よくわからない部分も沢山あるけど……それでも、テントウは優しいの。

 テントウは私の事を……一体、どう思っているんだろう?

『お前が俺の空に雨を降らせたあの日から、俺は空ばかりを見上げるようになったんだ』

 多分、テントウが初めて口にした本音。ずっと意味を考えていたけれど、やはり答えは見つからなかった。……けど、どこか引っかかる。何か大切な事を忘れてしまっているような、そんな感覚。しかしそれを聞いたところで、テントウは絶対に口を割らないだろう。

「テントウの馬鹿。私の中には平気で入ってくるのに……どうして貴方の中に、私を入れてはくれないの?」

 自分でも嫌になるくらい、テントウの事ばかり考えてしまう。

 今日はここで暮らし始めて三日目の夜。私達が出逢ったのは四日前。そんな短期間なのに、私はどうして、こんなにも貴方の事を考えては苦しんでいるのだろう? どうしようもなく、寂しくて堪らない。

「私にはもう……テントウしかいないのに」


 ――ガシャン!

 私がお風呂から上がるのとほぼ同時に、何かが割れる音が聞こえてきた。

「な、何? 今の音……まさか、泥棒⁉」

 バスタオルを巻いたままの状態の私は咄嗟に身構える。すると、ドタバタ走る派手な足音と、玄関のドアが乱暴に開け放たれる音が聞こえた。

「……テントウ?」

 私は下着とルームウェアに手を伸ばし、急いでそれらを身に纏うと、廊下へと続く扉に手をかけた。

 玄関ドアがきちんと閉められていなかったせいで、風が大胆な開閉を繰り返している。大きな雨粒が、置きっ放しにしていた靴や玄関マットを著しく濡らしていた。

 そして、いつもならそこにある筈のテントウの靴が見当たらない……

 何かが割れる音の正体が、リビングに飾られていた花瓶なのだという事はすぐにわかった。この位置からでも、はっきり確認出来たからだ。床に落ちている破片の間に、悲しそうに横たわる白い花……散ってしまった数枚の花弁は、濡れて床に張り付いていた。

「これ、テントウが割ったの……?」

 昼間……二人で詰んだ、小さくて可愛らしい花。『花を飾るだけで部屋が華やかになるね』という私に、『悪くないな』なんて言って、笑っていたテントウが……一体、どうして?

 ……今は考えるより、彼を捜す方が先だ。

 私は急いで靴を履くと、飛び出していったテントウを追って、外に出た。



***


「――テントウ! どこにいるの⁉ ねぇ、テントウ!」

 雨が酷い上に、風も強い。更に外は草原、辺りに外灯のようなものは一切なかった。なので、この視界の悪い暗闇の中、闇雲に捜すよりほかはない。

 テントウ、どうしたの? どこに行っちゃったのよ……一体、何があったの?

 胸騒ぎが止まらない。不安が襲いかかる。

 とにかく私は、大声でテントウの名を呼びながら、真っ暗な草原の中を走り続けた。

 ――テントウは、思いの外早く見つかった。

 彼の明るい髪が、闇を照らす光のように、私をその場に導いてくれたから。

 その弱々しい輝きは、私に……自分はここにいるよと伝えているかのようだった。

 私は、吹き荒れる風と止まぬ雨の音に負けないくらいの声で、テントウに呼びかけた。

「テントウ! 何やってるのよ⁉ 今そっちに行くから!」

「――来るな!」

 テントウの怒鳴り声に、私は思わず足を止める。……こんな彼を見たのは初めてだ。私は比較的優しめの声で、再び彼に話しかけた。

「テントウ、どうしたの……? 折角お風呂に入ったのに、そんなに濡れちゃったら意味ないじゃない。……ほら、一緒に帰ろう?」

「俺の事はほっといてくれよ、暫く一人にしてくれ。落ち着いたら、ちゃんと帰るから……」

「ほっとけないよ! ほっとける筈がないでしょう⁉ 逆の立場ならテントウは私を放っておくの? おかないよね⁉」

 私は一歩ずつ、テントウに近付いていく。彼はそれを止める事なく、黙り込んだまま俯いていた。

「テントウ……一体、何があったの?」

「……なぁ、ハナ。この世界は、何でこんなにも異常なんだろうな。本当はさ、いかれちまってるのはお前じゃないんだよ。周りの人間の方なんだ。周りがおかしいから、お前は息が出来なくなる。周りがおかしいから、お前は死に急ぐようになる。……そうやって結局はさ、悪くない奴らが死んで、下らない奴らが笑って生きていくんだ」

