終幕 眠れる森の銀狼

眠れる森の銀狼(1)


 シャロワでの〝語り部語りテイルズテイル〟公演二日目。

 正確には、初日の特別公演は怪物騒ぎで開演早々にお流れになったため、実質は今日の公演が初日と言っても良いだろう。


波鎮号ウェイブスィーパー〟が整備中のため、臨時で別の劇場での開催となったが、今のところは特にとどこおりなく開演を迎えようとしていた。

 北部区画にあるこの劇場は、シャロワで最も大規模で、新鋭の設備を備えており、観客収容数はいつもよりも多いくらいなのだが、その追加分もふくめて、今回も当日券が出ることなく事前にさばききれたそうだ。


 今回はチケット販売に際して、身元の確認を厳重に行った。平行して、瞳の色彩のチェックも行っている。

 無論、黒狼の眷属が再度まぎれ込むことを防ぐためだ。


 じきの開演を前に、観客たちが順に入場して行く様子を、コウシロウはいつにも増して鋭く厳正に警戒監視している。


 あの黒髪の歌姫──〝黒泥姫グレイブハート〟。


 今日、彼女は現れるはずだ。それは間違いないだろう。

 ファナティアに対する憎悪と怨念に駆り立てられる彼女が、今日のこの公演を見過ごすとは思えない。


 劇場二階から前庭を望むテラス。

 そこに陣取って眼下の入場風景を睨むコウシロウ。

 今のところ、次々と入場して行く観客たちの中にはもちろん、周辺にも不審な姿は見当たらない。


「あーあ、久しぶりに気持ちよく歌えそうなのに、クーちゃんが聴いてくれないんじゃあ意味ないなあ……」


 明るい声で不満を紡いだのは、彼の足もとで寄り添うように膝を抱えている銀髪の歌姫。

 公演中の襲撃に備えるため、コウシロウはずっと劇場内外を見回らなければならないので、今回はいつものように公演を観覧できないのだ。


「我慢してくださいよ。今は警戒を優先するべきです。それに、僕だってあなたの歌を聴けないのは本気でツラいんですから」


 コウシロウは込み上げたイラ立ちと憤慨を、あえて抑えることなく吐き出した。普段の彼らしからぬストレートな険悪さに、ファナティアは驚いて見上げて返す。


「そんなにわたしの歌が聴きたい?」

「ええ、なので、早々に片付けて拝聴しに行きますよ」

「うん♪ じゃあ、待ってるからね。今度はスッポカしちゃダメだよ?」

「だから、それは最初の時だけでしょう。いい加減に赦してくださいよ」


 やれやれと肩をすくめつつ。

 見下ろした前庭の光景。

 観客の入場が終了し、仮面の団員たちが入口の閉鎖と、各所の警戒に取りかかり始めるのを見やりながら、コウシロウは足もとのファナティアに告げる。


「……さあ、もう開演時間ですよ」

「…………」


 彼女は軽やかに立ち上がったものの、ニコニコと笑みを浮かべて立ち尽くしたまま。

 コウシロウは、そんなな彼女に手を伸ばす。その不安を消し去るために、優しく労る仕種で肩を抱き寄せた。


「大丈夫ですよ。あなたの歌は、誰にも邪魔させません」


 声音は静かに、そして想いは強く、断言する。


「……うん、ありがとう。クーちゃん」


 ファナティアは嬉しそうにうなずいて、劇場内に駆けて行った。

 銀髪をなびかせて走り去るその後ろ姿を、コウシロウはまぶしそうに見送って──。


 風が、ひときわ強く吹き抜ける。


 コウシロウは大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 静かに、呼吸を制御し、闘志を研ぎ澄ます。

