その想いに

 ローラムの幽閉場所は、エルトンとは比較するのも躊躇われるほど、快適だった。

 何しろ初夏において寒いくらいの室温である。

 天井は斜めで細長い部屋だが、四方を囲むのは見慣れた一般的な壁だった。ただし所々にひびが入り、いくつも穴が開いている。力の限り殴り破壊されたような穴の一つに差し込まれた杭に鎖で繋がれてはいるものの、少し動いただけで簡単に拘束から逃れられそうだった。大きな窓はないが、日差しや風が入ることを望めはしないが、廃棄熱が入り込むこともない。

 ここが階段の下であり、秘密裏に作られた隠し部屋だと気付いたのは、押し込まれて間もなくだった。

 この部屋は、階段の踊り場に面していた。唯一の窓は細長い扉のようであったがはめ殺し窓で、部屋の中から見れば窓のようだが向こう側からは鏡になっているらしい。最初は人が通るたびに驚いたものだが、やがて、向こう側からはこちらが見えていないとわかった。時々自分の姿を映して髪や服を直す人がいたからだ。通常の窓であったならばあちらからも見えるはずだが、窓の向こうを通りがかった人々は、ローラムに気付く様子は全くなかった。

 不思議なからくり仕掛けの窓だ。こちらの姿は見られないが、あちらの姿は見ることができ、音も聞こえてくる。はめ殺し窓と言ってもその作りは甘いらしく、音と共に隙間風も入ってくる。向こう側の音はそこまではっきりと聞こえるわけではないが、聞き取れないほどでもない。いつしかローラムはここに入れられている間、ぼんやりとからくり窓を眺め、通り過ぎる人々の些細な会話に聞き耳を立てるようになっていた。

 ここにいるのに、まるで無視されているような気分だ。

 見えていないだけでわざとではないとわかっているものの、やはり気が滅入る。見張りとしてノジーが何人かいたが、彼らはローラムと話をしてくれる気はないようだった。そもそも言葉が通じるのかさえ不明だ。ノジー同士の会話を耳にしたことがあるが、彼らはキーキーと甲高い声を発していただけだった。そうと悟られないように暗号化しているのか、種族としてのコミュニケーションのやり取りがそもそも高音波なのか。

 けれど、ローラムたちの使う言葉を話せる者も確かにいる。

 たった一言だけローラムに彼らがかけた言葉。

 アイレン、と。

 敬うような響きで発せられるその言葉は、あまりにも単発過ぎた。ローラムに彼らが何かをするときに使われる言葉は、その度に言われるものではない。おそらく、ノジーの中でも特定の者だけが使っている。

 名前のようだ、と思う。

 サヴィアンに対して使っているところを見たことはないが、彼らは盲目的にサヴィアンに従っているので使う必要がないとも考えられる。ノジーたちの間では人間とか、お前とか、そういう意味合いがあるのだろうか。

 このくそゴリラとか、そんな意味だったら、泣きそうだ。

 ノジーの一人が床を抜けて現れた。キーキー言いながら周りのノジーに指示を出し、ローラムを捉えている杭を引き抜く。するりと抵抗なく抜けた杭が音を立てて床に放り出され、ローラムは後ろを向かされた。手当てをしてくれるつもりらしい。蒸されたタオルを傷口に押し付けられ、ぶり返した痛みに顔を顰める。タオルが外されるとベタベタする薬を丁寧に塗り込まれ、端切れを繋ぎ合わせたもので傷口を覆われた。

 罪人扱いされているのか、わからなくなる。

 サヴィアンのローラムに対する扱いは確かに罪人にするもので容赦なかったが、食事はきちんと三食提供されるし、そのどれもが温かい。残り物とは考えられないほど丁寧に盛り付けられていて、新鮮な野菜やスープはたっぷりと、パンも焼きたてのように柔らかい。肉はないが、時々果物もついていた。

