第3話


 鳥が、楽しそうに会話をしている。

 柔らかな風が優しく肌に触れる。水が、下流に向かって流れる音が聞こえてくる。

 私はゆっくりと目を覚ました。――もう、朝なのか? 身体がほんの少しだるい……

 暫くしてぼんやりとした頭が冴えてきた時、ようやく私は自分が置かれている状況に気が付いた。

「あれ……ここ、どこ……?」

 私の目に最初に入ってきたもの。それは、私の手首を拘束する禍々しい銀。

 ――あぁ、そうか……私、あの男に殴られたのか。

 そのままどこかに連れてこられたみたいだ。ここは一体、どこなんだろう?

 人の声や車の走る音が一切聞こえてこない。いつもの騒がしい朝の始まりではないようだ。

 優しい薄紅色のカーテンがふわりと浮き上がり、清々しい風を運んでくる。窓から眩い光が射し込み、室内を更に明るく照らしていた。

 私は拘束された手に力を入れ、ベッドから身体を起こすと、開いている窓からそっと顔を覗かせた。


「うわぁ…………!」

 私は感動していた。写真や本でしか見た事がなかったような美しい風景が、目の前にあったから。

 青すぎるほど青い空。その中を泳ぐ大きなくじら雲。黄色や桃色の花が、風に踊らされて嬉しそうに揺れている。

 それ以上に私の目を引いたのは……やはり、どこまでも続く緑の大海原だ。

 爽快な風が、草の上を足早に駆けていく。それはまるで、海を揺らす大きな波を連想させた。

 何故だかわからないけど、再び私の瞳に涙が溢れた。けれど、何となくだが……いつものものとは違うような気がする。私の胸は穏やかな心地良さを感じていたから。

 周りには建物一つ見当たらず、建っているのはこの二階建てのログハウスだけだった。私はその二階から、この素晴らしい絶景を眺めていた。

 下には黒いワンボックスカーが停めてあった。あの車に乗せられてここまで来たのだとしたら、あの男も今……この中に?

 私は咄嗟に身構えた。その時ようやく、今自分が身に纏っているものが、気を失う前に着ていたものと違う事に気が付いた。

 穢れのない真っ白なワンピース。シンプルだが、とても可愛らしいデザインだ。

 あの男が着替えさせたの? あり得ない……私、何もされてないよね?

 そんな事を考えていると、突然背後からコンコンと軽やかな音が聞こえてきた。一瞬にして背筋に戦慄が走る。

 カチャリとノブを回す音。ミシッと床を鳴らす足音。時計の秒針のように慌ただしい私の心音。緊張感が漂う。

 覚悟を決めてゆっくり後ろに振り返ると、そこには見知らぬ一人の男が立っていた。

「よ。起きてたのかよ。って、お前……また泣いてんの? 起きて早々お仕事とは、お前の目もそりゃご苦労な事で」

 この声……間違いない。あのレインコートの男だ。

 しかし目の前の男は、私が想像していた男像とは随分異なっていた。もっと陰気な感じを予想していたのだが、その風貌はそれを全く感じさせない。

 男は明るい金色の髪に、無地の黒いTシャツ、膝下くらいの白い短パンを穿いていた。

 そして薄っすらと無精髭が生えている。それが一見、男を中年男性のように思わせたが、髭を剃り落とすとかなり幼く見える顔立ちをしていたので、今時の若者のようにも思えた。男は眠そうに欠伸を繰り返す。

 年齢不詳。現時点では、年齢はわからない。

「何だよ? そんなじっと見つめられても困るんだけど」

「なっ!」

 見つめているだなんて言われた事にカーッとなった私は、男に向かって激しく捲し立てた。

「どうしたじゃないわよ! ここどこよ⁉ 言っとくけどね、これ誘拐よ⁉ 犯罪よ⁉ わかってんの⁉ この馬鹿髭男!」

 男は私の剣幕に、呆れたように大きく溜息を吐いた。

「ぎゃあぎゃあうるせーな。昨日……いや、今日か。ここについたのが朝だったから、髭剃る暇がなかったんだよ。つーか、お前重てぇんだよ。ちったぁダイエットでもしろ」

「は、はぁ⁉ 誰がここに連れてきてって頼んだ? 貴方が勝手にここまで連れてきたんでしょう? それを重いとか……信じられない! っていうか私のお腹殴ったし、本当にあり得ない!」