 胸もとに提げた牙の首飾り。そこにはもうシオリの輝刃キバはない。

 憎き黒狼を討滅し、銀狼としての使命は果たせた。

 後は、黒狼が産み落とした眷属たちを残らず葬って、災厄を解き放った者としての責任を果たすだけだ。

 意識を集中し、周囲の気配の乱れを逃すまいと研ぎ澄まし続けて、


 さて、どれくらいが過ぎたのだろうか──。


 ピクリと、コウシロウはこめかみを震わせた。

 もう一度、静かに深呼吸で調息し、テラスの手すりをつかんで飛び越える。

 卓越した体術で衝撃を殺しつつ着地した彼は、ことさら大儀そうに身を起こすと、前庭の先、敷地と外とを隔てる門扉を睨みつけた。

 鉄柵状をした両開きの門扉。

 その格子の向こうにたたずむのは、黒髪を風になびかせた黒い肌の少女。


 ──〝黒泥姫グレイブハート〟──。


 ファナティアと同じ貌に、酷薄な冷笑を浮かべて、ジッとこちらを睨みつけている。

 その双眸は閉じられたままなのに、それでもやはり、睨まれているのだと実感できるほどの鋭利な敵意と殺意。


「……銀狼……」


 静かな、底冷えるような低い声。

 コウシロウは劇場の入口を背にし、黒髪の歌姫と真っ直ぐに対峙して告げる。


「……もうしわけありませんが、当一座のチケットは完全前売り、当日券はございませんし、すでに公演は始まっております。どうか、お引き取りいただくよう、お願い致します」


 いつかの金色孔雀のように慇懃に一礼する彼に、対する〝黒泥姫グレイブハート〟はイラ立ちも激しく鉄柵をつかむと、そのまま力任せにこじ開けた。

 錠前が弾け飛び、格子を歪めながら開け放たれた門扉をくぐって、黒髪の歌姫はゆっくりと敷地に足を踏み入れてくる。


「……相変わらず、無作法なお嬢さんですね」


「母様の仇を相手に、何をかしこまることがあるの?」


「ああ、それはそうですね。確かに、その通りだ。なら、僕も大切な人を守るのに……何もへりくだることはないな」


 コウシロウは、ゆるりと浅い吐息をひとつ。

 浮かべていた苦笑いを冷たく凍らせて、眼前の少女を睥睨した。

 あたかも周囲の空気がシンと冷えたかの変化に、〝黒泥姫グレイブハート〟は確かな怖気を覚えて身構える。


 寸前までと一変したコウシロウの雰囲気。

 浮かべた笑みは、黒い少女のそれに輪をかけて冷たく酷薄に──。


「我は銀狼の王。黒を呪い、黒を縛する、神殺しの獣……」


 コウシロウは朗々と唱えながら、腰の兜を手に取り、ことさらにゆるりと身に着ける。

 まといし鎧と鬼相の兜が連結し、錆色の色彩が血風となって舞い上がり渦を巻いた。


「黒狼の落とし子よ……いざ、まみえたからには生かしておかぬぞ」


 鬼面の四つ眼が深紅に輝き、真っ向から殺意を叩きつける。


「ふん、上等よ。生かしておけないのは、こちらも同じだ銀狼!」


 黒髪の歌姫が叫ぶ。

 瞬間、周囲が暗く陰り、圧倒的な重圧が上空から飛来する。


 敷地を囲む外壁を一足飛びに越えてきた漆黒の巨獣が、コウシロウを叩き潰そうと豪腕を振り下ろしてきた。

 黒き雪崩のごとき重圧を、コウシロウの左腕が──鬼神の鎧に覆われた左腕が血煙を噴いて迎え撃つ。重い衝撃は、受け止めたコウシロウの足が地面を割ってくるぶしまで埋まるほどの凄まじさ。