 手当てが終わり、例の如く境遇に見合わない食事が運ばれてきた。焼き立てパンの香ばしい香りが途端に部屋中に広がり、ローラムの鼻孔をくすぐる。エルトンもこんな食事を出されているといいのだが、彼の憔悴しきった状態を目の当たりにした今、そんな可能性はないに等しいと確信めいたものが脳裏で鈍く広がって行く。

 なかなか手を付けようとしないローラムに、ノジーたちが戸惑う。鎖はすでに外され自力で食べることもできるが、とてもそんな気分にはなれなかった。

 殺さず生かさず、飼われている。

 エルトンとは異なる待遇は、ローラムが死んでは困るが生きていられても都合がよくないと言っているようなものだ。

 自分のどこにそんな価値が、と自虐的になりかけて、思い出す。

 血か。

 孤児で異民のローラムにあるものは、先日唐突に明かされたその出自だけだ。自分そのものの価値ではない。本人でさえ知らず、隠されていたのだから、他人のサヴィアンが知っているのもおかしな話だが、ローラムに対してのみ隠されていたというのなら有り得ることだ。そんなことをして何になるのか。時期が来るまで逃がさないようにしておくためか、無駄な野心を芽生えさせないためか。いずれにしても、栽培されていたような気分だ。

 刈り取るのが誰か、というだけで、ローラム自身が自分をどうこうできるものではない。

 突然乱暴に扉が開かれ、付近にいたノジーの何人かが来訪者に蹴り飛ばされた。

 サヴィアンだ。可愛らしい姫のような出で立ちの彼は、今回は黒いドレスを着ていた。これからどこかへ行くのか、帰ってきたところなのか、ドレスをすっぽりと覆ってしまえるほどのマントを羽織っていた。踵の高い靴はドレスの黒とは正反対に白く、ヒール部分だけが銀色だった。

 部屋中に散っていたノジーたちはさっと壁際に身を寄せ、蹴り飛ばされた仲間を助けることはなかった。蹴られたノジーたちは倒れた格好のまま床に溶けるように沈み込み、その人数と同じだけ別のノジーが床をすり抜けて現れ、壁際に並んだ。

 サヴィアンの目の届かない床下で、怪我の手当てをしているといいが、と思う。自分を捕まえている者の手下なのにそう思ってしまうのは、あまりにも彼らへの扱いが酷いからだ。彼らのほうが自分よりもよほど不憫な気がしてならず、ローラムは彼らへの行為に異議を唱えた。

 じろりと睨むように室内を見渡したサヴィアンの目が、未だ手つかずのままのローラムの食事に据えられる。食べるようにと促されることはなかったが、食べないのならいらないだろうとでも言うように、爪先でトレイごとひっくり返す。被ったスープはすでに温く火傷をすることはなかったが、丁寧に切られた野菜が体に張り付いた。

「印章の在り処を思い出したか」

 ローラムは首を横に振った。申し訳なく見えるように深く頭を下げていたが、通用しなかった。頭を掴まれ、床に散乱した食事に顔から飛び込むように倒される。小さな水たまりとなっていたスープが鼻に入り、ローラムは咳き込んだ。

「下品な」

 起き上がりかけていたところを蹴り飛ばされ、咳き込んでいたローラムは横倒しになった。ころころと転がった先で先端からスープを吸い込んたパンを拾ったサヴィアンはローラムを仰向けにさせると口元に押し付けてくる。

 ローラムは懸命に口を引き結んでいたが、サヴィアンは腹を殴り、無理やり開かせた口にパンをねじ込んだ。水分を含んだパンはふにゃりとしていて、舌に触れただけで崩れていく。どうあっても飲み込むまで手を放す気はないらしいサヴィアンの様子に、ローラムは諦めてパンを飲み下した。

 丸々一つパンを平らげたローラムに満足したのか、サヴィアンがようやく手を放す。ほっとしたのも束の間、サヴィアンの冷たい視線が突き刺さった。

「お仲間は助けには来ないのか」

 見放されたのか、という声に嘲りが感じられる。だがローラムには何のいら立ちも不安も起こらなかった。曲がりなりにも必要だと言ってくれた人はいたがその手を取らず、長い時を共に過ごした人には自分から見切りをつけた。ずっと近くにいたいと憧れていた人は、今は孤独な死へと緩やかに向かっている。仮に助けが入るとするならば、ローラムよりも彼の元へ参じるだろう。

