第25話 血の報い


 菱形地紋も美しい、純白の打掛。

 同じく純白であるはずの小袖を染める、鮮血の赤。

 そして目深にかぶった綿帽子――そこから覗くのは、牙を剥いた鬼の口元。


 その現実感のない立ち姿に、敦司あつしは刹那、夢とうつつの感覚を失くした。


 呆然と見ていたその前で、白無垢姿のその〈鬼〉は、敦司に気づかないようだった。俯き加減の視線は、倒れ伏した皐月さつきだけを映していた。

 はっと我に返った時、白無垢の〈鬼〉は、皐月のすぐ間近まで迫っていた。その血濡れた袖が音もなく、横たわる幼なじみへと伸ばされるのだと悟った瞬間、敦司は考えるより先に飛び出した。


「やめろ! 近っ、づくな!」


 自分史上類を見ない速さで皐月をかばい、白無垢を追い払おうと腕を振る。

 幽霊が相手だ、実際に手が当たると思ってはいなかったが、せめて、煙のように掻き消えたり薄まったりしてくれと願ってだった。

 実際、霊体を突き抜けた腕は〈鬼〉の輪郭を歪ませた。

 しかし同時に――その一瞬、敦司の脳裏に、なにかが走った。


「っ――」


 メガネの男性。

 優しそうな顔を慈しみでいっぱいにした、どこか見覚えのある笑顔。

 それが誰かと思う前に、その鮮やかな幻は消え失せる。

 敦司は腕を振り切ったまま、呆然と呟いた。


「今、のは……」

『――……どう、して……』


 一拍遅れて、その声が〈鬼〉のものだと悟る。


『なんで……邪魔を……あなた……我がきみ……』


 以前に聞いた、時代がかった口調とは違う。混乱を静かに波立たせながらも、それは、思いがけずしっかりとした声音だった。

 見上げたすぐそばに、〈鬼〉の顔があった。あまりの近さに息を呑んだ敦司は、しかし、その顔が本物ではないことに気がついた。

 真っ白な綿帽子の下にあったのは、〈だ。

 牙を剥き出しにしたその口元を動かさず、〈鬼〉は『どうして』と繰り返した。


『どうして……我が背……わたし……私は……』

「…………っ」


 なにがなんだかわからないが、攻撃してくるような様子はない。今のうちに少しでも皐月を遠ざけようと、俯せたその肩を抱き寄せ、後ずさろうとした時だった。


『――私はァアァァ!!』

「うっ!?」


 突如、覆いかぶさるように〈鬼〉が襲いかかってくる。避ける間もなく、腕の中の幼なじみをかばった敦司は、急激に遠ざかる意識の淵で、強く閉じた瞼の裏に、揺れる小さな影を見た。


 その影は小さくうずくまり、まるで泣いているようだ、と微かに思った。




          *




 ――あの人と初めて出会ったのは、尋常小学校の時だった。


 同じ学年で同じ教室で、最初はまったく知らなかったけれど、1年生にして「変な子だよね」と女子の間で言われるようになって、興味半分で観察を始めた。

 その頃のあの人は、私たち女子よりも身体が小さくて、整列の際にはいつも先頭に立っていた。とてもおとなしそうな風貌で、垂れ気味の目に丸いメガネをかけて、休み時間にはいつも熱心に本を読んでいた。それも、教科書や物語の本ではなくて、厳めしい表紙がついた分厚い本だ。男の子というものは、外を走り回って泥だらけになるのが好きなものだと思っていたから、それだけでもう、私たちにとっては未知の存在だった。

 そう思っていたのは女子だけではなくて、男子もまた、同じだった。遊びに誘うくらいならいいものを、からかったり馬鹿にしたり、読んでいる本を奪って隠そうとまでした。最後は教師に見つかって、未遂のうちに終わったが。


 そんな彼が、ある日、校庭の隅にうずくまっていた。

 気になった私が「なにしよるん?」と尋ねると、彼は天地がひっくり返ったかのような顔で振り向き、慌ててなにかを背に隠した。

 覗き込んだそこにあったのは、梅干しでも漬けられそうな、壺だった。

 その時には「なんでもない」とごまかされたが、それから時々話すようになり、高等小学校に進学した頃、ぽろっとなにかの拍子に教えてくれた。


「あれは……〈蠱毒こどく〉を作ろうと思って」


 〈蠱毒〉というのは古いまじない事の一種だと、彼は言った。

 壺の中に毒虫や毒蛇、毒蛙をたくさん入れて、喰い合った果てに残った一匹で、強力な呪いをかけることができるらしい。彼はその呪いを、自分の本を隠そうとした男子に向けるつもりだったという。

