【三】

カン、カンと鋭い音。

 庭の欅の枝に止まっていたセキレイが驚いて飛び立った。春の空に木と木が打ち合わされる音が響く。

 道場としてはやや小さめだが三十帖ほどの広さだ。

 白い道着に紺色の袴を締めた、年かさの男の禿げあがった額に汗がにじむ。130センチ程の樫の木の棒を構える。

 剣より長く槍よりも短い。「じょう」である。

 同じ道着を着たあかりは息が荒くなっている。棒の先端をくるくると回してタイミングをはかる。

「やあッ!」

 気合いと共に打込む。かわす叔父。右、左、回す、振り下ろす。はねる、返される。

 防げない。胴にかすめる。離れる。はっ、はっと息があがる。

 右、左、右! 回る。足払い。ひらりとかわす叔父。杖の手元近くを打たれる。

「うッ」

 しびれる。回す。かわされる。回る杖。叔父が踏み込む。突き。あかりの眉間一センチ手前でぴたっと止まる。

 刹那、目を閉じるあかり。ちらっと片目を開ける。叔父がにこっと笑った。

「動きにまだむらがあるね」

「や……参りました」

 あかりは頭を下げた。


「まったくお父さんは――中学生相手に大の大人が本気になってなにしてるんですか」

 常滑の急須から茶を淹れながら叔母が言った。あかりの前に置く。ぺこりと頭を下げるあかり。

「いやいや、あかりちゃんはスジがいいんだよお前、ばかにしちゃいかん。油断してたらこちらがやられてしまう。並の大人ならひとひねりさ」

 どっかりと座った叔父が片手の手拭で頭を拭きながら、片手をひらひらと動かした。

「とんでもない。あたしなんかただのひよっ子で。叔父さんはやっぱさすがだなあと思います」

 今年六十になるはずだが、年齢よりも老けてみられることが多いと聞いた。

 言うまでもなく頭部のせいだろうとは思ったが、なんとなく気にしていそうなので指摘はしないあかりだった。


 ただいまあ、と声がしてがらがらとガラス戸が開くと同時に、泣きわめく赤ん坊の声が玄関に響いた。

 おかえりなさい、と叔母。従姉に当たる房江は、ひとかたまりになったスーパーのビニール袋をどさりと置くと部屋に入ってきた。

「もう参るわよ、雄太がこんなんだから買い物もひと苦労――あらあかりちゃんいらっしゃい。またお父さんの道楽につきあってくれてるのね」

「いえいえ、道楽だなんてそんな。わたしが春休みで暇ですから」

 あ、あかりちゃんちょっとお願い、と言って火がついたように泣く赤ん坊を差し出した。

 立ち上がって両手でそっと受け取ると、よーしよしよし、とあやし出す。

 すると、喉も裂けよとばかりに泣いていたはずの赤ん坊の泣き声がだんだんと小さくなる。みるみるうちに泣き止むと赤ん坊は疲れたのか目を閉じ、すやすやと眠り始めた。

 おー、と静かに感心する三人。

「やっぱりあかりちゃん才能あるわよ。ベビーシッターのバイトでもやったらいいのに」

 赤ん坊の手前声を潜めながら叔母が言った。

 そうよそうよ、と房江も同意した。「お父さんの道楽構ってるよりもお金になるわよ」

 や、たまたまですよたまたま、と言って寝入った赤ん坊を房江に返す。

 赤ん坊を抱いた房江は、寝付かせるためか奥に引っ込んだ。


「まったくみんなして道楽道楽って小馬鹿にしおる。今枝新流の流れをくむ由緒正しい佐伯流裏杖術をなんだと思って――」

「由緒由緒って弟子なんかいやしないじゃありませんか。あかりちゃんだってそんなに暇じゃないんですよ」

 話の腰を折って叔母がぴしゃりと言った。

「――いやまあ、あたしにも役に立ってることなんで」

 ちょっとしゅんとなった叔父がなんとなくかわいそうになったあかりだった。

「そうそう道楽といえば」

 叔父が立ち上がって道場のほうへ行くと、金属の棒を手にして戻ってきた。

「これちょっと見てくれ」

 と言うとあかりに手渡した。四十センチほどの長さだが、五センチほどのところに段差がある。伸縮式になっているようだ。

「ここ押すと伸びるんだよ」

 上下式になっているスイッチを太い指で示した。

「へえ、軽いですね」

 なんだか孫悟空の如意棒みたい。手の中で弄んでみる。

 だろ?と得意そうな叔父。ちょっと可笑しくなった。

「新製品のレムナイト五〇ごーぜろを使ってるんだ。これでもスーパージュラルミンの二十倍以上の硬さがあるんだよ」

 ふうん、とあかり。自慢されてもよくわからない。

 叔父の本業は金属会社の社長なのだ。年齢が年齢なので隠居寸前だとかで、暇だ暇だと言っている割には忙しそうだ。

「これ、例の『』とかもできるんですか?」

「できるよ。真ん中あたりの色の違うとこ押すんだ、こことそこね。」

 へえー。あかりは素直に感心した。護身用にあげるよ、と叔父。

「え?いいんですか」驚くあかり。

「やめなさいよ若い女の子にそんな重たいもの、じゃまじゃないの」

 叔母が茶々を入れる。

「あかりちゃんこないだ誕生日だったろ? いいじゃないかプレゼントなんだから」

 叔父がむくれる。

 いえ、ありがたく頂戴します、あかりは言った。



 夕方の帰り道。歩きながら考える。

(なんだろう、この感じ。――断っても別におかしくない状況なのよね)

