第4話


「何これ可愛い! んっ、しかも美味しい」

「どうだ、俺特製ナナホシサンドは! 色、味、形、全てがパーフェクト。絶品だろ?」

「うん本当に美味しい! けどナナホシって、寄せるねぇ~。実は結構気に入ってるんでしょ? その名前」

「ん? まぁな! 俺てんとう虫好きだし。小さな身体で自由に飛んでいけるところが、すっげぇかっこいいじゃん」

 私がここに連れてこられてから、既に二日が経過していた。ようするに今日は三日目の朝だ。私は今、テントウの作ったナナホシサンドなるものを食べている。

 この数日で彼とも大分打ち解けてきたし、うまく生活していけてると思う。それに、一緒に暮らしていく内にテントウの事が少しずつわかってきた。

 まずは、動物や虫、生き物が好きな事。草原を抜けて森に入ると、リスやイタチ、小鳥などが沢山いた。テントウは子供のようにはしゃぎながら、それらをとても可愛がっていた。

 時には蛇を手で掴んだり、カブト虫を私の顔面に押し付けてくる事もあった。私はその度に叫びながら逃げ、テントウはそれを見て笑う。彼はとても悪戯好きな性格なのだろう。

 口は悪いが、意外と良い人なのかもしれない。「生命あるものは皆好きだ」と言って笑った彼の顔が、とても優しかったから。

 あと、テントウは電気を点けたままじゃないと眠れない。理由はわからないけど、一階のテントウの部屋に顔を出した時、消し忘れかと思って電気を消したらすごい剣幕で怒られた。急いで電気を点け、顔を見ると真っ青で……何かトラウマでもあるのかな、なんて思った。

 他には酸っぱいものが嫌いで、読書が趣味。バトミントンは下手。料理は得意。それと、とにかくモノマネが上手すぎて、私はそれを聞く度、ゲラゲラと腹を抱えて笑った。

 この短期間で、私はテントウの事を沢山知れた。それはきっと彼も同じ事だろう。

 だけどお互い、自分の素性は語ろうとしなかった。私自身、テントウの過去にあまり興味はない。

 テントウとハナ。名前さえあれば、そこに存在理由が生まれる。――彼はテントウ。私はハナ。想い出は、これから沢山作っていけばよいのだ。

 今までの生活の後始末も何もしないまま、ここに逃げてしまった事……気にならないと言えば、それはやはり嘘になる。油断すると、罪悪感や不安に押し潰されそうになって苦しい。

 そんな時テントウは、私の手をギュッと強く握ってくれた。それが私の安定剤となり、特効薬となっていったのだ。

 私の中でテントウの存在が大きくなっている事には勿論気が付いていた。よくテレビや本で見るアレかな?

 誘拐犯に監禁された事で、全てを失ってしまった被害者の世界は狭まり、やがてそこの住人は犯人だけとなる。

 そうなると、まるでマインドコントロールでもされたかのように、被害者は犯人に好意を抱き、依存してしまう。――ストックホルム症候群だっけ?

 ……馬鹿馬鹿しい。私は監禁なんてされていないし、帰るつもりはないが、帰ろうと思えばいつでも帰れると思う。大体『彼に好意を抱いているのか?』なんて聞かれると、少女漫画じゃあるまいし、あるわけがないと即答出来てしまう。

