第24話 遭遇、邂逅


          *


 幼なじみというよりは、いっそ家族の一員のように思っていた。


 水田を挟んで隣同士。歩いてすぐの家に住むその男の子とは、物心がつく前から一緒だった。同じ保育所で、2人とも両親は共働き。男の子の家にも同居の祖父はいたものの、農作業が忙しいからと、よく彼女の家に預けられていた。今も健在の祖母に見守られて、まるで本当のきょうだいのように育ってきた。

 最初に話した内容など、今となっては覚えていない。それどころか両親や祖父母の話によると、発語がしっかりする前から、2人だけにしかわからない言葉でずっとしゃべっていたとか。それほどに、その男の子と彼女は近しかった。


 その関係が崩れたのは、中学入学直後だった。

 それまで、毎日といっていいほど放課後を一緒に過ごしていた男の子が、ぱったりと家に来なくなったのだ。

 宿題が多いからと言われた。部活が忙しいからと言われた。それでも少しくらいと駄々をこねると、重い口をようやく開いて、「中学になってまで女子の家に行くなんて、気恥ずかしいから」と言われた。

 耳まで真っ赤に染め上げて。

 どんなに回り込んでも、決して目を合わせずに。


 思えばその時――

 彼女は初めて、〈その子〉を〈彼〉だと思ったのかもしれない。


 同じ高校に進学できたと知った時は、自分でも驚くほどに嬉しかった。

 小学校のメンツがそのまま進学する中学とは違い、顔見知りの数はずいぶんと減る。以前のようにとはいかなくとも、きっと、中学の頃よりは話す機会が増えるだろう――そうならいいなと思っていた。


 しかし、その期待は、予想外の事件によって叶わなかった。


 テスト結果の貼り出しの日を境に、校内で死者が相次いだ。最初は自殺と思われていたものが、事件性を帯び、やがてその共通点を浮かび上がらせた。

 ――死んでいるのは、件の学力テストにおいて、トップとなった生徒だと。


 怖かった。恐ろしかった。次は自分の番かと思うと、どうしていいかわからなかった。1人になりたくないと思う反面、誰かといるのも不安だった。

 それでも、そんなものを表に出して他人に迷惑をかけるのが嫌で、教師にも友人にも笑顔だけを向けていた。自分はなにも気にしていないと、死に向かう要素はなにもないのだと、むしろ自分に言い聞かせるように、いつも通り笑って接した。


 そうしてギリギリに張り詰めていた彼女の心を、思いがけずも助けてくれたのは、彼だった。


「…………さっちゃん」


 小学卒業以来、一度も呼んでくれなかった名前で呼んで。

 数年ぶりなのも忘れそうなほど、しっくりと戻ってきたすぐ隣で。


「こんな時だから……おれなんかじゃ、たいして役には立たないかもしれないけど。……もしなにかあったら、いつでも、連絡してくれていいから」


 その言葉に、彼女がどれだけ救われたことか。

 いつかきっと、彼に伝えようと――そう、思っていたのに。


「こっ!? なっ!? こ、告白とかそんな……!」


 偶然、聞いてしまった電話の内容から、彼が誰かと会う約束をしたと知った。

 なぜだかどうしても放っておけなくて、教師からの自宅待機命令も破って、家からその後をつけてきてしまった。

 高校最寄りの駅で待っていたのは、見たことのない女の子。

 2人で歩いて、なんの話か盛り上がって、腕を組むように寄り添い合って。


 ひたひたと、冷たいなにかが自分に忍び寄ってくる気配がした矢先に、そんな言葉を聞いてしまった。


「だっ……好きなん……」

「すっ、好きかどうかで言われたら、そりゃ……っ!」


 距離があって不明瞭な問いかけに対して、狼狽したような彼の答えは、不思議なほど真っ直ぐに彼女の元まで飛んでくる。

 聞きたくないと思うのに、嫌なのに、耳を澄ませてしまう。


「…………好き……ですけど……!」


 届いた言葉に、ああ、と思う。

 本当はずっと、彼の声で、その言葉を聞きたかったのだと唐突に気づいた。

 彼の声で、その言葉を、自分に向けてほしかったのだと気づいた。


 ……――けれどすべては、もう遅い。


 そう。すべてはもう遅かった。

 彼はもう選んでしまった。自分が知らない間に出会った、自分の知らない女の子を。自分ではない、他の人の隣にいることを。

 それを邪魔するつもりなどなかった。それで彼が幸せになってくれるなら、彼女はそれで、もう、それで――

 それだけでいいはずなのに、ぽっかりと空いた胸の底が、引き裂かれるように痛かった。振り向いた彼の驚愕さえ、鋭利な刃物のように彼女を貫いた。

 どうしてここにいるのかと、問う視線に、絶望した。


 ……――それならいっそ……


 ああそう、いっそのこと。


 ……――いっそここから、


 彼のそばから。


 永遠に、と囁くなにかに呼ばれるように、彼女はそこから駆け出した。





          *





 ――うそだろ、と思ったのは、二重の意味で。


 ひとつには今の話題のせい。そしてもうひとつには――学校ここに近付かなければ概ね安全なはずの皐月さつきが、よりにもよってここにいる意味が、とっさに理解できなかったせいだ。

