あいだのはなし 終

 あれからフリックに水泳を教わって、犬かきぐらいはできるようになった。

 シュシュはちゃんとした形を覚えて、しっかり泳げている。

 運動神経の違いを感じる。


 良いんだ。オレはちょっと運動が苦手なだけなんだ。だから、良いんだ。

 良いんだってば。


 元々外に出ることがほとんど出来ずに育ったせいもあったし、女の体になってからはますます体力が落ちたような気がする。


 秋からの山ごもりはどうなることやら、今からちょっと憂鬱。

 皆の足を引っ張らないようにしないと。


 よし。フリックに教わって体力つけるいい運動がないか聞こうっと。


 フリック。

 表面上は普段どおりなんだけれど、やっぱり少しよそよそしさを感じる。

 オレがあの時、手を弾いてしまったから?


 でも、あれはフリックも悪い。急に頬を触られたら、誰だってびっくりするし、どきどきする。

 うん。オレは悪くない! 

 でも、やっぱり謝ろうかな……。でも、オレから謝るのってなんかへんじゃない?


 でもでもでもって。

 そんな事を考え込んで、廊下を歩いていたから、そいつが私のスカートの裾を背後から掴んだことに気づかなかったんだ。


「お。白」


「っ!」


 違和感に気づき、慌てて振り返った。


「ヴァロッテ! なにすんだよ!」


 激昂する私に対して、彼はへらへらと笑うのみ。

 ああ。もう。本当にやだ。この男。


「いや、本当に女なんだなーって思って。水着とかも見たし」


「だから、なに」


 ぎゅっと制服のスカートの両裾を掴んだ。

 大丈夫。恥ずかしくない。変じゃない。だから、大丈夫。

 私がきつく睨むと、彼は表情を引き締めて、頭をかいて答える。


「俺さ、お前のこと、なんか、いらつくことも多くて、張り合ってたんだよ。仕草とか男同士みたいな感じがしてたせいかな? 負けられねえ、みたいな? でも、なんかちゃんと女なんだなって思って。そしたら張り合ってるのがアホらしくなってきて」


「ヴァロッテが何が言いたいかわからないんだけど」


「ああ。そうだよな。俺もなに言ってるかわかんねえもん。まあ。なんか、お礼言ってなかったから、言おうと思ってた。ずっと。

 前、森で助けてくれたろ。俺色々やらかしたのにさ。助けてくれて。悪かったなあって思ってたんだよ」


「……助けないと、先生にばれるからね。後、メリアにしたこと、許す気ないから。それと、今私のスカートをめくったことも!」


 あれ? スカートは、別に良いのかな?

 ううん。全然良くない。これは男として、女として、どっちの怒りなんだろう。

 なんだか落ち着いてきてしまって、今更ながらに下着を見られたことがすごく恥ずかしくなってきた。

 下着、男のままだったら見られても平気だったんだろうか。


「まあ、そうだろうな。許されるとも思ってねえし。でも、ごめん」


「あっそ。でも謝ってくれてありがとう。分かってると思うけど、メリアに謝ったら許さないから」


「……俺だってそこまでバカじゃねえよ」


 結局何が言いたいのかよく分からないまま、彼は黙った。

 なんとなく気まずくて、さっさと踵を返そうとすると、彼の声が留める。


「待てよ。お前、フリックと恋人同士なのか? もう婚約済みとか?」


「違うけど」咄嗟に答えて、そんなギリなんて無いんだって思って、言い直す。「って、ヴァロッテに言う必要ないし」


「いつも一緒にいるだろ。最近」


「水泳教わってるの。っていうか、いつも一緒にいたなら、恋人同士になるの?」


 あ。しまった。私のバカ。つい話を続けてしまっている。


「普通、そうだろ」


「普通なの? なんで?」


 男と女がいたら、恋人同士になる。

 それが、普通。じゃあ、私は、誰と一緒にいたら恋人になるんだろう。私はそう言うの、全然わからないんだ。

 男と女、どっちが好きなんだろう。私。


「なんでって……。お前、やっぱ変なやつだな。男が女に優しくする理由なんて、一つしかないだろ」


 ヴァロッテが鼻を鳴らす。分かってるぜ、って顔になぜだかひどく胸がさざめいた。


「だから、どういう意味?」


「お前、意外とお子様だよなー。女のほうが恋愛話とかしょっちゅうしてるじゃん」


「皆がそうじゃないよ。私はよくわかんないし、そういうの。じゃあさ――」


 頭がごちゃごちゃしてたし、腹も立ってた。

 つい、そんなことを尋ねていた。


「もし、もしだよ。ヴァロッテが女になったら、どうする?」


 お前だって、苦しむはずだ!