「だから俺は……」、そう言うと彼は、顔を酷く歪めたまま、自嘲めいた笑みを浮かべた。

 笑っているけど、泣いている。

 泣いているけど……笑ってる。

 ――彼は、私とは逆だ。

 テントウはいつだって……涙を流さずに一人で泣いていたのだ。


「……あー、もう。こんなもんいらねぇや」

 そう言うとテントウは、携帯電話を地面に強く叩きつけた。そしてそれを、何度も何度も足で踏みつける……

「ハナがいれば、それでいーや」

 テントウは眉を下げながら笑った。いっそ泣いてしまえばいいのに、それでも泣かないのは……彼がもう大人だから。

 そして泣けないのは、彼はもう……子供ではないから。

 雨に濡れ、土で汚れたてんとう虫は、自分を足蹴にする男を悲しそうに見つめていた。

「俺さ……壊れるのはいいけど、壊されんのは嫌なんだ。勝手に色んな事を決められんのも嫌だ。だから……色々と決断したかったんだよ。ははっ、わけわかんねぇよな。けど……それでいーんだ。お前は何も知らないまま、俺の傍にいてくれればいいんだよ」

 着衣に大量の雨を含んだテントウの身体は、とても重たかった。……けれど、私はもうわかっている。

 それ以上に、彼の抱えているものは重いのだという事を。


 テントウ。泣かないで。

 テントウ。泣かないで。

 そんな風に涙を隠したまま……誰よりも悲しそうに泣かないで。

 お願いだから……

 

「……テントウ、行こう。風邪引いちゃうよ」

 私はテントウの手を引き、ゆっくりと歩き始める。彼は、一言も口を開く事なく沈黙していた。

 ……きっと、あの律子という人のせいだ。だからテントウは、携帯を壊した。あんな風に取り乱した。――許せない。テントウを傷付ける人なんて、いなくなってしまえばいい。

 私は怒っていた。悲しんでいた。けれど……どこかで喜んでいた。本当のテントウの知れたような気がして、嬉しかったのかもしれない。

 忘れてしまえばいい。私以外の人間を、見放してしまえばいい。捨ててしまえばいい。私だけは、何があってもテントウの傍にいるから。

 ずっとずっと、傍にいるから。


 私はしっかりと施錠し、一階にあるテントウの部屋に一緒に入ると、べッドの上に彼を座らせた。

 そして、何も話そうとしないテントウをそのまま押し倒すと……彼の上に跨り、キスをする。

 テントウは一瞬、驚いたように目を見開いたけど、すぐに私の後頭部に手を添え、舌を絡ませてきた。

 ヌチャヌチャと卑猥な音を鳴らしながら、私達は何度も何度もキスをした。唇が少しでも離れようとすれば、どちらからともなくそれを阻止する。

 私達はまるで、引力に引き寄せられるS極とN極。離れることなど許されない。……このまま溶け合って、一つになれたらいいのに。

 ――漏れる息が熱い。紅潮した顔が熱い。そして、快楽に身を委ねようとする身体が熱い。

「テントウ……しよ?」

 そう言うと私は、テントウの大きな手のひらを自分の胸に当てる。潤んだ瞳で見下ろす私を、彼は何も言わずに見上げていた。

「私ね、恥ずかしいんだけど……不感症かもしれない」

「……不感症?」

「うん……昔からそうだったわけじゃないんだけど、その……英慈としても全然感じなくて。だから私、テントウの事を悦ばせてあげる事は出来ないかもしれない。でも……」


 私は何を言っているのだろう? なんて恥知らずな女なのだろう? そうは思っているものの……この高ぶり過ぎた感情は、言葉にしてしまわないと収拾がつかない。

 もはや、手遅れなのだ……


「私ね、テントウに抱かれたいの。貴方に触れたいし、触れられたい。こんな事を口にしてしまう自分が信じられない。本当に、恥ずかしくて堪らないよ。けどね、テントウにだけは正直でいたいの。私の全てを見て、知ってもらいたい」