 しかし、受けたコウシロウの四肢はわずかにも揺らぐことなく、反対に、殴りつけた黒獣の方が悲鳴を上げて仰け反った。

 濁った煙を噴き上げる黒獣の腕。コウシロウに触れていた部分が、真っ赤に焼け爛れて溶解している。


 ボコリと、両足を地面から抜いて歩み出るコウシロウ。

 そのまとう鎧が、そこに染み込み乾いていた錆び色の血が、鮮やかな深紅の色彩を取り戻して滴り煙る。

 灼熱の血煙。

 紅い鮮血は霧のごとく煙りながら、炎の揺らめきとなってコウシロウの全身を包み込む。


 気圧されるように後じさる黒獣。

 その巨影の肩に飛び乗った黒髪の少女が、高らかに怒声を張り上げた。


「逃げるな! あれは、我らの母様を殺した怨敵だぞ!」


 鬼神の眼光を鋭く睨み返して憎悪を叫ぶ。


「敵を恐れるな、敵に怯むな! 敵を憎め、敵を恨め、敵を喰らえ! 我らは、そのためだけに産み落とされた!!」


 歌い上げるように響いた宣言。

 黒獣は咆吼を上げて、その両の鉤爪を振り放つ。

 立て続けに放たれる鉤爪。一撃ごとが重く、強く、激しく、怒濤となってコウシロウを打ちすえ、ねじ伏せようと空を裂く。


「よくも! よくも! 邪魔をするな銀狼! 死して失せよ! 我らの恨みを、怒りを、猛り渦巻く憎悪を、思い知るがいいッ!」


 黒き歌姫が張り上げる憎しみの叫声に、呼応する黒獣は吠え声とともに大きく豪腕を振り下ろした。


 響いたのは、肉がひしゃげる鈍い音。


 黒い飛沫をまき散らしながら空を舞う黒い腕。

 黒獣は豪腕を振り下ろした体勢のまま、肘から先が引きちぎられた己の腕を呆然と見やる。


「……恐れず、怯まず、ただ、憤怒のままに憎悪を叫ぶ」


 血色の腕を振り払い、血色の拳を握り締め、

 コウシロウは冷ややかに嗤う。嗤う。


「そうだ。それこそが復讐者だ。ゆえに我もまた黒を憎み、黒を呪う。さあ、我が愛しき白雪の姫に仇為す、黒き獣どもよ……」


 鬼神の眼光が、ひときわ禍々しく輝いて紅蓮を噴き上げた。


「然るべき、報いを受けよ」


 断罪の宣告とともに振り放たれた拳──否、それは拳ではない。五指を開き、爪で骨肉を抉り抜くように、血色の凶手が黒獣の胸もとを貫いた。

 血がしぶく音、

 骨が砕ける音、

 肉が抉れる音、

 それらが連なり重なって響いた後、ことさらに大きく周囲を震わせたのは、何かが握り潰される音。


 致命的な何かが、無慈悲に弾ぜて消える音。


 天を仰いだ黒獣は、か細い断末魔を奏でながらその身をくずし、黒い霧となって消滅した。

 宙に投げ出された〝黒泥姫グレイブハート〟は、身をひるがえして着地すると、憎悪も深くコウシロウを睨みつける。


「……おのれぇ……ッ」


 見開かれた双眸、暗黒のウロのごとき虚無の眼窩が、恨めしげに歪んだ。


「……輝刃キバの銀狼ォ! オマエだって空っぽのくせに! わたしと同じ、黒い心しかないくせに! 何が大切な人だ! 何が愛しき白雪の姫だ! 憎悪と悲哀で、何を守れるものか!」