 漠然とした思い。

 暮れる前の疲れたような陽光。家々の屋根の上の雲がわずかずつ色を変えていく。

 平和な午後の証にも見える空の色。あるいはいつまでも続くものと考えても不思議はない。

 しかしあかりの心は曇っていた。


(なにかが来る、遠くない明日。来てほしくない何かが)


 それは不安だった。

 必要になる時が来るかもしれないのね。

 あかりはカバンの中のはがねの棒を握りしめた。







 ギイは顎に手を当てたまま宙に浮かぶ画面をスライドさせた。

 あかりの顔画像。

 白衣の前から鮮やかなオレンジ色のブラウスをのぞかせてマリアンが画面をのぞき込んだ。ゴールドのチェーンネックレスがちゃらりと鳴った。

「この娘が『S』?」

「そう」

 ギイが素っ気なく答える。

「――何を考えてるの? ヨシコ・ギイ・トムラ」

 ギイの顔を見てフルネームで呼んだ。大学時代からのつきあいならではの習慣だった。ギイはちらっとマリアンの顔に目を向けた。

 鮮紅色の口紅がよく似合う。無味乾燥な研究室ラボで派手な化粧をするのはマリアンの一種の抵抗だった。

「この娘、自分の能力わかってるのかな、ってこと」

 マリアンがギイの眼を見た。

「これほどだとは思ってないんじゃないかしら。どれほどかは私たちも知らないけど」

 そうね、とギイは答えて再び画面を見た。

「調べてみたいわね。『ビー・ディ』に報告した?」

 ええ、と答えたが目は画面から離さない。

「――『引続き注視せよ』」

「指示、それだけ?」

「そう、それだけ」

 しばしの沈黙のあとマリアンが口を開こうとした時、ドアが開いてザキが入ってきた。

 派手めのチェックのシャツにグレーのジャケット。サングラスをかけた顔はうかない表情だ。二人を見てちらっと右手を上げ、口元を曲げた。

「あらましは聞いたわ。MMの人間?」

 ギイが言った。歩きながらああ、と答えた。

「名はケムガ。荒事専門の兵隊で、能力者だ」

「警察にもってかれたのはまずかったわね」とマリアン。ザキは両手を広げて首を傾げた。

「いま公安に手を回してこっちに回収する予定で人を動かしてるわ。引き取れたらあなたの方へ回すわよ」

 ギイが言うとマリアンが頷いた。


 先日の顛末をかいつまんで話した。ギイもマリアンも考え込んだ。

 よくわからない現象ね、とマリアンが言った。

「あんな状態は初めて見た。心を読んでいたわけじゃないからなんとも言えんが、なにかひとつのイメージに取りつかれたような感じだった」

「展開するイメージの暴走……心理攻撃マインドアタックみたいだけど。あなたの仕業じゃないんでしょう?」

 ザキは首を振った。

「俺は奴と精神攻撃ワザの掛け合いをしている真っ最中だった。そんな余裕はねえよ」

 それに、と歩きながら続けた。

「あれが攻撃だとしたら、人間にできる攻撃方法じゃない。イメージを固定化することはできないわけじゃないが、思考もろとも暴走させるなんてことをしたら、自分も巻き込まれて二人仲良く発狂だぜ」

 息をついた。

「……もし名づけるとしたら、『連想アソシエイション攻撃アタック』とでも呼ぶのかな」

 ギイの手が顔の下半分まで覆った。

 しばらく間があった。

「人間じゃないとしたら」

「……したら?」

「――『レイジ』」

 まさか、とマリアンの眼が鋭くなった。

「なぜ?」

「ただの勘」


 そう、ただの勘。ギイはひとりごちた。


 でも、なぜ今なの?

『あの娘』と何か関係があるの?







