【二】


 夜。

 住宅街は家路につく人の気配もなく、静かだ。幹線道路からはずれているこの辺りは交通量もほとんどない。時折遠くの通りを走る車の音がわずかに響くだけだ。

 街灯の少ない道を選ぶかのように影から影へ、静かに、だが速足で男は歩いていた。

 パーカーのポケットに手を突っ込んでいる。マスクから漏れる息がわずかに白く後方へたなびく。

 曲がり角で周囲をうかがった。左右を見る。街灯の少ない工事現場側の道を選んだ。

 鋼板で囲まれた長い仮囲いに沿って歩く。

 囲いの途切れた箇所、暗がりからいきなり手が伸びて、男の胸元を掴んだ。

 男が現場の中へ引きずり込まれた。


 建築途中のむき出しのコンクリートの柱に男を叩きつけた。

 黒の皮ジャンにチノパン、サングラスをかけた男がにやりと笑う。


「どーも」

「誰、ダ」

 パーカーの男は態勢を立て直すとサングラスの男に向き直った。

「誰でもよかろう。あの子はまだCなんでね、今からヘンな虫がつくと困るんだ」

 パーカーの背中に下から手を回す。手を抜くとそこには刃渡り30センチほどの「く」の字に曲がったナイフが現れた。

 呼吸がしずらいのか片手でマスクをはずし、投げ捨てた。

 浅黒い顔。分厚い唇の周囲には白い放射状のタトゥー。

兵隊ソルダードか。届出なんかしてねえだろお前。銃刀法違反の現行犯だな」

 サングラスをはずす男、ザキ。その双眸が青白く光る。

「能力者、コロス。ケムガ、仕事」

 男が切りかかってきた。

 かわす。体重をかけて当て身をくらわす。ケムガは足を固めて踏みとどまった。

 右、左、縦横にナイフを振り回す。

 ザキは素早い身のこなしでナイフをかわし、掻い潜ってふところへ飛び込み胸ぐらを掴むと背負い投げをかけた。

 コンクリートの壁に叩きつけられ、頭から床に落ちるケムガ。ナイフを取り落とした。

 起き上がりかけたケムガの顎にサッカーキック。ごあっと声をあげると仰向けに倒れかけたが無理やり持ち直した。

 タフな野郎だ。一瞬感心した。

 そのまま頭から突っ込んできた。腹に衝撃。もみあう。引き起こす。

 ケムガの手首から鋭い音をたててナイフが飛び出した。

 「くっ!」

 鼻先で手首を食い止める。ケムガが全体重をかけて押してくる。後ずさるザキ。

 「ぬう!」

 ザキの双眸が青白く光りだす。頭を押さえて弾かれたように下がるケムガ。ザキは右手をつかみかかるようにかざし、意識を集中した。

 ケムガが顔をしかめ、頭をかかえたまま体を折る。起き上がる頭。ケムガの双眸も赤黒く光る。

 ザキの頭に締め付けられるような痛みが走る。こいつも能力者なのか。

 念を絞るザキ。頭を押さえながらナイフを向けるケムガ。じりじりと近づいてくる。間合いが詰まる。

 右手に力をこめるザキ。ナイフの切っ先が右手に接するかと思われるほど近づいた。


 と、突然ケムガの力が抜けた。

 誘いか、と力を抜きかけたザキが構えたとき、様子がおかしいことに気づいた。

 宙を見ている。ナイフの先で宙に絵を描くようにふらふらと腕が動く。

「――マリポサ

 つぶやいた。何?

 ケムガがぐるぐると回り始め、虚空にナイフを振り回している。

「マリポサ……パジャリタ……マリポサ……」

 まだ回っている。どんどん早くなる。

 永遠に回り続けているような錯覚に陥ったとき、ケムガが昏倒した。


 動かない。

 ザキがゆっくりと近づいた。そっと片膝をつく。

 ぼんやりと眼を開けたままだ。半開きの口元から涎が垂れている。

 指先をケムガの額に当てた。注意深く意識を集中する。


 蝶。灰色の背景の中にじっと動かない巨大な一匹の蝶がいた。

 だんだん風化するように心象は薄くなっていく。指を放した。


「――どうなってんだ、こりゃあ」


 しばらく間があった。

 始末しねえと。左腕の腕時計の蓋を開く。虚空にぼおっとテンキーが浮かび上がる。番号を押す。

『FSS緊急です』

 虚空に声がする。

「こちら029、コード11――」

 ザキが言いかけたとき、囲いの向こう側から物音が聞こえた。静かな住宅街だ。だいぶ遠いが、あっちです、という声が聞こえる。

 騒動を訝しんだ住民が通報したか。ちっと舌打ちした。

「――悪りい、撤回」

 言って蓋を閉じる。囲いの隙間から注意深く辺りを見回し、ちらっと倒れているケムガの方に目を向けると住宅街の方へ足早に歩き去った。


 サーチライトの光が二つ、現場に近づいてくる。



 物陰から髪の短い、黒い服の少女が光る眼をちらりと出し、すぐに闇の中に消えた。

 







