眠れる森の銀狼(2)


 安らかな終わりのぬくもりに沈んでいくその中で──。


 ズキリと、胸に熱い感覚が刺さった。


 焼けるように熱い……痛み。


 コウシロウが顔を上げれば、そこには仏頂面で見下ろしてくる同胞の姿があった。

 いつも気難しく、哲学やら歴史学やらの本を読みふけっては、小難しい理屈をこねていた同胞。人間に憧れるコウシロウを、愚かだ浅慮だとあきれながら、それでも、いつだってその愚かで浅慮なコウシロウに付き合ってくれた。


 そう、彼は数多の眷属たちの中で、妹以外でただひとり、銀狼王に対等に接してくれた者。

 だから、彼はコウシロウにとって、ただひとりの友達だったのだろう。

 その彼が、かつてと同じく気難しい眼差しで、コウシロウの胸もとを睨みつけていた。


 胸もとに提げた牙の首飾り。同胞たちの力の残滓。

 そこにはもう愛しい妹の輝刃キバはない。

 けれど、未だ十を超える数のそれが確かに淡く輝いている。


〝──オレたちを、置いて逝くのか──〟


 こちらを睨む友の眼差しが、そう糾弾しているような気がした。

 オマエは贖罪の途中であるはずだと、成し遂げるべき役目が残っているはずだと。


 贖罪を成さずに、半ばで果てて逝く──。


 それは無責任な最後であり、責め咎められる終わりである。そんな迷惑な最後など、オマエには赦されないのだと、鋭い眼光が告げていた。


 かつて、この友人は言っていた。

 この世で最も周りに迷惑をかけない死に方は餓死であると。


 そして、その代わりに最も当人が苦しむのもまた餓死なのだと、そう言っていた。


 だから、罪深いコウシロウが、その贖罪の半ばで逝くというのなら、それは餓死であるべきだ。

 大切な者を置き去りにして逝く愚か者に、安らかに満たされた最後など有り得ない。


〝──逝くのなら、誰にも迷惑をかけず、苦しみ抜いて息絶えろ──〟


 こちらを睨む友の残滓が、確かにそう告げていた。


(……ああ、それは本当に、その通りですね……)


 胸に満ちる確かな命の熱を感じながら、コウシロウは静かにうなずいて……。


 だから、その熱を握り締める手に力を込めて、ゆっくりと目を開けた。


 薄暗く、静まり返った劇場内。

 静まり返ったそこは、観客席の後方。

 歌声に包まれながらくずおれたその場所で、コウシロウが握り締めているのは、淡く輝く銀色の輝刃キバ

 鎧の亀裂越し、胸に突き立てたそれから確かに流れ込んでくる銀狼の力。

 死にかけた微睡みの中で、無意識に突き立てたのか?

 あるいは、これはあの偏屈な友の輝刃キバなのだろうか──。


「……クーちゃん……」


 ふと、弱々しい声が、呼びかけてきた。

 見上げれば、目の前にたたずむ銀髪の歌姫。

 愛しく、大切な、美しい彼女。

 その翡翠色エメラルドの双眸から、煌めく涙がひとすじ、こぼれて落ちた。


「……ファナティア……さん……」


 応じた声が力なくかすれていたのは、衰弱よりも、驚きからだったのだけれど──。

 彼女はその双眸を大きく見開いて、嘆きを張り上げる。

 泣きじゃくりながら、うずくまるコウシロウに抱きついてきたファナティア。

 涙をあふれさせ、泣き喚きながら、コウシロウにすがりついてくる。


「……イヤだよ! 死んじゃイヤだよ……クーちゃん! クーちゃんが死んじゃったら、わたしは……ッ!」


 それは間違えようもない。

 愛しい者の死を拒み、痛みに憂い、悲しんでいる姿。


「クーちゃん、クーちゃん、クーちゃん……!」


 ファナティアは繰り返しコウシロウを呼びながら、抱きつく腕に必死で力を込めてくる。

 まるでコウシロウの命を取りこぼすまいとするように、彼の命の鼓動を抱き留めようとするように、懸命に。


 泣いている歌姫。

 それは愛しい人の危機に涙して、むせび泣く確かな情動。


 コウシロウを失うことを恐れ、コウシロウがいなくなることを厭うて、身を裂かれるような嘆きにさいなまれている彼女は、だから、心の底からの確信をもって叫んだ。


「ほら、クーちゃん! やっぱりだよ……!」


 ファナティアはコウシロウに初めて会った時から、心に強く響く感覚があった。

 胸がドキドキして、いても立ってもいられなくなるような、激しい昂揚のような感覚。

 コウシロウの姿を見ると心が震えた。

 彼の声を聞くと胸が躍った。

 彼と一緒にいるだけで、ファナティアは楽しくて笑顔が込み上げた。

 歪んでなどいなかった。ねじ曲がってなどいなかった。

 それはやっぱり、在りのまま、その通りの感情の発露。


「わたしは、初めて会ったあの時から、キミのことが大好きで!