 けれど、一つだけ当てはまるというならば、私の世界の住人は今、テントウ一人だけだという事だ。

 それはきっと、彼と私は共犯者だから。恋愛感情は生まれなくても仲間意識は強い。

 きっと、そういう事だ。


「ねぇ、今日は何しよっか⁉ バドミントンやキャッチボールはもう飽きちゃったよねぇ。そうだ、鬼ごっこでもする?」

「あー……今日は外に出るの勘弁な。昨日も一昨日も一日中遊んでやっただろ? 俺は疲れたの! だから今日は家でゆっくりしますので、行くなら一人でどうぞ」

「えー! 一人じゃつまんないよ」

「知るかよ。外は暑いし俺は筋肉痛なの。とにかく、今日はパスな」

 テントウは後ろの本棚から本を一冊手に取ると、机の上に置いてあった眼鏡をかけた。

「じゃあ、今日は私も本を読む!」

 そう言って、本棚の方に足を向かわせる私。その姿を見たテントウは、意地悪そうにニンマリと笑った。

「おいおい、お前本とか読めんの? あいにくだが、ここには漫画や挿絵入りの小説なんかはねーぞ?」

「読めるわよ! 失礼ね」

 ケラケラ笑うテントウを無視し、私は本棚の前に立った。

 沢山の本が並ぶ大きな本棚。――さて、どれを読もう? ざっとそれらを目で追っていくと、見覚えのあるタイトルを見つける。私は少し考えた末にそれを取り出した。

「うわぁ、ベタな恋愛小説……」と、テントウは苦い顔をしながら舌を出す。

 好きじゃないなら何故ここにあるのか? それは聞くだけ無駄な話だ。この小説は映像化され、多くの反響を呼んだ作品。テントウが最初からこの手の小説を購入していたとは思えないので、恐らく『有名な作品だし取り敢えず買ってみたが気に入らなかった』、そんな所だろう。

 私は椅子ではなく、床の隅っこの方に座り込んだ。こっちの方が何だか落ち着くからだ。

 表紙を開いてみると、窓から吹き込む柔らかな風が、まだ読み始めてもいない本のページをペラペラと捲る。

 私はクスリと笑うと、そっとそれを閉じた。

「これ映画で観たんだよね。けど、ヒロインの気持ちに何の共感も出来なかった。内容もわざと泣かせようとしてるのが、逆に白けてしまうというか」

「ははっ、正論。同意見だわ。じゃあ、何でそれを選んだんだよ?」

「うーん、何でだろう? ……何となく?」

「ふーん。ま、読んでみれば? 本と映画じゃ、やっぱり全然違うしな」

「もしかして共感出来る部分が見つかるかもしんねーし」、テントウはそう言うと椅子から立ち上がり、私と同じように床に座り込んだ。遠くも近くもない、中途半端な距離。

 心地の良い、穏やかな時間が流れていく。

 私は、せっかちな風に先を追い越されないよう気を付けながら、再び本を開いた。


 ――読み始めて半時間が経過していた。私は思った、やはりつまらないと。

 映画に比べたら幾分マシだとは思えたが、だからといって、面白くないものは面白くない。

 私はチラッとテントウの方を見た。彼は熱中しているのか、私の視線に気付く事なく、真剣な表情で次々とページを読み進めていく。

 あの大きな手が包む小説の内容がどんなものなのかは、読んだ事がない私にはわからないけど、何だか難しそうなタイトルだったので、私なら数分足らずで夢の世界にいってしまえるだろう。

 私は時折口元を緩ませる彼を見て、『あんな表情も出来るんだ』と静かに笑った。

 ……せっかく読み始めたのだから、ちゃんと最後まで読み切ろう。私は再び恋愛小説に目を向けると、続きの文章を頭の中で朗読した。


 私はこの小説を読みながら、何となく英慈の事を思い出していた。

 恋愛小説といえば、困難を乗り越えた先に迎える【ハッピーエンド】が定番だ。しかし私は、それを読む度に興醒めしてしまう。両想いになった二人に、これからなんてものはないのだから。私のような読者はきっと、その先を求めてはいない。

 男女の恋愛は成就してしまった時点で最高に達してしまう。それからは減る事はあっても増える事は決してない。だから私は、片想いをしている時が一番幸せな時なのだと思っていた。

 一度、恋に狂った女を見た。女には愛している男がいた。けれど男には本命の彼女がいて、女はただの浮気相手でしかなかった。

 女の恨みは女に向く。本命の彼女は、女から数々の嫌がらせを受ける事となる。

 男は謝る。反省していると言う。彼女の目の前で女に電話をし、酷い言葉で罵り非難する。男はそれで許されたと思い、簡単に記憶の中から、女の存在と不貞を犯した事実を消去する。