 私の心臓が生きている間に鳴らさなければならない回数を、たった今超越してしまったような気がした。この音はきっと、テントウにだって聞こえているだろう。

 手が緊張のあまりに震えているのがわかる。それに気付いたテントウは、ゆっくり上半身を起こすと、自分の手を私の手の上に重ね、力を込めた。

「ばぁか……」

 テントウの唇が再び私の口を塞ぐ。絡み合う舌が唾液の糸を引き、呼吸が荒くなっていく。けれどテントウは、何度も方向を変えては、私に深いキスを落としてきた。

 このままでは酸欠になってしまいそうだ……虚ろになっていく瞳は、しっかりとテントウの姿だけをとらえていた。

「……悦ばせてやるのは、男の役目だろ」

 彼はそう言いながら、今度は私の首筋に唇を這わせていく。……身体がびくりと反応した。同時に異常なまでに興奮してしまっている自分に気付き、言い知れぬ羞恥の情に駆られる。

 テントウは慣れたように私の着衣を脱がすと、自分の着ていたTシャツをベッドの下に脱ぎ捨てた。その仕草や彼の表情が妙に色っぽくて、私の頬はますます熱を帯びていく。それなのに……その上を熱いのか冷たいのかよくわからない温度の水滴が流れ落ちた。

「……ハナ、泣いてる。やっぱやめる?」

「やだっ……やめないで、お願いだから」

 気付けばまた、私は泣いてしまっていたようだ。テントウはその涙を舌ですくい取ると、そのまま私に口付けた。

 ……しょっぱい。思わず口角が緩む。少しだけ緊張がほぐれたかのように思えた。

 テントウ、私ね……テントウの事を愛しているかどうかはわからない。けど、急スピードで惹かれていっている事くらいはわかっているつもり。

 貴方が私を好きじゃなくたっていい。彼女がいたって別にいい。今は私だけを見て欲しい。……愛して欲しいの。

 きっと、私はいつか罰されるでしょう。強欲で身勝手な私は……底のない沼にはまり、身動きが取れなくなる事でしょう。

 それでも、貴方に抱かれたかった。それは、罪でしょうか? 惨めで、憐れでしょうか?

 それとも――


 雨の音。止めようとしても止めようがない女の声。

 雨の匂い。鼻孔を掠める男と女の香り。


「テントウ、駄目っ……私……また……」

「……はっ、何が不感症だよ。正常じゃん。単にその男が下手だっただけだろ?」

 彼は……火照る身体が潤わせているそれを、わざとらしく指先で光らせながら、私に見せつけてきた。

「あれ? ここ、何かすっげぇ事になってるけど? 大丈夫~? ……なぁ、変態」

 そう言って妖しく笑うテントウに、私は身体だけではなく、心までも奪われてしまいそうになる。……抗えない。争う気力も持てないくらいに、私は彼に忠実だった。

「ん、だって……すごく気持ちいいんだもん。そうさせたのはテントウでしょ? だったら、もっと私を感じさせてよ。まだ足りない……もっと、もっと欲しいの」

「了解。……後悔すんなよ?」

「――んんっ! っはぁ……っ……」


 テントウとの行為は、まるでいけない事でもしているかのような気分にさせた。犯罪だと言ってしまえば大袈裟だが、私はそれに近いものを感じていた。

 背徳感、罪悪感等が一気に押し寄せてくるものの、それが逆に……私を淫らな女に変えていってしまう。

 親や先生に『してはいけない』と注意されたら、更に興味が湧いてしまうのと同じ。駄目だと言われる度に、好奇心は膨れ上がるものだ。要はその後、苦しむか開き直るかの話。

 ――良い子なら前者。悪い子なら後者。

 そして私は、良い子ではなかった。いや、そもそも私が良い子であったなら、私達はこんな関係にはならなかっただろう。自制心、道徳心が上回り……過ちを犯さずに済んだ筈だ。

 けれど、テントウに抱かれなかった未来を生きていくくらいなら……私は悪人でいい。テントウを欲したこの気持ちに、嘘偽りなどないのだから。

 抜ける事の出来ないループにはまり込んでしまった私は……この先、深く堕ちていくだけだろう。

 きっと私は、テントウなしでは生きていけなくなる……

 それをちゃんと、理解していたから――

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