 だから……!」


 あふれる涙をぬぐうのももどかしく、泣き顔を輝く笑顔に変えて、

白雪姫スノーホワイト〟は歌うように高らかに叫ぶ。


「だから、これからもずっと!

 キミのためだけに、わたしは歌うんだよ!」


 劇場内の隅々にまで響き渡った声。

 彼女が、おそらくは生まれて初めて心の底から張り上げた喜びの感情。

 その透き通るように純粋な宣誓に、コウシロウは、込み上げた黒い焦燥をねじ伏せて微笑んだ。


 焦燥──けれど、これは安堵であり、そして安らぎと恋慕だ。


 愛しい彼女が、真っ当な心を取り戻してくれた。その上で、なお、コウシロウを好きだと慕ってくれた。


 そんなあたたかな輝きの中で抱いた感情なのだから、間違えようもない。

 コウシロウは込み上げた情動を理性でねじ伏せ、知性で補正して、愛しい歌姫を優しく抱き締め返して──。


 そこでようやく、周囲を取り囲む観客たちの存在に気がついた。


 そうだ。

 コウシロウは満席の劇場内で、公演中に昏倒していたのだ。

 なら、ここにはまだ多くの観客たちがいるのは道理で、その中で、舞台上の歌姫が公演をほっぽり出して、倒れた男に駆け寄り、泣きながら抱きついて、あまつさえ高らかに愛を叫ぶなどと──!


「え、な、その、これは……!」


 しどろもどろに狼狽するコウシロウ。

 ねじ曲がる余地もない明確な焦燥に駆られるままに立ち上がろうとして、けれど、消耗した四肢は思うように動かせず、再び倒れ込みそうになったところを、横から伸びた腕に支えられた。


「はいはい、まだ充分に死にかけなんですから、無理しないでくださいやダンナ」


 飄々とした声は仮面の団長、金色孔雀。

 相変わらず気配もなく現れた彼は、コウシロウの身体を支えつつ、ファナティアに向き直る。


「さあファナティアさん。まだ公演中でやすよ。愛しい彼氏はあっしが面倒見ときますから、あなたは舞台に戻って、思う存分、彼のために愛を歌ってくださいな」


 どこまでも飄々と告げる団長に、ファナティアは「うん♪」と朗らかにうなずいた。


「クーちゃん、また約束を破ったら、もう絶対に赦さないんだからね!」


 ファナティアはコウシロウのために歌い、コウシロウはそれに見とれて聞き惚れる。

 彼女の言う通り、もう二度とスッポカさないと約束した。

 だから死んでいる場合ではないのだと、そう念を押すように叱りつけてから、ファナティアは身をひるがえす。


 銀髪をなびかせて花道を駆け戻っていく〝白雪姫スノーホワイト〟。


 その後ろ姿を見送りながら、コウシロウは自身に突き刺さる無数の好奇の視線にさいなまれるままに、胃を押さえて呻く。


「いやはや、こんな大観衆の中で交際宣言とか。こりゃあ、これから大変ですねえダンナ」


 ハッハッハッ──と、心の底から他人事な態度で笑う金色孔雀。

 その様子に大きくざわめく観客たち。

 劇団の責任者が公認したも同然の状況なのだから当然だ。


「だから言ったでやしょ? 手を出すなら、ダンナにもそれなりの覚悟が必要だと」


「……僕は、まだ彼女に手を出してはいませんけど……」


「これから出すんなら同じでしょうや? さあ、そういう面倒事は後回し、今は愛しい歌姫様の歌を拝聴しましょ」


 金色孔雀は芝居がかった所作で舞台上を指し示す。

 直後に響き始めた美しい旋律。

 高らかに奏でられる〝白雪姫スノーホワイト〟の歌声。

 かつてないほどに熱く情熱的に歌い上げられるそれに、あれほどにザワついていた場内が、すぐに静まっていく。


 舞台上で歌い舞うファナティア。

 その翡翠色エメラルドの眼差しは、やっぱり、真っ直ぐにコウシロウを見つめていて──。


 大きく手を振ってくる歌姫様。

 コウシロウは深い諦観の中、それでも意識してニッコリと笑いつつ、ゆるりと手を振り返す。


 ファナティアはいつかに同じく、いや、それ以上の歓喜と幸福をもって、光り輝くように歌い続けたのだった。


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ストレイウルフ・アストレイ アズサヨシタカ @AzusaYoshitaka

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