 女は泣く。毎日毎日辛くて悲しくて涙を流す。男を深く愛しているから。

 ――そう、あの人は英慈の事を愛していた。

 きっとあの人は、私なんかよりもずっと、英慈の事を想っていた。私は確かに傷付いた。別れる事も頭に入れた。けれど、別れなかった。

 英慈の事を愛しているからじゃない。今までの時間が無駄になってしまう事が許せなかったから。周りから、浮気されて捨てられた可哀想な女と思われるのが嫌だったから。

 そして、急に独りになってしまう事が寂しかったから。

 私は英慈が好きだから付き合っていたわけではない。私は私の為に、英慈と付き合っていたのだ。

 そんな私が、幸せな恋愛小説に共感を覚える事などきっとない。感情移入なんて一生出来ないだろう。

 英慈の浮気相手が、ほんの少しだけ羨ましかった。私も狂わされる程に、誰かを愛してみたいと思ってしまったから。けれどそれを口にしてしまえば、彼女が更に壊れてしまう事を知っていたから……私は全てを忘れ、口を閉ざす事にした。

 それから私は、英慈と本心で向き合う事が出来なくなってしまったのだ。


「――ハナ」

 突然聞こえてきた声に、私は思わず顔を上げる。そこには私を見つめるテントウの姿があった。

 柱時計を確認すると、私達が読書を始めてから、もう二時間が経過している。

 私は読了済の本を膝の上に置いたまま、少々物思いにふけっていたようだ。

「また泣いてる」

「え? ……本当だ。気付かなかった」

 自分が泣いてる事にすら気付けないだなんて、呆れを通り越して笑ってしまう。

 私はいつから、自分の感情に疎くなってしまったのだろうか。

「何か悲しい事でも思い出したのか?」

 悲しい事? ……あぁ、そうか。私、悲しかったのか。

 じゃあ、私は一体……何が悲しいのだろう?


 彼氏が浮気をしたから? ――違う。

 浮気相手が泣いていたから? ――違う。

 私の心が傷付いたから? ――違う。


 ――違う、違う。そうではないのだ。

 けれど言葉が出ない。答えが見つからない。どう話せばいいのかわからない。どう伝えればいいのか見当もつかない。

 私は込み上げる嗚咽に抗う事も出来ず、首を左右に振りながら心の中で懸命に叫び続けていた。


 誰か助けて。

 誰か助けて。

 誰か助けて。


 誰か助けて――


 誰でもいいから、この世界でたった一人だけでもいいから、私の事を理解して欲しい。

 認めて欲しい。受け入れて欲しいんだ。

「……ハナ」

 それが叶わないのなら、余計な事ばかり考えてしまう頭も、人一倍傷付きやすい心も、全部、全部……

「ハナ」

 私と一緒に、消えてなくなってしまえばいいんだ――

「ハナ!」

 テントウは急に声を張り上げた。その声に導かれるかのように、私は正気を取り戻す。

「あ……」

「お前さ、ちょっと落ちつけ」

 テントウは私の前にしゃがみ込むと、パッと両腕を広げた。

「ほら、来いよ。ハナが泣き止むまで抱きしめててやるから」

 私はテントウの腕の中に、無我夢中で飛び込んだ。そのあまりの勢いにテントウは笑いながら私の頭に手を添える。

「テントウ、やっぱり私……頭がおかしいのかな? 突然目の前が真っ暗になって、何をしていても満たされなくて……まるで心が悲鳴でもあげているかのように、痛くて苦しいの。いっそ何も考えずに済むように、記憶喪失にでもなってしまいたい」

「……大丈夫だよ。お前はまともだ。どこもおかしくなんてない。ただ、ちょっとばかし壊れちまってるだけだ」

 まともだけど壊れている……か。私は既に人ですらないのかもしれない。

 きっと、今の私は壊れたおもちゃのようなもの……治せはしないけど、直す事なら出来るかもしれない。

 けれど、人は壊れてしまったおもちゃなど簡単に捨ててしまうだろう。どうしてもそれが欲しかったら、沢山量産されている新しいものを買えばいいだけの話だ。手間をかけて直す必要などない。