「あれ? お前が俺と一緒にいたかったから傘に入ってきたんじゃねぇの? じゃあお前も少なからずこういう展開を望んで……」

「ないわよ!」

「あっそ。そりゃ失礼」

 悪びれる様子もなく、男はベッドに腰を下ろした。

「で、調子はどうだ?」

「……まだちょっと、喉は痛むけど」

「ん、薬持ってきた。飲めよ」

 ペットボトルに入った水と、瓶に入った市販の風邪薬。男はそれを、すぐ側にある棚の上に並べた。

 しかし……

「どうやって飲めって言うのよ」

「そうだなぁ……じゃあ、飲ませて下さいってお願いしてみな?」

「……はっ?」

 思わず間の抜けた声が出る。それを聞いた男は私の顔を見て、大きな声で笑った。

「ばーか。嘘だよ」

 すると、男はポケットから小さな鍵を取り出した。――何の鍵だろう? そう思っていると、男は背後で拘束されている私の手首に手を重ね、カチリと手錠の鍵を外した。

「え?」

「好きにしろよ。逃げるなら勝手に逃げればいいし、警察にでもどこにでも行きたきゃ行けばいい。車のナビを使えば、お前でも元いたとこに帰れんだろ」

 この男は一体何を言っているの? ここまで私をさらってきたのに、今度は逃げろですって? 

 ひんやりとした拘束具は簡単に外されてしまった。この男の目的が何なのか、私には見当もつかない。

「何なら電話で助けを求めたっていい。あ、けどお前、携帯置いてきたんだっけ? じゃあ、俺の携帯使ってもいいぞ」

 男は「ほれっ」と、ベッドの上に携帯電話を放り投げた。それにはストラップが付けられていて、落ちた拍子にチリンと音を鳴らす。悪趣味で派手な色をしたてんとう虫が、じっとこちらを見つめていた。

「今なら仕事も遅刻で済むかもな。どうする? 戻るか? 俺は送ってやんねぇけど」

「……貴方、一体どうして私をここに連れてきたの? あんな風にいきなり殴ったりして、気を失った私をわざわざここまで運んだのに、今度は好きにしろって……意味がわかんないよ」

「じゃあ何て言って欲しい? お前の事が好きになったからとでも言えば満足なのか?」

 そう言って、男は悪戯っぽく笑う。

 私は、「馬鹿じゃないの?」と言って、男から目を逸らした。

 ……私はどうしたいのだろう。決めろと言われても決められない。心の中の本音に忠実になる事が、正しい選択だとは到底思えないから。

 わかっている。結局私は、決められたレールの上でしか生きる事が出来ないのだ。

 私は俯きながら、そっと呟いた。

「……帰りたくない。でも、帰らなきゃ」

「何で?」

 あっけらかんとした男の言葉に、私はわかりやすく溜息を吐いた。

「こんなの普通じゃないからよ。枠から外れた人間は、この世界では生きていけないの。社会からはみ出してしまうと、人は人を非難する。いくら不満があっても、納得出来ない事だらけでも、人は皆それに耐えて生きてる。だから、私だけがそこから逃げる事は出来ない。私は……普通でいたいから」

「生きていけない? 普通? そんな事、誰が決めたんだ?」

 男は『くだらない』と言ったように目を細めた。

「誰がとかじゃなくて、それが当たり前の事なの! 皆が出来ている事は、私だってこなさなきゃならない。一生懸命頑張らなきゃ駄目なの! そうしないと私、独りぼっちになってしまう」