 ナイアは悲鳴をあげて飛び起きた。


 頬を両手で包む。油汗がこめかみを伝った。

「あ……ああ……あ……」

 うめき声が漏れる。自分の声だとわかるまでに時間がかかった。


 真っ黒い、大きな、深い深い穴。

 なんなの……なんなのあれ。

 突然がばっと開いた。怒涛のように自分の網が吸い込まれていった。

 呑み込まれる寸前に回路を切った。あと半秒遅かったら、戻ってこられなかった。


 ナイアは寝台から這って降り立った。腕が震えている。

 テーブルの上のデキャンタから透明なカットグラスに水を注ぐ。縁に震えが伝わってかちかちと音を立てた。

 水を飲む。口元から溢れて顎を伝い石の床に滴り落ちる。

 動悸が治まらない。ぐるぐると部屋が回っている。


 扉が開いた。ジェンが入ってくる。

「どうした! 悲鳴が俺の頭の中にまで聞こえたぞ」

 太い声が響く。全身が安堵するのがわかった。

 ぐらっと身体が傾いた。ジェンが抱きとめる。たくましく太い腕の感触。

 ジェン様。――どうか時よ止まって。

 気が遠くなる。声を絞り出す。


「……穴、大きな暗い、深い穴、いま、誰か、が、落ちた」

 ナイアは意識を失った。








 バスタブのへりに腕を組んで顎を載せ、タオルを巻いた重い頭を傾げる。

 あかりはふー、と息をついた。

 昼間のモールでのことをぼんやり考えた。


 あたしは何も考えないで掴んでた。みつるもそんな風に見えた。

『鍵』は間違いなくかかってた。

 じゃあなんでなのかな? ――ただの偶然かな。たぶんそうだよねー。

 風呂の熱で頭がぼーっとしてくる。これがまたいいんだなー。


「あかりちゃーん! いい加減にあがりなさーい。いつまで入ってるの。ふやけちゃうわよー!」


 ドアの向こう側から声がした。はーい、と答える。


 洗面所でお気に入りのバスタオルを体に巻いて鏡に向かう。

 胸の真ん中に1センチほどの小さな赤いアザがある。

 ほどけかけた渦巻きのように見える。子供の頃からうっすらとはあったけどあんまり気にしてなかった。


 なんか大きくなるにつれて少しずつはっきりしてくるみたい……。

 ――気のせい、よね?


 






 ナイアの看病を部下にまかせ、ジェンは研究室にいた。


 ジェンの話を聞くと、姉原教授は目をぎらつかせた。

「――『メディオディア』だ。間違いない」

 白衣のポケットに手を突っ込んだ。うろうろと歩き出す。

 壁際一面の機械が低いうなり声を上げていた。

 その傍らで薮田がパイプ椅子に座っている。

 薄いピンク色のワイシャツにカーキ色のジャケット。紺のスラックスの足を組み、黒縁眼鏡の奥の目を眠そうにしばたたいた。

「――今はまだ目覚めたばかりだからそんなものだろう。だがいずれ、その穴は世界を呑み込むまで大きくなる」

 教授は唸るように言うとジェンに向き直った。

「『超越者』を見つけたら、絶対に殺すな。生かして儂のところへ連れてくるのだ」

「で、どうするんです?」

 薮田が口を開いた。からかうような口調だった。

「決まっているだろう。ディメンションフィールドシンクロナイザーにかけなければならん」

 当たり前のことのように言った。

「あらあヤバい機械ですよ教授。また廃人増やす気ですか。もう二人ぶっ壊してるんですよ」

 薮田があきれたように両手を広げた。教授の血走った眼がぎろりと動く。

「何を寝ぼけたことを言っておる。人類の危機を救うためだ。能力者の人権がどうこうなどと言ってる場合かね」

 薮田は首を振った。

「後始末するほうの身にもなってくださいよ」

「それが君の仕事だろう。つべこべ言わずに動きたまえ」

 にべもなく言った。



 ジェンは研究室を出て石の廊下を歩いていた。

 壁の薄暗い照明が柱型の影をあいまいに映している。

 柱型の前でジェンは立ち止まった。

 反射的に剣の柄に手をかけた。

 影がすっと動いた。体にぴったりと張り付いた黒い服に短い赤毛の髪。

 少女――ネコ・セレトゥーナが控えていた。


「俺の前で気を消すな、言ったはずだが」

「申し訳ありません。習慣で」

「よい。……どうした」

「――ご報告が」





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