 だからきっと、私はこの先もずっと……壊れたままなのだろう。

「私……もう直らないのかな?」

「そうだなぁ……『直す』っつーよりも、一度バラバラに壊して別の形に組み立てちまえば、少しは楽になれるんじゃねぇの?」

「別の形に? ……それ、もう私じゃないよ」

「ばーか。お前はお前だよ」

 そう言って笑うテントウ。しかし、それなら矛盾が生じてしまうではないか。私が私のままなら、形が変わったとしても何の意味もない。

 テントウはそんな私の思考を読み取ったかのように、ゆっくりと口を開いた。

「器が変わっても、確かに中身はお前のままだ。本質的には何も変わらない。だったら、壊れたお前を組み立てる際に、接着剤がわりにあるものを足してやればいい。そしたらきっとお前は変われる。俺がそれを、お前に足してやるよ」

「私に、足りていないもの……?」

「――愛情」

「……えっ?」

「お前はまるで、愛に飢えているガキそのものだ。身体だけ成長しても、心が追いついてきてねーんだよ」

「私が、愛情を求めてる?」

「……榊英慈、だったっけ? お前の【元】彼氏。そのやっすい恋愛小説を読んで、そいつの事でも思い出したか?」

 テントウの口から飛び出した男の名前に、私は驚かずにはいられなかった。まさかここで英慈の名前が出るとは思いもよらなかったから。

「テントウ、何で英慈の事を知ってるの?」

「ははっ、俺はお前の事なら何でも知ってるよ。お前……アレを本気で好きだったわけじゃないだろう? 常に周りと同じ、普通とやらを求めていたお前だ。皆と同じように普通に恋をして、普通に結婚して、子を産み、歳を取り、やがて寿命で死ぬ。お前の頭の中ではそれが最善だった筈だ。だからこそ、お前には榊英慈が必要だった。そしてその結果、お前は間違った依存に苦しむ事となる」

 テントウは私の手首を思いっきり強く掴んだ。私は思わず、「痛っ!」と顔を歪めた。

「……なぁ、そうじゃないだろ? 一人の女だけを愛しきれねぇ屑なんて、さっさと捨てちまえば良かったんだ」

 そう言うとテントウは、私の手首にそっと唇を落とした。そのまま血管に沿って、ねっとりとした舌を這わせていく。

 私はびくんと、わかりやすいくらいに反応してしまった。

「や、やだ、ちょっとテントウ、やめて……」

 小さな音が何度も何度も耳に届いては、私の心をあっという間に支配していく。

 今まで生きてきた中で、これ以上の事は当然何度も経験してきた筈なのに、たったこれだけの行為が、今までのそれらとは比べものにならないくらいに官能的に思えた。

「お前はさ、物分かりのいい良い子を演じるのが癖になっちまってんだよ。自己犠牲精神っつーのか、ただの馬鹿とでも言えばいいのか。例えば今、俺がお前を殺しちまっても……お前は納得し、全てを受け入れてしまうんだろうな」

「こ、殺? ちょっとテントウ、何言って……」

 突然物騒な事を言い出したテントウの顔は、今にも泣き出してしまいそうなくらいに寂しげで、悲しげで……私は思わず目を見張った。

 急にどうしたんだろう……? こんなテントウを見るのは初めてだ。

 快楽や興奮なんかよりも、心配で堪らない気持ちの方が遥かに上回った私は、すぐさま冷静さを取り戻した。

「……ハナ。悪い子になれよ。少しぐらい自分勝手に生きてみろよ? 人なんてもんはな、いつ死ぬかもわかんねぇんだぞ? なのに、わざわざ死に急いでんじゃねぇよ馬鹿たれが。俺がお前の事、ちゃんと愛してやるから」

「テントウ……」

 テントウは何を苦しんでいるのだろう? 私は黙り込んだまま座っている彼を見て、そんな事を思っていた。

 何も考えていないような人間が、わざわざ私をこんなところまで連れてきたりはしない。テントウはきっと、何か考えや理由があって私をここに連れてきたのだ。

 それに、彼は英慈の浮気の事まで知っていた。これが小説やドラマの中の話なら、テントウの正体は浮気相手の彼氏、または兄弟で、英慈に復讐する為に私に近付いたという線も考えられよう。……あくまで、ありきたりの展開ならばの話だ。

 しかしきっと、それは違う。何故だかわからないけど、私は確信めいたものを感じていた。

『俺がお前の事、ちゃんと愛してやるから』

 このやり取りにデジャヴのようなものを感じてしまうのは、果たして気のせいだろうか?