「……阿保くさ」

 男は突然、棚の上に置いてあった錠剤と水を手に取り、それらを一気に口に含むと……

「何して………………っ⁉」

 私の口内に無理矢理流し込んだ。


 ごくん……

 男は唇を離すと、再び水を含んで、私に与える。

 ごくん……

 それを、もう一度繰り返した。


 ――ごくん。


「っ……はぁっ、はぁ」

「お前に薬を飲ませる事は、俺自身が決めた事だ。社会が決めた事じゃない。他の誰かが決めた事じゃない。俺は俺のしたいようにする。周りの指図は受けない」

 男の手のひらが私の頬を包み、視線が絡み合う。

 どうしようもなく、胸がドキドキして堪らなかった。

「なぁ……俺がお前を飼ってやってもいいぞ。ただし、お前が変わるって言うならな」

「え……?」

「今までの自分の生活を、名を……全てを捨ててみろ。大体、馬鹿馬鹿しくねぇか? お前、誰の為に生きてんだよ? 泣くぐらい辛いなら、んな人生捨てちまえ」

 男の指が私の涙をすくい取る。私はずっと、男から目を離せずにいた。

 ……この男は、何て自由なんだろう。

 世間は認めないであろう男の言葉を、私だけは肯定したいと思ってしまった。この異常な男の発言は、少なからず私に衝撃を与えたから。

「ここには食料もあるし、生活する上で必要な物は大体揃ってる。金だってあるしな。不自由な事は何もない。だから、お前が本当に帰りたくねぇなら、ここにいればいい」

「私、が……ここに? 本当に私……ここにいてもいいの?」

「あぁ。俺の前でならいつでも泣いていーぞ。その度に、『また泣いてんのかよ』って言って笑ってやるよ」

 そう言うと、男は初めて私に笑顔を見せた。――まるで太陽みたいだ。そう思えてしまうほど、男の笑顔は温かくて優しくて……私には、眩し過ぎるくらいだった。

 男と私の関係は、紛れもなく誘拐犯と被害者だ。突然、私という一人の人間が消えた。部屋は開けっ放しで、携帯も置いたまま。仕事は無断欠勤、誰かが警察に連絡を入れる事は間違いない。なら、目の前の男は犯罪者という事になる。

 どうして……? どうして赤の他人の私の為に、罪を犯そうとするの? 今私を帰してしまえば、全てなかった事に出来るのに……ねぇ、どうして?

 私達、もしかしてどこかで会った事があるのかもしれない。そうでなければおかしい。

「ねぇ……貴方、一体誰なの? もしかして私の事、前から知ってたりする?」

「……さぁな。忘れた」

 忘れた、男はそう言った。

 やはり男は私の事を知っているのだと思う。出なければ、忘れたなどという答えは返ってこないだろう。

 ……しかし、それが何だ?

 ここで暮らすなら、私は私を捨てなくてはならない。男と以前どこかで会った事があるかもしれないなど、どうでも良い事だ。

 確かに今までの、意気地なしで弱い私のままでは、ここでは暮らせそうもない。きっと罪悪感に押し潰されそうになるから。今すぐ消えてなくなりたいと思うくらいに、自分を責めてしまう筈だから。

 しかし、今までの自分自身を捨てるなど……簡単に口には出来ても実行するのは難しい。というか不可能な事のように思える。

 けれど、このまま無気力な廃人のように暮らしていかなければならないのなら、一層の事……

「私……ここにいる。彼氏からも、友達からも、親からも、ずっと逃げたいって思ってた。全てを捨ててでも私は……自分勝手に、自由になりたいって思っていたの」

 でも、私一人では無理だった。何か強いきっかけが必要だった。

 私の運命を狂わす大事件……

 それがきっと、――今だ。

「だから私、貴方に飼われてあげる。私達は共犯者で、共に罪人。こんな子供のお遊びのようなノリでも、それで心が救われるのなら私……貴方を利用するだけ利用させてもらう。その代わり、貴方は私を好きにしていい。それでこそギブアンドテイクってものでしょ?」

「何だよそれ。……かっこいいじゃん」

「人の目や周りの評価ばかりを気にするのは、もう疲れた。どうせすぐに捕まるでしょうけど、それまでは違う自分を知ってみたいの。本当の自分で生きてみたいの。私やっぱり頭がおかしいのかもしれないね」

 私がそう言って笑うと、男は何も言わず私の頭にポンと大きな手を置いた。

「じゃあ、俺達の呼び名を決めておかないとな? 名前がないと不便だろ」

「呼び名を決める? やっぱり貴方の名前は教えてくれないわけ?」

「あいにく俺も、お前とは違った理由で色んなもん捨てちまいてぇと思っているもんでね。だから、自分の今までの名前もいらねぇんだわ。……お前、俺に新しい名前つけてくれねぇ?」

「え? 私が?」

「おう。かっこいいのつけろよな?」

 突然の男の発言に、私はわかりやすく頭を悩ませた。名前をつけろだなんて、犬や猫につけるものじゃあるまいし……あ、でも呼び名って言ってたし、ニックネームみたいな感じでいいのかもしれない。

