第2幕 狼と三人の姫

狼と三人の姫(1)


 黒髪の女は、その貌を凄絶なまでに美しく歪めて笑った。


『……さあ、これで其方そなたを縛る〝かせ〟は消え去った』


 倒れ伏した彼を見下ろすのではなく、深い夜空を見上げながら、錆びついた鈴を転がしたように濁った笑声をこぼし続ける。


『……自由を願い、血をいとうた其方の〝闇〟は、中々に濃く深かったぞ……』


 ペロリと舌舐めずりしながら、女はその金色の双眸を怪しく細めた。

 夜闇の中でなお黒く沈んだ女。

 その神代の災厄を睨み上げて、彼は嵐のごとく込み上げる激情を懸命に嚙み締める。


(……違う……!)


 否定の意志は、言葉となる前にかすれて消えた。


(……〝枷〟なんかじゃない……、僕は……!)


 彼はそんなことを望んだのではない。

 彼はそんなことを厭うたのではない。


「……僕が……望んだのは……!」


 ただ、彼はありのままに、自由になりたかっただけなのだ。

 それを──!

 こちらを睥睨へいげいする冷たい美貌。掛け替えのない、愛しい人の姿──その血肉を喰らい奪って乗っ取った黒き悪獣を睨み上げて、彼は咆える。


「……あの子の姿で、あの子の笑顔で、悪意を吐き出すな……!」


 咆吼は、血と泥にまみれて低く濁る。

 黒髪の女は、倒れ伏した彼を睥睨し、さも愛しげに嘲笑った。


『濃く、深い憎悪だな……そのドス黒さに相応しく、強いはらませておくれよ……』


 女は現に孕んだ我が子を愛でるかのように、その青白い指先で己の腹をゆるりとなでる。


 浮かべた笑みの酷薄さは、世界の全てを憎み尽くすかのように、険と邪に満ち満ちていた。


 忌まわしき黒き大神。


 憎悪を喰らい、恐怖を喰らう、魂喰たまはみの悪獣。


『存分に憎むが良い。その心の猛りがまばゆいほどに、我らの影は世界に染み渡る』


 自分たちの命に祝福は要らぬ。自分たちにとっては怨嗟こそが賛歌であり、憎悪こそが糧であると、そう改めて知らしめるように、黒髪の女は笑みを歪めた。


『ありがとう憎き〝銀狼〟よ。其方の願いが、我を解き放ったのだ』


 心からの感謝を込めて、黒髪の女は伏した彼を嘲弄する。

 ふくみ笑う笑声は相変わらず低く錆びついて、こぼれ出る吐息に血の臭いを漂わせながら、忌刃キバの黒狼はその長い黒髪をひるがえして背を向けた。


 もうここには用はないと、名残も興味も失せ果てたのだと、立ち去って行く女の姿。


 その禍々まがまがしい黒影を睨みながら、倒れた彼は動かぬ四肢に無理矢理に力を込めた。


 震えながら、かろうじて動いた右手。

 地面に爪を立てて、染みこんだ血のヌメリを諸共に無念を掻きむしる。

 そこに握り締めたのは白銀色の輝き。

 獣の牙を象ったそれは、愛する彼女の魂の残滓。彼はありったけの力を振りしぼって、強く強く握り締めた。


「望んでいない……こんなこと……僕は……!」


 伏した地面をぬらす血のヌメリ、それはあたり一面に溢れてこぼれた命の残滓。

 ともにこの地に息づき、ともに歩んできた同胞たちが流した鮮血の中に沈みながら、彼は内に渦巻き込み上げる想いを叫び咆える。


「僕は……! みんなで人間になりたかったんだ……!」


 叫声は苦痛と辛苦に刻まれて濁り、響くことなく夜闇に掻き消えた。

 だが、たとえ響いたところで誰に届くわけもない。

 今、この時、この場所には、ただ一匹の獣がひれ伏しているだけである。

 吐き出した願望はもはや叶うはずもなく、後悔となって己に跳ね返り内側に淀む。


 心の奥、熱した鉛のように重く淀むその黒い後悔に、彼は己が犯した罪の愚かさと、己が背負っていたものの重さを思い知る。


 あの忌刃キバの黒狼を縛りつけ留めるためのいましめ。


 その使命を、その重責を、彼は捨て去った今さらに、深く思い知ったのだった。


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