「そんな怖いことやらんでよ」と悲鳴交じりに批難した私に、彼は坊主頭を片手で掻いて、言い訳がましく呟いた。


「……でも、あの時やらんかったら、多分、こうやって浅川さんと話すようには、ならんかったやろうし」


 目を泳がせて頬を染めて。じっと見ていると、はにかむように微笑んで。

 その笑顔に、私はすとんと恋に落ちた。




 彼と付き合い始めたのは、それからしばらくしてだった。

 彼は、生まれてすぐに両親を亡くし、叔父夫婦の家で育ったらしい。

 その叔父という人が、実は帝国大学で講義をするような民俗学者で、彼が学校で読んでいた本も、その本棚の蔵書だったのだという。

 そんな環境で育った彼だが、どちらかといえば、彼自身は歴史学のほうが好きだった。卒業して市内の会社に就職してからも、暇さえあれば本を読み、お茶や食事をともにすることがあっても、大昔の人やその研究の話ばかり。まったく興味のない私には退屈な内容だったけれど、彼が楽しそうにしている姿なら、何時間だって眺めていられた。

 そんなある日、彼は私に、短い歌を聞かせてくれた。


「――『うら恋し 我が背の君は なでしこが 花にもがもな 朝な朝な見む』」


 意味がわからず尋ねた私に、彼は、真っ赤な顔で本を差し出した。

 それは『萬葉集』という大昔の歌の本で、しおりが挟まれたその歌の解説を読んで――私はきっと、彼よりも顔が真っ赤になっていた。


『心から愛しいあなた。あなたがもしも撫子の花だったなら、わたしは毎朝、あなたを眺めているだろうに』


 背の君というのは、愛しい相手を呼ぶ言葉だ。そう照れくさそうに教えてくれた彼は、その呼び方で私を呼んで、僕と結婚してくれませんか、と言った。

 和歌の言葉などわからない。歴史になんか興味もない。

 けれど、彼を同じように「背の君」と呼んで、笑顔で頷き返すことに、そんな難しいものは必要なかった。





 子どもが生まれたのは、その翌年。

 赤くてしわくちゃな小さな命。私たちの宝物。

 きっと幸せになるようにと、2人で考えた名前をつけた。

 おっかなびっくりを抱き、その名を呼んで微笑む彼――そんな光景をすぐそばに見て、胸が温もりで満たされるような、世界が光で満たされるような気持ちになった。

 私たちにとってはこの子こそが、幸せそのものに違いなかった。




 米国との戦争が始まったのは、その年の冬。

 きっと大丈夫と言い合ううちに、少しずつ暮らしが悪くなり、彼の務める会社も軍に接収された。海辺のほうには工廠こうしょうが立ち並び、贅沢品は禁止され、店先からは食糧や物資が減り始めた。

 それでも大丈夫と思っていたのに、息子が2歳になる前に、彼あての赤紙がうちに届いた。

 昔から極度の近視で、体格もよくはなかった彼は、成人時の徴兵検査で丁種とされていたはずだった。兵役不適だ。だから今度も大丈夫だ、と再度検査を受けに行った彼は、しかし、真っ青な顔で帰ってきた。

 震える手に握られていた通知には、『合格』の文字が書かれてあった。


「これを、預かっとってもらえんやろか」


 出征の朝。そういって彼が差し出したのは、就職祝いに叔父から贈られたと喜んでいた、小さな懐中時計だった。


「余所で失くしたら、困るけん。きみが持っとって。僕が戻るまで」


 きっと生きて帰ってくるからと、その頃であれば非国民と言われるような約束をして、彼は出征していった。

 それが、彼と言葉を交わした、最後の時となった。





 戦争が終わったのは、息子が4歳になった夏。

 空襲がひどくなった頃、彼の叔父夫婦の家には、焼夷弾が落ちていた。彼が好きだった本棚の蔵書は燃え尽くされて、優しかった叔父夫婦も、後日の空襲で亡くなった。同じ空襲で実家も失っていた私は、息子を連れて、両親が世話になっているという知人の家に身を寄せた。

 息子は幼いながらも我慢強く、私の前ではよく笑った。なにもかもが灰となり、彩度を失った私の世界で、息子だけが変わらず鮮やかだった。

 彼によく似た優しい眼差し。

 この子だけは必ず守ってみせると、遺骨もない彼の墓前に私は誓った。





 私に再婚の話が出たのは、終戦したその年の瀬だった。

 間借りしていた家の主の仲立ちで、相手は、舟崎市内の地主の家。駐留軍との間でうまく立ち回り、市内の土地と、たくさんの工場を手に入れた戦後成金だった。

 どうしてそんな家が、出戻り瘤付きの私を欲しがるのか。疑問はあったが、抵抗はなかった。息子も一緒に来るといい――形ばかりの見合いの席でそう言ってくれたそれだけで、心を決めるのにはじゅうぶんだった。