 仲間なんていない。

 領主の印章は仲間が隠し持っていると考えたのだろうが、生憎と寂しい身の上だ。

 エルトンの屋敷で厄介になっていたことは知られているだろうし、すでに捕らわれているエルトンはそれこそ隅々まで調べられているだろう。気がかりなのはエルトンの家族や屋敷で働いている人たちだが、無事であることを祈るしかない。

 知らぬと言い続けていれば、じきにそちらにも追及の手が伸びるだろう。

 しかし、知らぬものは知らぬとしか言いようがない。嘘を吐こうにも、すぐにばれてしまうような嘘では意味がない。

 印章を手にしたら、サヴィアンはエルトンを本当に殺してしまうかもしれない。

 エルトンが生かされているのがローラムとのつながりを疑われてのことであるならば、印章が出てこない限り存命を望めるが、発見されてしまっては用済みだと処理されてしまう可能性が高い。不幸中の幸いなのは、サヴィアンが領主としてこの地を支配するだけではなく、ローラムの立場も利用し、その権利があるとされる深幽境まで手中に収めようと考えているかもしれないということだ。深幽境がどういうものなのかもよくわからないが、権力が手に入るのならば、より立場の有利なものを、より影響力の強いものを、と望むのが野心家の心理というものだ。

 ローラムがエルトンを気にかけている限り、エルトンの命はある。逆に言えば、ローラムを脅すために、エルトンは命を落とす可能性がある。

 要はサヴィアン次第だ。

 壁際にずらりと並ぶノジーを見もせずに食事を片付けるように言い、サヴィアンは忌々しそうにローラムを見下ろした。

「領主はじき、末期を迎える。そうなれば正式に私が領主の座を引き継ぎ、お前たちを好きなようにしてくれる」

「……ご回復されなかったのですか」

「するもんか。あんなくそ爺、とっととくたばれと手を下した張本人が、何をいまさら善人ぶる」

 これで晴れて殺人鬼だな、と言い捨て、サヴィアンが唾を吐く。

 ローラムはその言葉を暗い気持ちで聞いていた。

 自分が引き起こし、いつかはこうなると予測していた事態であるものの、目の前に突きつけられるとやはり心苦しい。自分の意思ではなかったとユハのせいにできなくもないが、そうしてしまえば自分というものが本当になくなってしまいそうで怖かった。半ば自棄になり、償おうと領主館にやってきたローラムを最初に発見したサヴィアンにそのまま幽閉されるように囚われてしまったのは、運がないとしか言いようがない。

 せめて一目、直接謝罪をしたかった。それで罪が消えるわけでも、傷が癒えるわけでもないが領主が末期を迎えるのならば、冥福を祈りたい。

 そんなようなことを言って、サヴィアンに縋った。けれども縋りつくなと突き放され、突き飛ばされた拍子にローラムは頭部を壁に強打した。

 サヴィアンが近付いてくる。頭を打った衝撃か、彼の靴が床を踏むたびに耳鳴りがする。さらにローラムを蹴り飛ばそうとサヴィアンが足を上げた。鋭く尖ったヒールの先でローラムの心臓に狙いをつけ、ヒュウ、と風を切る音がする。

 すごく痛そうだ、と思う。

 逃げる気力なんてなかった。眼の前がくらくらして、動けるような体でもない。

 大きく後ろに引かれ、突くように繰り出された蹴りは、しかしローラムの心臓ではなく、目を狙っていた。

 左目の瞼をヒールで突き刺され、絶叫する。

「あ、あああああ!」

 ヒールが引き抜かれ、ぼたぼたと血が溢れ出る。左目を押さえた手を無理やり外され、手に持ったヒールの先で今度こそとばかりに眼球の下に刺し入れられる。

 目が、くり抜かれる。

 あまりの痛みに、ローラムはサヴィアンを突き飛ばした。ふらりと数歩よろめいただけのサヴィアンは手から落ちた靴を拾い上げる。悪かった、と謝られたのは、一度で抉り出せなかったことへの自虐的な嫌味だ。