 澄んだ声で、歌うように澄んだ声で、黒い少女は否定を叫ぶ。


「無駄だ! 無駄だ! 憎しみでは何も愛せない! 怒りでは何も癒やせない! 悲しみでは何も救えない! オマエは、いつかきっと、その黒い心で全てを蝕み喰い潰す!」


 愛しい人と同じ声で、同じ貌で、呪いを歌い上げる黒き歌姫。

 虚ろな獣に安らぎはない。幸福はない。黒い心しか持たない者は、ただひたすらに何かを憎み、呪い続けることしかできないのだと〝黒泥姫グレイブハート〟は呪詛を吐いた。


「オマエも、わたしも、絶望でしか世界に向き合えない!」


 黒い眼窩から血の涙をこぼしながら嘆きを叫ぶ。


 ──そうだ。その通りだ。


「だから僕は、彼女を苛む絶望あなたを認めない」


 容赦なく、慈悲もなく、怒りと憎しみを込めて、コウシロウは怨敵である〝黒泥姫グレイブハート〟の心臓を、血色の凶手で貫いた。

 黒い少女はビクリと衝撃に身を震わせて──。


「……ああ、くそぉ……本当に、イライラする……ッ!」


 血泡とともに怨嗟をこぼす。

黒泥姫グレイブハート〟はぐらりと項垂れるように前のめりに傾くと、その名の通りに黒く、泥のように溶けくずれて消え果てて逝った。


 一方的な死闘の終わり、愚かな闘争の終結。


 静かに凪いだ静寂の中で──。

 ギシリと、深奥で何かが軋む感覚に、コウシロウの呼吸は大きく乱れた。

 鬼神の貌を力任せに脱ぎ捨てる。

 ガランッ──と、音を立てて転がった四つ眼の兜。血色の炎は急速に煙って、再び錆色に褪せて霊木の装甲に染み込んだ。

 一気にのしかかってきた疲労感。

 喉奥に迫り上がった鉄の味をどうにか呑み込んで、コウシロウはゆるゆると調息するように呼吸を繰り返す。


 ゆっくりと、慎重に繰り返して、霞む意識を懸命につなぎ止める。

 胸もとに焼けるような激痛が響いていた。

 黒狼に穿たれた傷。とうに塞がっている傷。


 けれど、魂に黒牙を突き立てられた消耗は────。


 額に滲んだ脂汗を乱暴に拭い、もう一度深い呼吸を繰り返そうとして、走った痛みに激しく噎せ返った。


「ああ……まったく……ままならない……」


 グチりながらも、落とした兜を拾い上げ、踵を返して歩き出す。

 痛みと消耗でフラフラと、それでも、確かに前を見すえて進んでいく。


「……約束……行かないと……彼女が……待って……」


 建物の入口をくぐり、玄関ホールを抜けて行く。

 それだけの距離が、何だかやけに遠く感じられて、コウシロウは苦笑いながら、進む。

 ようやく公演中の劇場に続く扉にたどり着き、それをゆるりと開いた。


 瞬間、場内からこぼれて響いた旋律。


 その美しく透き通る歌声に、コウシロウは耳を澄ましながら、静かにゆるゆると場内に身を滑り込ませて扉を閉じる。


 客席の最後方、照明の届かぬ薄暗い外壁に背を預けて立つ。

 劇場は違えども、公演観覧時のコウシロウの定位置。

 そこに陣取って、舞台上を見やった。

 ぼやけた視界の先には、照明に照らされながらなお輝く〝白雪姫スノーホワイト〟の姿。

 長い銀髪を煌めかせて歌い舞う彼女の姿に、その愛しい姿に、懸命に目を凝らす。

 綺麗な翡翠の瞳が、真っ直ぐにコウシロウを見つめ返してくれた。

 嬉しそうに、待ち望んだ想い人の到来に心をときめかせた〝白雪姫スノーホワイト〟は、奏でる歌声をより美しく、より強く、想いを込めて紡ぎ上げていく。


 美しい──と、そう感じられた。


 暗く濁った感情の中で、黒い情動しか抱けなくなったはずの虚ろな心でも、歌い舞う彼女は美しくて、綺麗で、心を震わせてくれる。


 なぜなのだろう。なぜ、今でもそう感じるのだろう。

 美しいという感動は、黒い心なのだろうか?

 綺麗だと感じる情動は、負の想いなのだろうか?


 しかし、負の情動を失ったはずのファナティアも、美しいものに感動していた。銀色に輝く狼の姿に、心を震わせていた。


 何かを美しいと感じる想いは、正でも負でもないのだろうか──。

 光でもなく、闇でもないのだろうか──。


 もし、そうなのだとしたら、それは何て素晴らしいことなのだろう。

 本当に美しいものは、あらゆる全てに響き渡り、その心を感動させることができるのだ。

 響く歌声に、もっともっと深く聴き入りたくて、コウシロウは必死に耳を澄ます。

 心に染み入る音色。感情に響く旋律。


「あなたの歌は……、歌っているあなたは……、本当に、綺麗だ……」


 祈るようにそっとささやかに、コウシロウは呟いた。


 ──いつまでも、このあたたかな安らぎを感じられますように──。


 それは、懐かしいあの故郷の森で、陽だまりに眠っていたのに良く似た感覚。

 愛しく、優しい心に寄り添われた、かつての日々。


 そんな失ってしまったぬくもりを確かに感じながら、届く歌声に魅入られるように静かに、銀狼の意識は安息の中に溶けていく──。


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