 思い出せない、思い出せないけれど……やはり私はテントウの事を知っている。

 しかし、一度会った事があるならば、私は必ず覚えている筈だ。たとえ忘れていたとしても、顔を見れば流石に思い出せるだろう。

 ――会った事はない。けれど知っている。何だかあやふや過ぎて要領を得ない話である。

 だけど……テントウが私との繋がりを口にしない限り、私からは彼に何も聞くつもりはなかった。もし全てを知ってしまえば、今のこの夢のような生活は終わりを迎え、私の前からテントウが消えてなくなってしまうような、そんな気がしたから。


「テントウ、抱っこして」

「……ん」

 テントウが手を差し伸べたので、私は再び彼の腕の中にすっぽりとおさまった。テントウは無言で、私の肩にゆっくりと頭を落とす。

「……そっちこそ、今日は何だかおかしいね。何か嫌な事でもあった?」

「別に」

 素っ気ない返事をするテントウに、私は小さく笑いながら、抱きしめる腕に力を足した。

 これでは先程までと正反対だ。どちらが慰めているのか、慰められているのか、よくわからない。

「……私の事、本当に愛してくれる?」

 そう問いかけると、私の肩に更に重みが増した。

 そんな風に小さく頷くテントウが可愛らしくて、愛おしくて……本当に愛情を求めているのは、私ではなく、テントウの方なのではないかと思った。

 けれど私は、『私も貴方を愛してあげる』なんて事は言えなかった。根拠や確信のない事は出来るだけ口にしたくなかったから。

 だけど、『この人を愛したい』という想いは、私の中で少しずつ芽生え始めていたのかもしれない。


 テントウの腕の中はとても温かかった。彼の優しい心音と言葉が、先程までパニックを起こしかけていた私の心を、徐々に落ち着かせてくれた。今ではテントウの方が落ち込んでいるようにも見えなくはないが、私は確かにテントウと話していて楽になれた。

 だから……

「テントウ」

「ん?」

「ありがとう」

 顔を上げたテントウと私の視線が重なり合う。何だか照れ臭くなった私は、思わず「べーッ」と舌を出した。その顔を見たテントウは頭を掻き毟りながら、「どういたしまして」と優しく笑った。

 このログハウスで暮らし始めてから、テントウは私にとても優しい。初めて逢った時の印象とあまりに違いすぎて、少々戸惑ってしまうくらいだ。

 やな奴かと思えば優しいし、嫌味くさくてデリカシーの欠片もないなと思えば、意外と親切だったりする。偉そうで自己中な反面、こんな風に何かを考えてはふさぎ込んでしまう弱々しい部分も垣間見えて、何だかほっとけない気持ちにさせられる。

 確かにテントウは口が悪いし、誤解されそうなタイプではあるけれど、いつだって私の事を心配してくれていた。それがもの凄く伝わってくるからこそ、たちが悪い。

 けど、私……テントウに……

「――よし、読書タイム終了! あれだ、そう鬼ごっこ。お前確か鬼ごっこがしたかったんだよな? じゃあ今からやろうぜ。まずはハナが鬼な。捕まった回数が多かった方が、今日の夕飯担当って事で!」

「……へ? いきなり何⁉」

「じゃあ、お先~!」

 そう言うとテントウは一目散に走り出した。

「ちょ……ちょっと待ってよ! 何なのよ、もう! ほんと、わけわかんないんだから!」

 私もその後を追って、急いでリビングを飛び出す。視線の先に見えるのは、既に靴を履いた状態で私を待つ彼の姿……

「ほら、早くしろ。置いてくぞ?」

「待って、待ってってば! もう、置いていかないでよ!」

 私達は馬鹿みたいに戯れながら、同時に外へと飛び出していった。


***


 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。先程までの澄み渡るように青かった空が、今では色鮮やかなオレンジ色に染まる。赤や紫、橙や黄色が混ざり合った美しい空。