 これで息子を守っていける、と相手に感謝すらした。

 それがどれだけ愚かかも知らず。





 ――真実を知ったのは、式の当日。

 戦後の物資不足の中、どこにそんなものがあったのか、雪のような白無垢を着せられた私は、ふと息子の姿を見ないことに気がついた。

 分別はあっても幼い盛りだ。どこかで迷惑をかけてはいないかと、世話役の女性が席を外した隙に、私は支度部屋を抜けて探しに出た。

 息子はほどなく見つかった。締め切られた奥の間の前で、1人、ぼうっと立ち尽くしていた。

 どうしたの、と声をかける寸前に、目の前の部屋から声が聞こえてきた。


「……ええ、それはもう、きちんと縁は切らせますから」

「桑原さまのお邪魔にゃあならんよう、わしらが面倒見ますけん」


 それは、私の両親の声だった。

 焦ったようなおもねるような2人の声に、別の声が、聞き覚えのある声が、フン、と鼻先で笑って返した。


「当然ですよ。わたしが欲しいのは、あなたがたの娘だけだ。せっかく売国奴の軍人どもを買収して、あの頼りない薄ノロを戦場へ送ってやったのに、その種が残っているなど言語道断。本当なら、この手で同じように始末してやりたいところです」


 耳を疑ったのは、一瞬だった。


 、理解した私は、とっさに息子を抱き上げた。

 小さな頭を抱え込んで、なにも聞こえないように耳を塞ぐ。薄汚く同調する祖父母の声も、父親を死なせて己の死をも望む、母親の再婚相手の声も。

 息を殺して立ち去ろうとした肩越しに、息子の存在一切を私に近付けない代わりとして、相当額の結納金がすでに収められていた話を聞いた。

 そんな話は知らなかった。

 私たち母子おやこは、実の血縁に売られていたのだ。


 逃げなくてはと思った。

 けれど、逃げるあてなどどこにもなかった。

 相手の屋敷の真ん中で、大勢の参列客が集まる中で、花嫁が逃げ出すことなど不可能だった。

 それでも、私は息子を守らなくてはいけなかった。

 あの人が遺してくれた、唯一無二の存在を。私たちの宝物を。

 考えた私は、お勝手を手伝いに来てくれていた友人のことを思い出した。同じ尋常小学校の幼なじみで、今は、汽車で行くような遠くの家に嫁いでいる。

 私はその友人に、息子を託すことにした。

 事情をかいつまんで話したうえで、戸惑う友人に押し付けるようにして、息子と、なけなしのお金すべてを渡した。誰にも気付かれないうちに、すぐさま出立してもらわなければならなかった。

 息子には、あの人の懐中時計を手渡した。あれからずっと、肌身離さず持っていたものだ。なくさないよう私の巾着袋に入れてあげて、手首に紐をぎゅっと結んだ。

 最後に強く抱きしめて、私は息子に別れを告げた。「すぐに迎えに行くからね、いい子でいてね」と言う私に、息子は黙って頷いた。


 こんな時でさえ泣かない息子が、誇らしくもあり、悲しくもあった。





 息子はもう、大丈夫だ。

 あの子さえ無事なら、もはや自分のことなどどうでもいい。犯されなぶられ骨の髄までしゃぶりつくされ、どう朽ち果てようが構わない。構わないが――

 このまま唯々諾々と、人でなしな鬼畜生どもの、言いなりになるつもりは欠片もなかった。


 私は屋敷を抜け出した。逃げるためではない。死ぬためだ。

 もみ消される恐れのない場所で、劇的に死んでやろうと白無垢のまま。しかし、そんな私はやはり目立ち、すぐに追手がかけられた。裏山に駆け込む姿も見られてしまい、小さなその頂上に追い詰められた。

 だから私はその場所で、花嫁装束の懐剣を、己の首筋に突き立てた。

 痛みなどあってないようなもので、噴き出した血が地面に広がっていくのを、私は安堵とともに眺めていた。誰かの驚く大声が聞こえ、冷たい唇を吊り上げた。


 これだけ婚礼を台無しにすれば、お家の評判も落ちるだろう。

 ざまあみろ、と嗤う脳裏に――しかし刹那、鮮烈によみがえった声があった。



『……ええ、それはもう、きちんと縁は切らせますから』


『桑原さまのお邪魔にゃあならんよう、わしらが面倒見ますけん』


『せっかく売国奴の軍人どもを買収して、あの頼りない薄ノロを戦場へ送ってやったのに、その種が残っているなど言語道断』


『本当なら、この手で同じように始末してやりたいところです』



 あの声。あの言葉。あの口調。

 思い出すだけで吐き気がする、蛆虫がたかった腐肉のような下衆どもの存在。

 あんなやつらが生きていてはいけない。名を落とし、財を失くすくらいのことで許していいはずがない。許されるなどということがあってはならない。親とは名ばかりの金の亡者も、私から愛するものを奪った外道の屑も、それに乗せられた売国奴どもも、そんなやつらをのさばらせていたこの国も。


 ――腹の底から燃え上がったのは、怒りと憎しみ。絶望に彩られた復讐心。


 私からあの人を奪ったすべてに。

 私からあの子までもを奪おうとしたすべてに。



 血の報いを、与えなくては。




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