あいだのはなし③



「顔をつける練習から」



 水泳の練習はそんなはじめの一言から始まった。


 胸ぐらいの深さがある、河の真ん中。




 息を吸い込んで水に潜る。


 水の中、目をつぶると夜みたいに静かだ。


 だからこそ、自分の心臓の音がうるさいのが、嫌でも分かる。


 すぐに息が続かなくなって顔をあげると、一気に音が戻ってきた。


「ぷはっ」と息を吐いてから「だめだった」と、へばりつく髪を直しながらフリックを探した。


 水面に反射する陽の光の中で、眩しそうに目を細める彼と目が合う。



「十分だよ」



 相変わらず、フリックの口調はそっけない。


 時間にして数秒。それだけしか潜っていられなかったんだ。


 脚を曲げて、胸元まで水に浸かった。こうすれば見えないし、恥ずかしくない!


 隣ではシュシュがまだぶくぶくと潜り続けている。



「エカルテ、あのさ」



「な、なに?」



 じいっとこちらを見られると、全身がむず痒くなって、うるさい心臓から熱い血が顔に登ってくる。


 一歩、後ずさった



「その――」


「ぷはあっ! はあ、はあ。どうフリック!? こんなにも長く潜ってやりましたわ!」


 フリックの声をかき消して、シュシュが水から勢いよく飛び出してくる。


 肩で息をして、顔なんて真っ赤だ。負けず嫌いにも程がある。



「うん、シュシュも良いね」



「当然よ!」



 なにか言いかけてたけど、なんだったんだろう。


 フリックはシュシュと私の様子に満足したようにうなずいた。



「うん。じゃあ、次は体を浮かす練習をしよう。ぼくが手を掴むから、力抜いて水に浮いてみて。水に浮く感覚を覚えるのって、すごく重要だから」



「ふうん。いろいろ考えてるのね。じゃあ、エカルテ、先にどうぞ」



「わ、私? いいよ、私は」



 シュシュが肩を押した。


 ちょっと待って!


 水底で脚を突っ張って、抵抗すると、シュシュが叫んだ。「良いわけないでしょ! 教わらないと一生恥ずかしいままよ!」



「いいったら!」



「いきなさいったら!」



「いーやーだー!」



「何がそんなに嫌なのよ。頑固ね! こうなったら力づくよ!」



 魔術なしでは、私より体の大きいシュシュに勝てるわけもなく。


 水の中ということも手伝ってか、お腹辺りを抱えられて、水底から足があっさり離れた。



「いやだったら!」



 じたばたと手を振り回し、水しぶきを飛ばしまくる。


 それがシュシュの負けん気に火をつけてしまった。


 体を背中に密着させて、体全体を使って力任せにぐいぐいと押し出し始める。



 ガキっぽいのは、分かってる。でも嫌なものは嫌なんだ。恥ずかしいんだ!



「行きなさいったら! 何が嫌なのよ。ちゃんと言いなさいよ」



 何が。何が?


 深く考える余裕もなくて、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。



「フリックの手をにぎるのが嫌なんだ!」



 あ。酷いこと言った。


 言葉が響いてから、ようやく頭が理解する。


 なんでこんな事、言ったんだろ。



「何でよ。……男同士じゃない」



 シュシュは声を落として言った。


 男同士。確かに私もずっとそう思っていた。


 でも、違う、気がする。


 今日、はっきり分かってしまった。彼と、私の体は違う。


 体だけ?



 フリックにひどいことを言った。


 じわじわと這い上がってくる後悔で頭がぐるぐると重くなる。


 そんな事を考えていたら、体に力を入れるのを忘れていた。



「ほーら、さっさと行く!」



 シュシュが最後とばかりに私を押して、フリックの眼前に突きつける。


 目を伏せると彼のお腹の筋肉が目に飛び込んでくる。



 う、うわ!



 なんでか、見ちゃいけないものを見てしまった気がして、ますます目を伏せる。


 もっと下げると自分の黒い水着の胸とお腹が見えた。



 体のライン、シュシュみたいにはっきりはしてないけど。


 それでも、まあるい女の体が、あった。


 それがますます恥ずかしくて、どこに目をやっていいのかすら分からなくて、ぎゅっと目を閉じた。



 謝らなきゃ。それを、瞼の裏で考えている。



「エカルテ、ごめん! まだ、体浮かすの難しかったよね。ぼく、もうちょい考えるべきだった」



「フリック?」



 傷ついたような、それを取り繕うような、空っぽに明るい声がして、顔を上げた。


 フリックが微笑んでいる。口の端を上げた、自虐っぽい、大人がよくする笑い方。


 そんなの似合ってない。全然似合ってない!



 そんな顔を、私がさせてしまったんだ。


 謝るべきは、私なのに。


 私はいつも、誰かを傷つけている。



「ちょっと、フリック。あなたが謝る事無いんじゃなくて? 駄々をこねていたのは、エカルテよ」



 シュシュの言うとおりだ。


 駄々をこねて、わかんないわかんないって言って、私だけが子供のままでいる。


 でも、それじゃ。


 それじゃ、だめなんだ。


 抜けるような青空が見えて、私はフリックの目を見つめ返した。



「フリック! 私、ごめん」



 ぎゅっと自分の二の腕を握る。ちょっと震えている。ちゃんと、言わなきゃ。



「うん? なにが?」



 フリックが驚いたように目を丸くさせた。



「えっと、その……。恥ずかしいんだ」



「恥ずかしい?」



「水着が、恥ずかしい。皆に、君に、見られるの、恥ずかしい。だって、変、だもん」



「変じゃない」



「でも、オレ元は――」



「全然変じゃないよ」



「……。フリック、ごめん。酷いこと、言った。見られるの、嫌だった。でも――君の手握るの別に嫌じゃない」



 ああ、もう。最悪だ。また視界がぼんやりしてきた。


 なんか顔は暑いし、君がどんな顔してるかわかんし。


 わけわかんないよ。



「エカルテ」



 彼の手が伸びてきて、私の頬に触れた。



「え……! わっ」



 びっくりしたんだ。死ぬほど。


 仰け反って、彼の手を振りほどいた。


 転んでしまって、後は水の中。


 泡だらけの水の中で、太陽の光がきらきらと反射していた。



……。



 やりすぎた。


 調子に乗りすぎた。


どうして、あそこで手を触れてしまったんだろう。


どうして、もっと似合うと言ってあげられなかったんだろう。



 手を触れた瞬間の、彼女の困ったような、ぎゅっと眉を寄せた、そんな表情が今でも目に焼き付いている。



 あああ! 嫌われた! 明日なんて挨拶したらいいんだ!


 フリックが夜の間中、煩悶していたことを、エカルテは当然知らない。

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