 異変に気づいたみおも振り向き、一瞬の後、息を呑む。

 しかし、誰が声をかけるより先に、皐月は身をひるがえして駆け出した。


「あっ……!」

「あれ、まさか小野辺おのべさん?」


 そういえば初対面の澪の問いに、声すら出せずに敦司あつしは頷く。


「こんなところで……まずい、追いかけよう!」

「っ、はい!」


 皐月を追って路地に飛び込むと、すぐ先に開いた錬鉄の開き戸が見えた。その両側はぐるりと土地を囲むブロック塀で、有刺鉄線が張られた頭上の向こうには、二階建て高さの建物が見える。波打つトタン壁の、倉庫かなにかだ。


「ここ、桑原重工の……多分、裏口だ」

「小野辺さん、なんでこんなところに……!」

「それは本人に。行くよ」


 明らかに不法侵入だが、そんなことを言っている場合ではない。澪を先にして、するりと錬鉄の扉を抜けていく。

 桑原重工業の所有だというこの土地は、どうやら事務所兼資材置き場として使われているらしい。日曜日の今日は車の出入りもなく、しんと静まり返っている。そんな中、足音が聞こえた気がして、人気のない建物の間をすり抜けた先へ出ようとした時だった。


「おい! ここでなにしてる!」


 大人の男性の怒鳴り声に、一瞬、自分たちが怒られたのかと身を竦める。

 しかし、その声がしたのは、もっと先の死角になった辺りだ。はっと我に返った敦司は、一目散にそこへ向かった。


「――小野辺さん!」


 飛び出した先で、幼なじみの背中を見つけた。

 それより手前にいる男性が、ぎょっとしたようにこちらを振り向く。目の端に捉えたその顔が、校長室前で遭遇した桑原氏のものだと敦司も気づいたが、今はそれより、構うべきものがあった。


「な、なんなんだ、お前らは! 誰の許しがあって……!」

「事情は私が! きみは小野辺さんを!」


 まくし立てる桑原氏に向かった澪に「はい!」と返事だけ残し、敦司は足を止めずに皐月を追った。


 その背が向かっていったのは、桑原重工の敷地の奥。事務所が建てられ、小綺麗に整えられた庭木の向こうに、見慣れた校舎の裏側があった。

 そしてその間に鎮座する、小山と見紛うあの古墳も。

 そこへとひた走る、幼なじみの小さな背中も。


「小野辺さん! ダメだ! 戻って!」


 止まらない背を追って走る。

 桑原重工側にも古墳を囲うフェンスはあったが、学校側と違い、出入りのための片開きドアがついている。見た目からして鍵がかかっているだろうと思うのに、今、そのドアは皐月に開けられて、無意味なオブジェと化していた。

 迷う理由など欠片もない。駆け寄った敦司は皐月を追って、そのフェンスドアを潜り抜けた。

 ――その、たった一歩で、空気が変わった。


「……なに……!?」


 思わず足を止めて、周囲を見回す。

 伸び放題に草木が繁茂した円墳は、密林のような有様だった。高低さまざまな木が密集し、その枝からは蔓植物の名残がクモの巣のように垂れ下がっている。足元の斜面には敦司の背丈に迫るほどの草が茂り、その隙間にはごろごろと石が転がっている。明らかに、人の手が入っていない場所だった。

 しかし、敦司が覚えた違和感は、そんな自然の産物ではなかった。


「…………音が……ない」


 鳥の声や虫の気配、車のエンジン音どころの話ではない。後ろに置いてきた澪と桑原氏の声も、風が起こす葉擦れの音さえも聞こえない。先へ進んでいるはずの、皐月が立てる足音すら。

 ――代わりに、頭蓋の底から湧き上がってくるのは、あの耳鳴り。


「……っ! 小野辺さん!」


 ぎっと歯を食いしばり、這い寄る恐怖を振り払う。

 たった数瞬のその間にも、皐月の姿は見えなくなっていた。焦る目に、しかし、少し先で大きく揺れる下草が見えた。追ってそこまで辿り着き、さらに進んでいく揺れの跡を見つける。

 それを続けて進むうち、次第に、耳鳴りが強くなる。何十個ものトライアングルを耳元で響かせられているような感覚に、脳髄を侵食されている気分になる。

 だが、それで正解だった。


 斜面を登り詰めたと思った直後、草木の茂みを抜け出した。

 明るくはない、しかし暗くもない、嵐の前の曇天下のようなその場所には、短い下草の中、一本の木が立っていた。大きくねじれた、怪物のような松の老木だ。

 敦司がそれを目にしたのは、その根元に、皐月が倒れる瞬間だった。


「小野辺さん――!」


 駆け寄ろうとした足が、けれど、止まる。

 鋭く呑んだ息が、吐き出せなくなる。



 老木の陰から溶け出したのは、血染めの、白無垢姿だった。




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