 濡れたボールのように落ちたローラムの眼球を靴の先で突き、サヴィアンが首を傾げる。

「思ったより上手くいかないな。これはちょっと潰れてるのか? まあ二つ持っていけば、どっちか採用されるだろ。生きているうちに取り出したほうが鮮度が良くていいらしいからな。暴れるなよ」

 ローラムを床に押し倒し、右足で胸を踏んで押さえつける。肋骨がぎしりと音を立てた。圧迫されすぎて息をするのも苦しい。肺に空気が入らない。ローラムは必死に頭を振って逃れようとしたが、顎をがっちりと捕まれ、身動きできなくなってしまった。

 ヒールの先が、ローラムの残っている右目へと向けられる。

 一寸違わず、躊躇なく眼球をくり抜こうとするサヴィアンの顔には何の感情もない。まるで作っていた人形の目の位置を間違えたので、一度取ってやり直そうとするかのような、ただの行為だ。

 せめてもの抵抗とばかりにローラムはぎゅっと目を瞑った。同時に瞑った左目から溜まっていた血が溢れるのがわかる。

 だが、しばらくしても右目に痛みがやって来ない。

 とうとう感覚までおかしくなったかと思って目を開けてみると、ローラムの目の前にはノジーがいた。両手をローラムの顔の左右の床に着き、覆い被さるように四つん這いになっている。矢継ぎ早にびく、びく、と痙攣するように体を震わせるのは、サヴィアンが尖ったヒールを両手で力の限りノジーに振り下ろしているからだ。

「なんで……」

 不器用に、不細工にノジーが口の端を持ち上げて歯を見せる。笑いかけてくれたのだと、その時初めて気が付いた。

 ローラムを庇っていたノジーが、不意にいなくなり、床を転がって行く。立ち上がったサヴィアンが蹴飛ばしたのだ。ノジーはそのまま蹲り、起き上がろうとしなければ、床に沈み込むこともない。

 気を失ったのか。

 サヴィアンが再びローラムに手をかけようとすると、今度は部屋にいたノジーたちがわらわらと集まり、ローラムをすっかり囲んでしまう。隙間なくノジー同士が腕を組み足を絡め合い、まるでかまくらの中にいるような妙な安心感がある。

「チッ。情でも湧いたのか、魔物のくせに。……ああ、魔物同士だったな。そりゃあ通じるものがあるわけだ」

 サヴィアンは忌々しそうに吐き捨て、ローラムの眼球をハンカチで包み拾い上げた。ハンカチの端を二本の指で摘まみ、靴を回収する。手にぶら下げた靴の先から血が滴るのも気にせず彼が部屋を出て行くのを、ローラムはノジーたちの僅かな隙間から見た。

「おい、もう大丈夫だ……あいつを」

 声をかけると、ノジーたちがばらばらに分かれてローラムから離れていく。ローラムは床を這いながら、蹴り飛ばされた先でぐったりしているノジーに近寄った。動くとずきんと痛みが脳天を貫く。ローラムは腕を伸ばしたが、あとほんの少しだけ、ノジーには届かなかった。

「お前、なんで僕を庇ったんだよ……。いつもみたいに、壁になっていれば怪我だってしないのに」

 視界がぼんやりと赤く霞んできた。

 血でも入ったか、口の中に鉄の味が広がる。

 動けるノジーたちの数人が、倒れているノジーに駆け寄る。ほかのノジーたちに腕を引っ張られごろりと仰向けにされたローラムは、僅かに頭を仰け反らせた。何とか視界に入れた倒れたノジーは、仲間に手当てをされている。

 良かったと同時に、あのノジーは、言葉をしゃべるノジーだったのだろうか、と思った。

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