 結局つき合わされた。


「次!『荒野の大天使マックスオーバードライブ』いきまーす!」

「まだやんの?」

 げんなりするあかり。

 派手なイントロから始まると、みつるは立ち上がって踊りながら歌い出す。

 黄色のワンピースの肩にカーディガンを巻いている。くるくると踊る動きはまあそこそこ合っている、ような気がする。

 しかしセンテンスごとに微妙に音程がはずれているところが致命的だ。すべての間隔がズレている奇妙な音。これが延々と続く。

 続けて聞いていると非常に不快な気分になる。

(音痴もここまでくると立派な才能だわ)

 あかり、ため息。コーラの飲みすぎで胸やけがしてきたところへ容赦ない追撃が襲い掛かる。

 対抗してあかりも歌ったが、立て続けにぶちこまれる音痴な歌の嵐にすでにへとへとになりかけていた。

(なんでアニソンばっかなのよ。イメージ狂うからやめてくんないかな)

 言ったところでどうせ聞きはしないので言わない。

 あかりが歌ったのは二曲。あとは延々八曲も歌っている。

(ノド頑丈にできてるなあ、脳みそもか。……あー、お風呂入りたい)

 いえーい! でキメるみつる。うぇーい、と口の中でモゴるあかり。

 やっと歌が終わった。

 あーノドかわいた、と言ってソーダをごくごく飲む。

 はあ、とうなだれるあかり。疲れた。


 ふ、と顔に風を感じた。

 顔を上げる。え?室内よ? ――空調?


 なにかの匂い。なんだろう、すごく懐かしい匂い……。

『鍵』はかかってる、よね。じゃあ、この感覚は……どこから?


 無意識にリモコンに手を伸ばす。

 え、歌うの?

 手が勝手に動く。


 おだやかなイントロ。ディスプレイには山の夕景。

「『あしたの子守歌』?」


 ねんねん、ぼうやも、ねんねんよ

 きのうも あしたも 繰り返し

 痛くて 泣いたも もう昨日


(こんな歌、知ってたっけ?でも、懐かしい感じ……)


 ねんねん、ぼうやも、ねんねんよ

 明日は 母さん 来るだろか

 今日は 泣いても また明日


 ねんねん、ぼうやも、ねんねんよ

 今夜は こうして 一晩中

 ぼうやと 泣いても もう明日


 ねんねん、ぼうやも、ねんねんよ

 明日も きのうも ありません

 母さん いつでも そこにいる


 ねんねん、ぼうやも、ねんねんよ

 ねんねん、ねんねん、ねんねんよ



 涙。

 あれ? なんで泣いてるの、あたし……。

 指先で拭う。ふと傍らを見ると、みつるも泣いている。

「――なんて寂しい歌なの。なんか切ない」

 そうだね、と言ってしばらく佇んでいた。


 

 みつると分かれて、河原の土手上のサイクリングロードを自転車を押しながら歩いた。

 もう夕暮れだ。

 子供の頃から考え事をするときはいつもここを歩いていた。

 川面を風が渡ってくる。冬の残り香が呼吸を冷たくする。川の向こう側を見やった。

 冬枯れの蒲の葉が風に揺れている。中州を歩いていた山鳩が羽音をたてて飛び立った。


 ジョギングしている老人があかりを抜き去って行く。公園帰りであろう親子連れとすれ違った。三歳ぐらいだろうか。片手を母親と繋ぎ、黄色い砂場用のバケツをふらふらと振っている。

 遠ざかって行く親子連れに目をやりながら、考えた。


(赤ん坊抱いたせいとかかな なんかナーバス。……でもなんだろう、あの懐かしい感じ)


 思い出す画像。残景。山村。暮れてゆく陽。帰り道。


 ――どこへ帰るのか。


 ――家もある、親もいるのになんでどこかに帰りたいと思うのだろう。







 こつん、こつんと太い指が石の机を叩く。

「――どうしますか、バトンガ様」

 呼ばれた男は指の動きを止め、声の主を向いた。

 いかつい首が音を立てるように動く。顔に入った稲妻のようなタトゥーが照明に浮かび上がる。にらまれたルスマはわずかに小さくなった。

OZオズの連中の手に渡すわけにはいかん――始末しろ」

 はっ、とルスマが頭を下げた。

 ケムガがしくじるとはな。バトンガは舌打ちした。

「ジェンのやり方が手ぬるいからこういう面倒なことになる」

 重い声。太陽の紋章の入った胸当て。腰の太い剣を鞘ごと抜き、机の上に置いた。ごとりと重い音がする。

「はい」

 いっそのこと街ひとつ吹き飛ばしてしまえばいいのだ。バトンガは思った。

 そうすればいちいち能力者の心配なんぞしなくてすむ。

「ニオに命じてナイアを見張らせろ」

「わかりました」


 ジェンより先に能力者を始末してやる。見ていろ。







「あー、すっきりした」

 頭にはタオル。今日は洗濯したてのパジャマだから気持ちいい。やっぱお風呂が一番だね。

 リビングをのぞくと母の美千代が立ったままテレビを見ている。腰にはエプロンをしめたままだ。

「どうしたの? ママ」

「土場総合病院で爆発だって――ここけっこう遠いけど、あかりちゃんが小さい頃風邪ひいた時行ったことあるとこよ」

 画面を見たまま不安そうに言った。

「えー……」

 テロップが出ている。



『意識不明で入院中の外国籍と思われる患者一人が死亡』




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