 そんな意地悪な気分だったんだ。

 でも、彼は楽しそうに口を開けて「ははっ」と大きく笑った。


「急になに? まあでも。俺は嬉しいかな」


「嬉しい!? なんで? 性別が変わるんだよ?」


「だって、女風呂に入り放題じゃん」


「……は?」


「それに、女同士だったらおっぱいだって揉めるだろうし」


「普通、揉まないから」


 男同士だって、胸を触り合ったりしないでしょ?

 それと一緒だと思うんだけど。

 言わないけどさ。


「女子とも仲良くなり放題! 女子同士でいちゃつき放題! 良いことづくめ!」


「でも女同士は恋人になれないよ。それでも良いの? ヴァロッテは女の子が好きなんでしょう」


「なれるなれる。そりゃ、結婚とかはできないかもしれないけど、恋人にはなれるだろ。そういう小説だって世には出回ってるんだぜ。お前知らないな? カトリーナ・ヘンリエッジとか読まねえの?」


「カトリーナがロマンス小説作家って言うことは知ってるけど、専門外。小説は小説だよ」



「自分の欲望に素直に生きたいんだ、俺。女になったらエッチな事も含めて色んなことやるね、俺なら!」


「うーわ。最低だ、やっぱり。聞くんじゃなかった」


 ドン引きしたし、やっぱりヴァロッテのことは好きになれない。

 でも、こんなやつの。こんなやつの前向きさに、ほんのちょっぴりだけ、感心した。


 そっか。

 女であること、楽しんでも良いんだって、そういう視点もあるんだって気づいた。

 なんかすごい癪だけど。

 シエルや、女子の友達と一緒にいるのは、すごく楽しいし、女になって良かったこともたくさんある。

 ヴァロッテの言ってるのはそういう事じゃないんだろうけどさ。


「お。ほら、フリックのやつが来るぜ。おいフリック。エカルテとくっつけよ!」


 唐突にヴァロッテが私の後ろに声を投げた。

 振り返ると、フリックが無表情に歩いてきていた。


「ばっ、何いってんの!?」


「おー。エカルテが照れたぞ!」


 焦る私を尻目に、ヴァロッテはますます囃し立てる。それでもフリックは表情を変えることはなかった。静かに歩いてきて、私は横に避ける。なんだか、無言の圧力を感じた。

 彼はヴァロッテの両肩に手をおいて、微笑んだ。


「ヴァロッテ。エカルテのスカートめくったんだってね。クラスの子が教えてくれたよ」


「おう。だからなんだ? 喧嘩でもするか?」


「それもいいんだけどね。それだとエカルテに迷惑がかかるからさ、我慢するよ」


 フリックは相変わらずにこにこしている。それゆえに、怖い。

 すごく、怖い。いつも穏やかな人が怒ると、こんなに怖いんだ。

 ヴァロッテは後頭部しか見えないけど、声が焦っているのは分かる。


「ヴァロッテ君!」フリックがとても明るく、教科書でも読み上げるように朗々と言った。「とりあえず、先生には既に報告しておいたよ。一緒に職員室に行こう!」


「そりゃないぜリーダー! ちょ、おい、やめろ! 離せ!」


 ヴァロッテをひょいと軽々と肩に抱えると、フリックは相変わらずとても素晴らしい笑顔のまま、職員室へ歩いていく。ヴァロッテはじたばたと抵抗するものの、一向に気に留める様子すらなかった。

 身体強化型、恐るべし。

 ……とりあえず、フリックを怒らせるのはやめておこうと思った。


 ヴァロッテから見ても、オレは女に見えるようになったみたい。

 歩きながらスカートの裾を直した。

 ずいぶんこの格好にも慣れて、少しずつオレも変わってきている。

 あんまり、嫌な気はしない。

 そうしてオレは3年生になった。

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