 黄昏が、二人の影を伸ばしていった。

「……綺麗だね」

「あぁ、そうだな」

 街並みの中から見る夕焼けも勿論美しいが、草原から見るこの風景とそれとでは、まるで比べ物にならない。心に染み渡っていくような美しいグラデーションに、私は感嘆の息を漏らしていた。

 ――もうすぐ今日が終わる。静かに光る月と散りばめられた星を連れてくる夜。植物や動物達は、心地良い眠りにつくだろう。

 ここに来てからずっと、私はこの夕焼けを見る度……何だか寂しい気持ちになっていた。

 いつまでこの暮らしは続くのだろう?

 いつまで、私はここにいられるのだろう?

 知らない間にタイムリミットは近付いてきているのかもしれない。そう考えるだけで、私は怖くて堪らなくなった。

 テントウとも、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。そう思えば思うほど、まるで針でも刺されたかのように、チクリと胸が痛む。彼と過ごす時間が増えていく度に、その針は本数を増やし、私にしつこい痛みを与えてくるのだ。

 しかし私は、当たり前に不快でしかないその痛みが、実のところ嫌いではなかった。

 針には、中毒性のある何かが塗られていたのかもしれない。

「……このまま時間が止まってしまえばいいのにね」

「そしたらずっと、テントウとこうして一緒にいられるでしょう?」、そう言って笑う私に彼は、「そう言うのは好きな奴相手に言え」と、さらりと交わす。

「あー! さっき私の事、愛してくれるって言ったのに! テントウの嘘吐き」

 子供のように喚く私を見て、テントウはやれやれといったように、緑のカーペットの上に座り込んだ。

「別に嘘じゃないし」

「どーだか」

「……おいブス、拗ねるなよ。見苦しいぞ」

「はぁ⁉ もうテントウなんて知らない」

 私はふて腐れながらも、彼の横にちょこんと腰を下ろす。テントウはそのまま後ろに倒れると、まるで独り言でも言うように小さく呟いた。

「お前が俺の空に雨を降らしたあの日から、俺は空ばかりを見上げるようになったんだ」

「……え? それって、どういう意味?」

 私はそう尋ねたが、彼は返事をする事なく、真っ直ぐ空を見上げていた。

 ひんやりとした風が、草を揺らし、花を揺らし、木の葉を揺らす。そしてそれは、目の前にいる男の前髪を揺らしては、男を見つめる女の心までをも揺らしていった。

 寝転んでいるテントウの右手が、座ってる私の左手に触れる。それはまるで、小さなてんとう虫が、咲いている花の上にそっと止まるかのように、何の違和感も感じられなかった。けれど、温もりだけは確かにそこに残していく。

 その温もりは私に……優しさではなく、切なさだけを染み込ませていった。

「透き通るような青よりも、どこか儚くて物哀しい橙よりも、静寂と共に孤独を運んでくる紺よりも……俺はいつだって中途半端な灰色を欲していたよ。黒でも白でもない、馬鹿みたいに不器用な色をな」

「テントウ……一体、どうしちゃったの?」

「……ははっ、お前にはわかんねぇだろーな。きっと、一生かかったってわかりゃしねぇよ」

 テントウはそう言って笑うと、スッと立ち上がり、背筋を伸ばした。

「……今夜あたり大降りになりそうだなぁ」

「え? こんなに晴れてるのに?」

「俺の予報は当たるの。絶対」

「そろそろ帰るぞ」と、私の手を引く彼。こんなにも近くにいるのに、何だかとても遠くに感じる。

 自由に空を飛び回れるてんとう虫と、地面に根を張り、その場から動けない花とでは、距離なんてあって当然なのかもしれない。

 けど……

 私はテントウの背中を見ながら、先程彼が口にした言葉の意味を……ただただ考え続けていた。

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