 私は「うーん」と唸りながらも、考える事に集中してみた。男は眠そうに欠伸を繰り返している。

「……テントウ」

「ふぁああ~…………は?」

「それ」

 そう言うと、私は男の携帯電話を指指した。相変わらず、派手でケバケバしいてんとう虫がこちらを見つめている。

「ははっ! 俺、てんとう虫かよ! なんつーネーミングセンス!」

「それだけじゃないよ。髪、お日様みたいに明るいから……ほら、お日様ってお天道様っていうじゃない?」

「なるほど。まぁ、悪くないんじゃね? じゃあ、お前は……」

 テントウは、私の上から下までをじっくりと凝視する。何となく気まずくなった私は、咄嗟に俯いた。

「……よし、決めた!」

「え? もう?」

 私が顔を上げると、テントウは自信たっぷりの態度で、誇らしげに答えた。

「ハナ、今日からそう呼ぶ事にする。俺がてんとう虫ならお前は花だ。疲れた時は遠慮なく寄りかからせて貰うよ」


 ――だからお前も綺麗に咲き続けろよ?


「なぁんてな」

 そう言って、テントウが急に大人っぽく笑うものだから、何だかくすぐったいような恥ずかしいような気持ちになり、再び俯かずにはいられなかった。

 けれど……何だか不思議な感覚だ。

 新たな名を手に入れた事で、私の心と身体をがんじがらめにしていた見えない鎖が腐って、音もなく地面に落ちていくような気がした。

 最初から、私の名前は【ハナ】だった。そう思えば思うほど……今まで抑え付けてきた願望や、我慢し聞き入れてきた事への不満、そして満たされない欲求が膨れ上がり、私が私じゃない別の誰かに変わってしまうような、そんな錯覚に陥るのだ。……いや、これこそが本来の私なのだろう。気分が妙に高揚していた。

「じゃあ早速……俺もう眠いの限界なんだわ。寝る。ちょっとそこどけ」

 テントウは「シッシッ」と手を払うと、ドカッとベッドの上に横になった。

「え? ここで寝るの⁉」

「……うるせぇなぁ。昨日から寝てねぇんだよ。重い誰かさんをここまで運んできたんだ。俺は疲れたの、疲れてんの!」

 そんな自分勝手で自己中心的な言葉に心底呆れたが、脚をバタつかせ駄々をこねているテントウの姿が何だかとても可笑しくて、すっかり空気が緩みきってしまった。

「お前暇ならさ、外にでも出てみろよ? 気持ちいいぞー。あ、何なら今からでも別に逃げたって構わ……」

「逃げません!」

「あそ。おやすみ~」

 そう言うと、テントウは一瞬のうちに眠ってしまった。小さな寝息が私の耳まで届く。

「本当に寝たよ」と、苦笑いを浮かべながら、私は眠ったばかりのテントウを起こさないように、再び窓枠に手をかけた。

 ――本当に綺麗。心が洗われるようだ。

 私にはこの地が、まるでユートピアのように思えた。きっと人は大袈裟だと嗤うだろう。けれど私にはここが、日常から切り離されたパラレル世界のように思えてならないのだ。

 そしてこの地で暮らす事に決めた私は、人生の敗北者。負け犬。そう後ろ指を指されてもおかしくはない。実際にはみ出してしまったのだから仕方のない話だ。

 けれど、私は初めて幸せを感じていた。安堵していた。ここは私が、私らしく生きられる場所。全てをリセット出来るサンクチュアリなのだ。

 太陽の洗礼を受け、森の鼓動を感じた私は、生き物の生命を尊ぶ。

 風と共に踊る花の香りに癒された私は、緑の息吹を肌で感じとる。

「もっと近くで見てみたい」

 私はゆっくり、ゆっくりと、足音を気にしながら部屋を出た。木目の壁に手を付きながらそっと階段を下りていくと、右手奥にダイニングテーブルが見えた。左手には個室が三つ並んでいる。

 けれど、今は部屋中を探索するよりも、早く外に出てあの美しい景色を身近で感じたい。

 私は真っ直ぐ進んだ先の玄関から、テントウの物であろうサンダルを勝手に拝借すると、勢いよく扉を開いた。

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